落ち着く場所
金曜日の夜。
仕事帰りの足取りは、いつも決まっている。
帰り道のスーパーで翌週分の食材を買い、部屋に帰ってお風呂のお湯張りを始める。
そして、浴槽にお湯がたまるあいだ、缶コーヒーを手に公園へ向かう。
このひとときは、仕事モードだった頭をそっと休ませるための時間。
いつものベンチに腰を下ろし、缶を開ける。
ぷしゅ、と軽い音。
夜の空気と混じるように、少しだけ緊張がほどけていく。
気温の下がり具合に冬の気配を感じ、そろそろ衣替えしなきゃ、とぼんやり考える。
そんなとき、足もとでふと何かが動いた。
見ると、灰色の猫がこちらを見上げていた。
逃げる様子もなく、ただまっすぐ目を合わせてくる。
おそるおそる手を伸ばすと、ゆっくりと近づいてきて、撫でさせてくれた。
毛並みは柔らかく、その温もりに、冷えた指先がじんわりと解けていく気がした。
コーヒーを飲み終え、撫でていた手を離しながら「ありがとう。またね」と声をかける。
その子は何も言わず、目を細めていた。
──それが、最初の出会いだった。
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次の週も、その子はそこにいた。
缶コーヒーを開けると、ベンチの影から静かに現れて、足に頭を擦り付けてくる。
どこかで読んだ『尻尾の付け根を軽く叩くと喜ぶ』という話を思い出し、試しにぽんぽん、と叩いてみる。
嬉しそうに腰を上げて甘えてくれるのが可愛くて、私もなんだか嬉しくなった。
次の週は、雨だった。
濡れたベンチの下に黒い影が見えて、傘を差したまましゃがむと、猫は控えめに出てきて足に体を寄せてくれる。
雨の日でも来てくれたことに、少し胸があたたかくなった。
次の週は、ベンチに母娘が座っていた。
猫は女の子に撫でられている。
いつもの場所に座れず、少し離れた植え込みのブロックに腰かけて缶コーヒーを開けると、猫は女の子の手を離れ、そっと私のもとへ来た。
ちょっと申し訳なくなった。
次の週。
気づけば猫は私の膝の上に乗って丸くなってくれた。
太腿に伝わる柔らかな重さと温もりに、心まであたためられていく。
猫の頭を撫でながら思う。
餌をあげたこともないのに、どうしてこんなに懐いてくれるんだろう。
寂しさを抱える私を慰めてくれているのか、それとも、この子も寂しくて寄り添っているのか。
次の週。
いつものように膝に乗ってくれた猫を撫で終えて帰ろうとしたとき、その子が一声だけ、短く鳴いた。
その声が、不思議なほど心に引っかかった。
「行かないで」と言われたような気もするが、きっと自分勝手な想像だろう。
私は笑って、「いつもありがとう。またね」と言って帰った。
▼
次の週、その子はいなかった。
その次の週も、そのまた次の週も。
ベンチの下はいつも空いていて、風が吹くたび、あの柔らかい毛並みを思い出した。
誰かに拾われたならいい。これから寒くなる季節、暖かい部屋で過ごせるだろうから。
でも、そうじゃなかったら──。
猫は、自分の最期を悟ると静かな場所を選ぶという。
誰にも見つからず、安心できる場所で息を引き取るのだと。
……もしかしたら、あの子も。
私にとって、あの子と過ごすあの時間が、心が落ち着く場所だった。
あの子にとって、私は少しでも落ち着ける“場所”になれていただろうか。
最後に鳴いたあの声は、寂しさだったのか。
それとも──
ありがとう、だったのか。
答えはわからないまま、今夜も同じベンチに座る。
開けた缶コーヒーを片手に、誰もいない公園で夜空を見上げながら。
「またね」
あのときの言葉が、静かに心の中で反響する。
いつまで経っても、重くならない太腿。
あたたかさの戻らない膝。
泣きたくなる夜に限って、空はやけに澄んで見えた。
近所の公園には野良猫が一匹います。
いつも私を癒してくれる優しい子。
……いつか、こんな日が来てしまうんだろうな。




