サクラノイロ
突然ですが、私には、片思いしている好きな人がいます。
きっかけはとても些細なことで、だけれど、その瞬間に、私は彼に、どうしようもなく恋焦がれた。
決して陽の差さない、路地裏の道のように薄暗く、小汚い道を歩いていた私は、一瞬にして、ぽかぽか陽気で、気持ちの良い暖かさがある道を歩いている気分になった。
真っ暗で、寒くて、凍えてしまいそうな私を行く連れ出し、私の心を溶かしてくれたのは、あなたでした。
高校一年生。
新たなスタートに、期待して校門をくぐった。
校庭にあるいくつもの桜の木から、桜の花びらが幾枚も舞い落ち、新入生を歓迎していた。
私のこれからの生活も、この桜の花びらのように、淡い桜色の素敵な物だと信じて疑わなかった。
人と話すのは苦手だけれど、いっぱい友達を作って、楽しい学校生活を早く送りたくてうずうずしていた。
流れ落ちる桜の花びらを一片、掴んだ。
手の平には、綺麗な、淡いピンク色をした桜の花びらが一枚乗っていた。
スカートのポケットからハンカチを取り出し、それを優しく包む。
思わず、小さな笑い声が漏れた。桜は、私が好きな花だ。とても綺麗で、毎年春が来るのが待ち遠しくてたまらない。
だから桜の木がたくさんあるここで、新しく学校生活を迎えられるのが嬉しくてしょうがなかった。
ハンカチを再びポケットにしまい、式が行われる体育館へと歩みを進めた。
最初のうちは、少し不安だった。人付き合いが得意ではない自分が、上手くクラスに馴染めるかとてもドキドキした。
教室の隣の席の子は女の子で、栗色の髪を肩の辺りまで伸ばした可愛い女の子だった。
ドキドキしてなかなか話しかけられなかったが、ホームルームが始まる前の時間に、勇気を振り絞って声をかけてみた。
初めは、少し驚いたような表情だったけれど、すぐにその顔も解け、明るい屈託の無い笑顔を向けてくれた。
私はそれに安堵し、自己紹介をして、一年間よろしくと言った。女の子も、よろしくねと言った。
そうして始まった私の新学期は順風満帆そのもので、人当たりの良い隣の席の子のおかげで、クラスの女子の大半と仲良くなった。
毎日誰かと登校したり、一緒にお喋りをしたり、一緒に下校したり。
普通の高校生とかにしてみれば、当たり前のことなのだろうが、とても嬉しかった。
毎日幸せで、笑っている日しかないほどだった。
でも、それが数ヶ月続いたある日、それはとても些細なことによって起きた。
私が一番に気を許していた、隣の席の子の好きな人を、私が奪った。ということになっていた。
そんな事実は、何処をどうひっくり返したところで見つかるはずがないのだが、その子にも、仲の良かった子にも責められた。
話を聞くところによると、その子の好きな人が、私を好きらしかった。
そんなこと責められたところで、私にはどうしようもないし、私はどう言えばいいのか困った。何人もの怒った顔をした女子に囲まれ、びくびくしながらも反論した。
それは私とは関係のないことで、どうしようもない。私はべつにその人のことは好きでもなければ、付き合っているわけでもない。
そう言ったけれど、相手にされなかった。
散々に暴言を浴びせられた後、最後に私を突き飛ばして帰って行った。
その日から、私は孤独になった。
朝学校へ行き、おはようと声を掛けても誰一人として返事をしてくれず、お昼休みも一人で黙々とお弁当を食べる日々へと一気に変貌した。
つい一昨日まで、皆と楽しく話しながらお弁当を食べていたことを思うと、胸が苦しくなって泣きそうになった。
私には関係の無いことなのに。どうしようもないことなのに――。
いっぱいいっぱいで、その日のお弁当は味がしなかったように思う。
それは、何日経っても何十日経っても、何週間経っても、何ヶ月経っても変わらなかった。
そのうち、いじめを受けないだけマシかと思えて、日々機械のようにひたすら学校に行って勉強をして、帰るだけになった。
ある日の体育の時間、少し体調が悪くて休んでいた。
校庭の隅の、木陰のほうでぼーっとしていると、近くに誰かが来た。
「体育のときさ、いっつもこのへんでぼーっとしてるけど、大丈夫?」
前屈みになりながら、私の目を真っ直ぐに見て、そう言ってきた人がいた。
私は驚いて、えとかあとかうとか、奇妙な声が出た。
「えっと、大丈夫です……」
「そっか。隣、いい?」
特に断る理由もなかったので、首を縦に振り、肯定の意を示した。
「俺、四組の櫻木って言うんだ。君のクラスの三組と四組って、ほら、よく一緒に体育するじゃんか」
確かに、合同体育と言って、よく一組と二組、そして三組と四組で体育をしていた。
「そんでさ、皆活発に動いてるのにさ、なんかいつも君がこうやってこのへんに座ってるから、ちょっと気になってて今日声掛けちゃった」
はにかみながら、彼はそう告白した。
「そうなんですか」
「ちょっと、なんで敬語なわけ? 同い年じゃん」
「えっ、あっ、えっと、癖みたいなもので……」
思わず口篭る。
確かに同い年に敬語というのもおかしいだろう。けど、今さっき会ったばかりなので、いきなり馴れ馴れしくタメ口というのも躊躇われた。
「そっか。ならしょうがないけどさ、一応同い年なんだし、タメ口で話して嬉しいかも。あ、俺のことは櫻木とでも呼んでくれればいいから」
今度は、明るい笑顔を向けてきた。
屈託のないその表情は、あの子のことを思い出させて、胸がちくりと痛んだ。
「うん、分かった。ありがとう、櫻木くん」
「いいえ、どう致しまして」
その時、少し離れた位置から、声がこちらに届いた。
どうやら櫻木くんを呼んでいるらしく、それに気付いた櫻木くんは、
「ごめん。あんまりサボってると怒られるからそろそろ行くね」
と言い、立ち上がり、ズボンを掃った。
「ううん。ありがとう」
「ん。じゃあ、またな」
櫻木くんは走って、皆の輪の中へと戻って行った。
きっかけはたぶん、それだったのだろう。
何のきっかけかと言うと、他の何でもなく、私の『恋』のきっかけ。
しばらく、学校で人と話すことはなかったので、なんだかドキドキした。
私のことを、気に掛けてくれている人がいたのだと思うと、なんだか救われた。
前言撤回。きっかけではなく、その日から、私は彼に恋をしていたのです。
それからというもの、彼は毎回ではないものの、合同体育の時間になると、私の所へ少しの間いてくれるようになった。
実を言うと、体調が悪いのも時々あったが、クラスの皆で体育をやっている輪の中には入り辛く、最初の頃に数回しただけだった。だから、クラスの女の子と噛み合わなくなって以来、体育には一度も参加せずに、校庭の隅の、桜の木の下でぼーっとしていた。
櫻木くんはその姿を幾度も見かけ、私が体が弱いのではないかと思っていたらしい。
運動は得意ではないけれど、体は弱くないよと私は笑って答えた。
体が弱いのかと気になって、ついに先日声を掛けてしまったが、良かったのだろうかと後で思ったことも言ってくれた。
私は素直に嬉しかったよ、と言うと櫻木くんは嬉しそうに笑った。
彼は健康体だし、なによりクラスの皆から人気があるようで、クラスの子から呼ばれてしまって、いつも五分ほどで私達の会話は終わった。
けれど、その時間が私にはとても嬉しくて、ほんの一瞬、大事な宝物をこの手に貰っているようで、とても幸せな気持ちになった。
機械的に学校に行って帰るだけだったが、彼によって楽しみが増えた。
合同体育のときはもちろん、学校校内で彼を見かけると嬉しくなった。
櫻木くんのほうは、私に気付くと、短い挨拶ではあるけれど、
「おはよ」
とか、
「またね」
と言って手を振ってくれたりした。
それがとても嬉しくて、ぽかぽかの陽だまりの中、お昼寝をしているような気分になれた。
相変わらず、クラスの皆からは無視されていたけれど、それでも、学校へ来るのが楽しくなった。
そんな日々が半年と少し続いた。
相変わらず、私たちの間に特別な関係もなければ、長く会話することすらなかった。
ただ、少し前に櫻木くんのメールアドレスを貰って、メールをするようになった。
毎日ではないけれど、些細なことを、ぽつぽつと。
校内ですれ違うときと、合同体育のときと、メールをしているときしか櫻木くんとの会話はなかったけれど、それでも日々、私の彼への想いは増していった。
けれど、私は一度も彼に好きとは言わなかった。
それは、薄々ながらも、彼に好きな人がいるのを感じたからで、こうした時間さえも失ってしまうことを恐れたからだった。
櫻木くんから直接訊いたわけではなく、自分が勝手に思っているものだけれど、不思議と、妙な確信が持てた。
一年生の時期も終わり、二年生に無事進級出来た私と櫻木くん。
休み明け、クラス発表が書いてあるボードの前で私は、不安とかなんかよく分からない感情でいっぱいだった。
櫻木くんと同じクラスになれるかな。なれたらいいな。
そんな風に思って、ドキドキと心臓が鳴る中、自分と櫻木くんの名前を探した。
一組にはどっちの名前もなく、私はほっとしたような、怖いような感情を覚え、二組へと視線を移した。
そこでまず、櫻木くんの名前を見つけた。
いきなり後ろから誰かに肩を叩かれたように、瞬間にドキッとした緊張が走った。
櫻木くんの名前をもう一度確かめたあと、大きく深呼吸をして、視線を下へと落としていく。
――あった!
どうしよう。すごく嬉しい。どうしよう。
この場で小躍りをしそうになるのを抑え、二組の教室があるほうへと走り出す。
ありがとう、神様。私にチャンスをくれて。頑張ってみます。
心の内で神様に感謝しながら、二組の教室の扉を開く。
そこにはすでに、櫻木くんの姿があった。
私に気付くと駆け寄って、
「一緒のクラスみたいだな。一年間よろしく」
と笑顔で言われた。
嬉しい。すごく。
「うん、よろしく」
黒板に書いてある自分の番号の席へと座る。
大丈夫、一年のときみたいに皆に無視されたところでへっちゃらだ。
それに耐えたご褒美だとでも言うように、こうして櫻木くんとも同じクラスになれた。
大丈夫、頑張れる。
思わずにやける顔を引き締め、だけど、心の中では相変わらずにやけた顔をしていた。
これから始まる、一年間同じクラス。楽しみだ。
一緒のクラスというだけで充分幸せだけれど、少しでも進展があったらいいな、と少し欲をかいたことを思わずにはいられなかった。
結果から言うと、あまり大した進展は無かった。
むしろ、変わらないと言ったほうが正しいかもしれない。
朝おはようと声をかけて、とそれだけだった。
自分から積極的に話しかけることもできず、いつもクラスメイトに囲まれている櫻木くんと話すことなどできなかった。
一緒のクラスになれたのは嬉しかったけれど、拍子抜けもいいところだった。
隣の席になったりなど、そういうことも一年間一切なく、昨年と同じような感じだった。
二年生になってから、前のクラスにいた子とほとんど離れたということもあり、時々だが体育にも参加するようになったので、挨拶をして、メールをして。それだけだった。
一年間はあっという間に過ぎた。
去年よりはたぶん距離は近づいただろうが、それは私の憶測で、言ってしまったら一センチ程度近づいていたらいいほうだろう。
ただ、距離は大して縮まらなかったものの、あることは知れた。
それは、私が前々から気付いていたことで、櫻木くんには、付き合ってはいないけれど好きな人がいるということだった。
クラスで話しているのを耳にして、知った。
妙な確信を持っていた私は『やっぱりそうだったのか』としか思わなかった。
むしろ、彼女ではないだけまだ幸せだと思った。
櫻木くんに対する私の想いは、好きな人がいたところで揺らぐことはないけれど、さすがに彼女がいるとなると、気持ちに隙間が出来てしまうだろう。だから、彼女がいないだけ、私にはマシに思えた。
私は変わらず、櫻木くんには一言も好きだとは言えなかった。
また、櫻木くんに対して、好きな人のことを訊けずにいた。
三年生の春、やっぱりと言うべきか、なんと言うべきか、私と櫻木くんのクラスは離れた。
私が一組で、櫻木くんが三組。
合同体育ですら、会えなくなってしまった。それがただ、とても悲しく思えた。
メールで、
『クラス離れちゃって残念。寂しいけど、頑張るね』
と櫻木くんに送った。
あまり時間を空けず、
『そうだね。俺も寂しいけど、お互い頑張ろう!』
というメールがきた。
それだけで、すぐに私は元気を取り戻した。
頑張ろう。クラスが離れたくらいなんだ、合同体育で会えないくらいなんだ。校内で会ったら元気に挨拶をして、メールもすればいい。
それで、今年こそ櫻木くんに想いを告げられたら――。
一昨年と昨年と同じように、校庭には桜がいっぱい咲いて、桜の花びらをたくさん散らせていた。
いつになるかは分からないけど、一生懸命、想いを伝えてみよう。
駄目かもしれないけど、私の想いを櫻木くんに、精一杯。
たくさんの花びらが舞う中、私は今年こそ櫻木くんに告白する決意をした。
けれど、そんな決意はあっさりと砕かれた。
その一ヵ月後、櫻木くんに彼女ができた。
訊いたところによると、その子は櫻木くんがずっと好きだった相手だそうだ。
櫻木くんから告白して、彼女のほうも了解して、二人は付き合い始めた。
――私が、告白する前に。
櫻木くんに彼女が出来たと知った日、櫻木くんにメールをした。
『彼女出来たんだってね。おめでとう。幸せにね』
と、短いけれど、私の精一杯の言葉を送った。
『ありがとう。嬉しくてなんかまだ、どうしたらいいかよく分からないけど、すごく嬉しいんだ。
祝ってくれてありがとう』
そう、メールは返ってきた。
私の目から涙が溢れた。きっと、メール自体これが最後だ。今言わなければ、私はいつ好きと言うのだろう。言えるのだろう。
メール画面を開いたまま、携帯を握り締めて布団の中で泣きじゃくった。
私の約二年間に及ぶ、長い片思いが終わった。
それも、告白もせずに。
それが悔しくてたまらなかった。
今メールで言ってしまおうかと思ったが、溢れる涙は一向に止まらず、メールを打つ暇すら与えられなかった。
さようなら。
私の恋。
告げずに終えてしまって、ごめんなさい。
十七歳の春、私の片思いは終わった。
私の片思いは終わってしまったも同然だけれど、櫻木くんへの想いは無くならなかった。
好きなのは、ずっと、それからも変わらなかった。変えられなかった。
一緒に登下校をしてくる櫻木くんと彼女を見かけるたび、心臓を杭で打たれたようにとても苦しくなった。
その場にへたり込んで泣きそうになるのを、ぐっと堪えていた。
苦しくて、この好きの気持ちを消してしまいたいのに、消すことは叶わなかった。
櫻木くんと交わしたメールも、全部削除してしまおうと思ったが、結局一通も削除することはできなかった。
どうして、どうして――。
泣きそうになる。
どうしての後に続く言葉は、私にも分からないけれど、それはたぶん、私自身を責める言葉なのだろう。
櫻木くんと彼女はその後も順調に、仲良く、付き合っていた。
何ヶ月経っても、私の櫻木くんへの想いは一向に薄れることはなく、胸が圧迫される日々が続いたが、十二月になるあたりで、少しずつ気持ちの整理がついた。
櫻木くんは彼女を愛して、幸せなのだから、それでいいじゃないか。
そんな風に、少しずつ思えてきた。
行き場を無くした自分の心は、どこかへ行き着くことはなかったけれど、悲しいけれど、それが好きな人の幸せを願うと、そういうことなのだ、と。
やがて、長く感じられた厳しい寒さの冬も終わり、日々、暖かくなっていった。
校庭の桜の木が少しずつ、青々とした葉を茂らせていく。
少しずつ、少しずつ、でも確実に春になっていく。
校庭の隅の、桜の木の下に腰を落として、目を瞑る。
そういえば昔、知り合った頃に櫻木くんが、
『どうして君笑わないの? 笑ったら絶対可愛いのに、もったいないよ』
と、言っていた。
その頃はまだ、一年生のときだったからクラスで独りぼっちで、笑うことなんてなかった。
だから彼は、そう言ったのだろう。
私はその言葉に驚いたらいいのか、照れたらいいのか、喜んだらいいのか、複雑な気持ちになった。
二年生になってから、少しずつ、周りの人と仲良くなっていった。
そんなに、親友と呼べるほど仲良くなれた人はいなかったけれど、一年のときは皆に無視されていたことを思うと、とても嬉しかった。
それはきっと、櫻木くんのおかげに他ならないのだ。
櫻木くんがいなければ、私はだんだんと学校に行くのが嫌になり、学校へ行かなくなっていたかもしれない。
櫻木くんがいなければ、人と話すことを拒絶して、誰とも話さなくなっていたかもしれない。
そう思うと、櫻木くんには感謝しなければいけないことがたくさんある。
彼に恋をしたおかげで、私は学校に来るのが楽しみになった。
彼のおかげで、私は少しずつ、暗い道から、明るく温かい道へと私の人生は変わった。
なんだ。
彼女が出来たことを知ってからというもの、苦しいばかりだった気がしたけれど、そんなことは全然無かった。
私はとても幸せで、楽しい毎日を送れていたんだ。
それは誰のおかげでもなく、――櫻木くんのおかげなのだ。
目を開き、立ち上がる。
三年間、お世話になったこことも明日でお別れだ。ぺこりと桜の木に向かって頭下げる。
居心地のいい場所だった。さすがに冬にはお世話になれなかったが、春は気持ちの良い日差しを送ってくれて、夏の暑い日には日差しを遮り、涼しくしてくれた。思わず、居眠りをしてしまうこともしばしばあったほどだ。
それになにより、ここの場所で私は櫻木くんとたくさんお話をした。
ありがとう。
もう一度深く頭を下げ、私は教室へと戻った。
三年生は既に、自由登校になっており、学校に来ている三年生はまばらだった。
たぶん、半数も来ていないだろう。
けれど、今日、三組に櫻木くんがいることは知っている。
授業中、こっそりと、久しぶりにメールを櫻木くんに打った。
内容は、放課後にあの桜の木の下で話したいということを書いた。
授業終わりに返信が来て、
『分かった』
と、あった。
私は、ぎゅっと携帯を握り締め、教室にある時計を睨む。
早く、放課後になれ。
そう念じた。
だけど、早く放課後になって欲しいのは事実だけれど、怖いという気持ちもあった。
授業が終わり、チャイムが鳴る。
それと共に、クラスの皆は帰り支度を始める。
私も一緒に帰り支度を始め、荷物をまとめた鞄を持ち、教室から出た。
もう放課後だが、まだ校内にはたくさんの人が残っている為、もう少し時間を潰す為に図書館に向かった。
昔から、本を読むのは好きだった。
唯一の趣味と言ってもいい。
よく、体育を休んであの桜の木の下にいたときも、本を広げて読んでいた。
『今日は何読んでるの?』
と、櫻木くんが声を掛けてくることもよくあった。
本棚にそっと手を伸ばし、少し色あせた本を手に取る。
少しの間、これを読んでいよう。
ページをめくると、図書館の本の独特の匂いがした。
しばらく本を読んだあと、本を棚に戻し、図書室を後にした。
階段を一段降りていく度に、一歩進む度に、心臓がドキドキとうるさく高鳴っていった。
校庭の、あの桜の木のところにはきっと既に櫻木くんがいるだろう。そう思うと、逃げ出したいような気になったが、そんなことは当然出来ない。
呼び出したのは私で、これから、背一杯想いを伝えなければいけない。
だんだん桜の木に近づいて、近くへ行くと櫻木くんがいるのが確認できた。
さっきよりもより一層、うるさくなる心臓。
「久しぶり」
と、先に櫻木くんが声を掛けてきた。
「久しぶり」
私の声が震えていないか、心配だった。
「俺への話はなにかな」
ドクンッと、激しく鳴る。
「えっと、うん、あの……」
一度、深呼吸をする。
言わなければ。
言わないと、進めない。
「彼女がいるのは知っているんだけど、どうしても言っておきたくて」
「うん」
たぶん、櫻木くんは既にここで、私がなにを言うか気付いていただろう。
いや、ひょっとしたら、メールをもらったあたりから。
「私、桜木くんのことが――」
櫻木くんは、私を真っ直ぐに見ている。
最初に出会ったあの頃と、なにも変わっていない。
優しい、どこまでも真っ直ぐな瞳だ。
「ずっと、好きでした」
言った瞬間に、泣き出しそうになった。
でも、泣いてはいけない。
私も櫻木くんを真っ直ぐに見つめ返す。
少しの間が空いた後、櫻木くんはゆっくりと言葉を紡いだ。
「そっか。ありがとう。嬉しいよ。だけど、俺は君を好きになれない。ごめん」
「うん。……一つ、訊いていいかな?」
「なに?」
「彼女のこと、好き?」
「うん。好きっていうか、」
「愛してる?」
「まあ、そう。恥ずかしいけど」
「そっか。ありがとう」
「ううん」
「やっと言えた。良かった」
「言ってくれて、ありがとう。嬉しかったのは本当だから」
「うん。彼女さんと、お幸せに。私の今の気持ちは、これだから」
「うん」
「それとね、これなんだけど」
私は、ポケットから栞を取り出した。
その栞には、桜の花びらが押し花で中に入っている。
あの入学式のとき、私が校庭で掴んだ桜の花びらを、閉じ込めたものだった。
「それ、前に」
「そう。覚えててくれた?」
一年のとき、私が本を読んでいたところに櫻木くんが来て、私は読んでいた本にこの栞を挟んだ。
すると、櫻木くんが、
『それ桜の花びら? 綺麗な栞だな』
と、言ったのだった。
「ああ、覚えてるよ」
「この栞をね、櫻木くんに貰って欲しいの」
「え、いや、でも……」
「ごめんね。単なる私の我侭なんだけど、貰って欲しいの、櫻木くんに。それで、できたら使って欲しい」
「いいのか?」
「うん」
櫻木くんが、そっと私の手から栞を受け取る。
「ありがとう。大事に使わせて貰う」
と、いつもの屈託のない、人懐っこい笑顔をして言った。
会話を終えたということに、早々に気付いた櫻木くんは、カバンを手にし、最後に
『さようなら』
と言って、歩いて行った。
彼の姿が見えなくなるまで、私はその場で後姿を見送った。
見えなくなると、私は力が抜けて、立っていることが出来なくて、その場に崩れ落ちた。
それと共に、涙が零れ落ちる。
痛い。苦しい。だけど、やっと言えた。
言えずに終わってしまった私の恋を、やっと、きちんとした形で終えられた。よかった。
本当は、好きという言葉では伝えきれないけれど、他に伝えようがなかったのだから、仕方がない。
――さようなら、櫻木くん。
蕾が付き始めた桜の木を泣きながら、見上げる。
空は澄み切った青色をしていて、どこまでも続いていた。
好きでした。
好きです。
大好きです。
さようなら。
私の、大好きな人。
さようなら。
私の、大切な人。
さようなら。
さようなら。
私は再び崩れ落ち、さっき別れを告げた桜の木の下で膝を抱えて、ずっと泣いていた。