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考えてもみれば、それは当然のことだったのかもしれない。
歩いても歩いても命尽きるまで歩き続けてもまだまだ途切れることを知らない道。
その先にある答え。
その答えがどんな結果を作ろうと、お構いなしに流れゆく時間という固定資源。
不条理に淡く青い天は、仰いだ両手を理不尽に濡らしていく。
小さな小さな雨粒たちが白い腕で舞踏しては何処ともなく弾けていった。
ひどく寒い日だった。
何をするにも悪寒が纏わり付いた。
雨空は見ているだけで陰鬱になりそうで、目を閉じ耳を塞いで1日を過ごした。
こうして雨と戯れているなど、当然のように不本意極まりないことだ。
――そう、当然のことだ。
雨が降っていることのように。
伸ばした両手が濡れることのように。
だから俺の、成田千影の命の光が今消えようとしているのも、
当然だったのかもしれない。
半年ほど前、俺は青春のまっただ中にいた。桜花散り乱れる並木道を自転車で駆け上がり煌びやかな街道を抜けると、そこにあるのは桃源郷。このシャングリラは、名を『野川学園都市第一高等学校』と言う。
ここが俺の青春の舞台。青春と言ってもありふれたもの。誰もが経験したような、一般論が指すところの青春。だが今思えば幸せな毎日だった。
その慌ただしくもどこか暖かい日々の中で俺が見出した結論、それは――
「きっとこの世は繋がっている。だから巡り巡る出逢いは、必然なんだ」
――そう思いたい、信じたい。巡り逢いが俺を大きく変えた。たとえばそれは小さな少女との出逢いであったり、一青年との出来事であったり。半年前の自分はまだ何も判っていない、無知な少年だった。無論、俺があと半年で死に至る危機になろうことも。
何故俺は18歳でこの世を去ることになったのか、今から語られるそれは喜劇かあるいは……――話は半年前までさかのぼる。
***
『時として人は、傷付けあうものである。』
今や当たり前ともいえること。誰もがそう思っている。それ故に忘れがちである。人間は学習しない。傷付けるのもられるのも、怖いからって手を引っ込めて。世知辛い世の中だと言われても頷けてしまう。
そのくせ、妙に繋がりたがるんだ――
――5つの花弁が切り離されては春風に舞い、遠くへ行って見えなくなった。ソメイヨシノは散り始め4月も残すところあと少しの、晩春のある日。脈絡もなくそんな考えに耽っていた。
教室の一番端、後ろから2番目。その席はいつも変わらず空席で、相も変わらず俺の目の前。主を失った机に、果たして需要はあるのだろうか。
俺のひとつ前にある机、深井雪良という女子の席。何でも不治の病に侵され登校はおろか、生命の存続さえも危ういのだという。話したこともなければ、何より会う機会が一握りの砂程度であり、どんな顔だったかさえも記憶に残っていない。
余命も僅かと伝え聞いた。不憫だとは思うが、正直なところあまり頓着していない。――『どうでもいい』、というのが非情ながらの俺の真意。今は、自分のことで精いっぱいだった。
その頃の俺は青春真っ盛りであり、クラブ活動に勉強にアルバイトにひたすら有り余る若き活力を費やし続けた。部活や勉強はともかく、バイトをするにあたって他意はあった。生計を立てなければならなかったのだ。先日から、家族4人暮らしが妹との2人暮らしに変わってしまったためである。
我が家にはもともと親がおらず、姉姉俺妹という家族構成で成り立っていた。が、突如としてその姉2人がいなくなった。無論、健在ではあるが。一方の姉は上京し、もう一方の姉は留学した。そして今の暮らしに至る。
今まで養ってもらった分、養わねばならない。家族を支えることの重大さと辛さに打ちひしがれそうだった。ものぐさだった自分が、働かなければならないのだ。当初こそ過労により――俺にとっては――ままならないどころか倒れて病院送りにされることも多々あったが、現在は慣れ親しんでいるため生活には欠かせない。しなければ生活もできなかったが故に始めたものではあるが。
気付けば高校生活も残り1年を切り、何もかもがバラ色に。教室の窓から見下ろせる道路にも、散り乱れる桜とその季節を入れ替えるようにバラが並木を築いている。文字通り、バラの淡いピンク色に全てが染まっていく気がした。――と、
「……りた、い……か?いなりた……いて……か?おい成田、聞いてるか?」
その言葉が俺の耳元に届いたのは、幾度となく反芻してからだった。
「ああん?」
不意に破られる頭中の静寂。次いで生まれる頓狂な声。あくまで自分の中では頓狂な声を出したつもりだったのだが、俺に集まる視線には、畏怖や恐怖の色が見えた。
「な、成田くん。い、今授業中ですよ」
隣から怯えたような声で囁かれた。ふと横を向くと、女の子が声の通り怯えたような表情をしていた。彼女は名を日下紗雪といい、丁度俺の前の席の深井とかなり親しかったらしい。そういえば2人とも名前に『雪』って字が入るな、と妙な思考を巡らせたあと日下に目をやると、顔面を蒼白にしてぶるぶる震えていた。
「ご、ごめんなさい成田くん!もう何も言わないから……そんなに、怒らないで……ください……」
授業中だとさっき自分で言っておきながら、たいそう大きな声で叫ぶ日下。
その姿を見て、はぁぁと風船が萎んだようなため息をつく。俺は怒っていないんだがなぁ――だが理由はわかっている。俺のこの無愛想な態度を見れば、誰だっていい気はしないだろう。俺は自分のこの愛想の無さを、嫌悪などという言葉では語りつくせないほどに倦厭している。
本日の全日程を完了し、思い思いの時間を過ごす生徒たち。6割がクラブ活動に精を出し、3割の生徒が帰路につく。残りの1割は生徒会のなんやかんやだ。部活は俺も続けているが、今日は生憎バイトの日であるため休むことにした。しかしここへ来て、厄介な問題が。
「ねえ、な~り~た~」
同世代の男子にしてはやや高めの声が、今日はやけに鬱陶しい。
「しつこいぞ。付き纏うなと言っただろうが」
え~、と訝しんでコバンザメよろしくべたべたと引っ付く、問題の塊が。
「だって成田、僕と約束したじゃないか」
しばらく前髪をつかんで考え込んだ。その結果、
「覚えてないな」
「酷くないっすかそれ!!」
ただでさえ高い声が裏返った。
この腐れ縁の男子生徒、姓を橘名を悠といい、一目だけでは女生徒とも見紛うほどの幼顔をしている。その橘は俺と何か約束したらしいが、本人に言った通りそんなこと記憶にないのだ。
「今日は、この前僕に恥をかかせた償いとして、僕が欲しかったロードバイクを買ってくれるんだろう」
償いとはまた大袈裟な。しかしその恥辱を味わわせた記憶もないのだ。おかしなことに話が噛み合わないな。
「俺が何したってんだ?」
「あんた僕にあんなことしといて何にも覚えてないのかよ!?」
「ああ、忘れた」
「思い出してよ、成田のせいなんだから!!つかこれを忘れるっていうアンタの神経系を一度見てみたいよ!」
記憶にないものを思い出せと言うのも無理な話――あ、そうだった。先日俺は橘の恋路の手伝いをしてやったんだ。あいつが積極的に落とそうとしている相手――ま、今回もどうせまた難破だろうと思っていたが――の好みをを教えた。だから感謝こそすれ、恨むなんて、ましてや償わせるなんて無礼も甚だしい奴だな。
「俺は手伝ったんだぞ。なんでそんなに逆恨みするんだ?」
「〝あの娘の好みはイスラム教徒らしいぞ〟ってアレがアドバイスだとでも思ってんすか!?あれ以来メッカに向かって毎日5度礼拝してるんすよ!!それをあの娘に見せたら普通に引かれたんすからね!!何か両手で自分の両腕つかんで身震いしてたんすよ!!それから目も合わせてくれないしあまつさえ悲鳴なんてあげられて――」
「まぁそれは、ご愁傷様」
「あんたのせいだろうがあああああぁぁぁぁぁぁあああああああ!!」
嘆息し、やむを得ず最終手段に出た。さもないといつまでも突っかかってくることだろう。
「ロードバイクでもなんでも買ってやるから落ち着けよ」
「ほんとう?」
さっきまで暴れていたのに……単純な奴だ。
そんなこんなで結局橘の買い物に付き合うことになり、丁度校門を出たところだった。俺は思い出したのだ。なぜ橘の頼みを断ったかを――バイトがあったから断ったという重要なことを。
「悪い橘、今日バイトがあったんだ。すっかり忘れていた。明日付き合うから今日は勘弁な!」
「あ、ちょっ……ってもうわかったよ。でもね、明日は買ってもらわないと、僕も困るんだよねぇ」
内心、あいつは何様だと思いながら駆け出した。買ってもらう身の上で傲岸も極まりない。
「買ってやるっつったろっ!だからその口閉じろ!ものを言うな、息を吸って酸素を減らすな、吐いて二酸化炭素増やすな、いいな!」
「えっと、あんまり保証できません……」
走り出した背中に、橘の幼子のような視線を感じた。大きく傾いた陽が2人を照らす。空を仰げばあかね色の光がまぶしく、つい目を細めた。