2-2.金色姫との死合
結局龍臣が行動を開始したのは日が沈む頃であった。下宿屋の老婆に散歩に出てくると声を掛けたのち、上田堤の外周を何をするわけでもなく漫ろに歩く。四方に人影はない。
朱色の太陽に照らされる桜に見惚れていれば、背後から何者かが駆けてくる跫音がした。
何事かと振り返れば、嘉多子であった。制服姿のままである嘉多子は、目が合うと足取りを緩めて龍臣の前で止まる。息を荒らげながら龍臣を睨んでいる。
「一体どうしたのだ、嘉多子君。君が走るなんて珍しい」
「誰のせいだと思って」
いるのですか――とは続かなかった。嘉多子は身を屈めて噎せてしまう。失礼するよ、と断ってから龍臣は嘉多子の背を撫で付ける。三四度掌を往復させているうちに華奢な躰の震えは治まり、呼吸も鎮まっていく。
「坂ノ上さん。もう、結構ですわ」
「それで、どうしたというのだ。随分な御転婆振りだが、君には似合わないよ」
「それは私の台詞です。屋敷の窓からあなたが見えました。どうしてここにいるのですか」
「どうしてとは、妙なことを」
「どうしてって、もう夕暮れではありませんか。今戻らなければ間に合いませんわ」
さァ、お急ぎになって、と嘉多子は龍臣に手を差し出す。
忙しなく周囲に視線を走らせる様は何かに怯えているようで、平生の凛然とした態度はどこにもない。龍臣も倣い近辺を見回すが、目につくものは何もない。
「何を暢気にしているのですか。言ったではありませんか。お忘れですか」
何の話だ、とは訊かなかった。
龍臣の脳髄が色付きの発声映画を上映する。
――陽が沈んでからの外出はお控えください――。
――たとえ、いかなる都合があったとしても――。
「勿論覚えているさ。暗くなる前に帰れという話だな」
さもなくば。
――これに背いた場合、身の安全は保障致しかねます――。
龍臣の創り出した嘉多子はそう嘯いて――嘲笑った。
「分かっているのならどうして。いえ、ここで言っても詮なきこと。今ならまだ間に合います。早く行かないと」
「すまないが従うことはできない。何分、人を探しているものでな」
「人、ですか」
「金色姫いう化生を待っているのだよ」
私のことなど捨て置いて君は帰るといい、と龍臣は言ったが、嘉多子は何の反応も返さなかった。棒立ちのまま龍臣の頭上を見詰めている。目を見開き、口を半開きにして、見てはならぬものを見たという表情であった。
嫌な予感がした。
嘉多子の視線を追い、桜の大樹へ返り見れば。
最初に認めたのは人の顔であった。斜陽に照らされる桜の梢に、女の顔が浮いていた。
嘉多子の息を呑む音がした。
女が動いた。女の乗った枝が撓り、先端が大地に触れた。
地に擦られた数輪の花弁が、無残に散らされていく。
女は木から地面に這い降りて立ち上がる。
中華風の煌びやかな衣装に美しい顔立ちをしていた。
「嘉多子君」
右手で彼女を庇いながら龍臣は声を絞り出す。視線は魍魎から外さない。
「屋敷までは近い。君は先に帰れ。いいな」
「坂ノ上さんは」
どうするのですか――と嘉多子は震える声で言った。声だけではない。嘉多子の躰が慄くのが見ずとも分かった。
「心配は無用だ。荒事には慣れている」
「嫌です。一緒に逃げましょう」
嘉多子は龍臣の袖を引くが、龍臣はその手を振り払う。
女が夕陽に燃える山際を睨む。
「嘉多子くん。行くのだ、私にはとっておきの武器があるから大丈夫だ」
「でも」
「行ってくれ。これより始まるは神狩りだ。醜い争いだ」
振り向いてはいけないよ、と龍臣が笑いかければ、嘉多子は弾かれたように駆けていく。
女は逃げ出した嘉多子を見ると、追おうとするが、龍臣が間に跳び入り牽制する。
女の動きが止まる。標的が嘉多子から龍臣に切り替わる。
――ここからが勝負だ。
龍臣は抜刀した。磨き抜かれた白刃が燦りと光を反射する。
女は一瞬だけ刀を見遣った後、龍臣の瞳を見詰める。乞うようでいて、それでいて拒絶を秘めた――悪神の眼差しであった。
女と龍臣の間を初夏の生ぬるい風が吹き抜け、白い花弁がはらはらと薙ぎ散らされる。
最初に動いたのは龍臣であった。刀を振りかぶり、間合いを詰め、袈裟に斬り落とす。だが、骨と肉を断った手応えはなかった。血飛沫もない。赤い血の代わりに、白い花弁にも似た何十、何百もあろう蚕蛾がバタバタと飛び去り、やがては地面に墜落していく。
女は身動ぎひとつしなかった。痛がりさえしない。
女が飛びかかろうとしたとき、龍臣は拳銃嚢から取り出した南部式大型自動拳銃で女の両膝を撃ち抜く。至近距離からの発砲だというのに、やはり女は痛がりもしなかった。体幹すら崩さない。射出口から数頭の蚕蛾が飛び去り、ボトリと地面に堕ちる。
――やはり、蚕は空を飛ぶことができないのか。
龍臣の注意が一瞬逸れた。その油断がいけなかった。次の瞬間には、目と鼻の先に女の美しい顔があった。咽頭が潰された。頸を絞められているのだと分かったときには女の表情が変わっていた。無邪気で、嬉々とした――狂ったような笑い顔であった。
龍臣の左手から拳銃が落ちた。右手の刀で強引に女の両手首を切り落とせば、これもまた同じく、真っ白な蚕蛾に転じて、ボトボトと地面に堕ちる。
堪らずに飛び退いた龍臣は目を凝らす。手を失い膝を撃たれても女は狂笑を浮かべている。弱点らしき物は看破できない。
――さて、どうしたものか。
龍臣は考えるが、それも一瞬のことであった。そんなものは斬ってから考えれば良い。勝手に躰が動いていた。間合いに入ると平突きを放ち、女の心臓――そんなものがあるのかは定かではないが――を穿つ。
女の肉体は、最初から実体などないかのように、蚕蛾となってサラサラと崩れ落ちる。残るのは、モゾモゾと蠢く蚕蛾だけであった。刀身を見れば、砥粉にも似た白い鱗粉が付着しているだけであった。
龍臣は懐紙で刀を拭うと納刀する。
「見事。惚れ惚れする刀捌きだな。鬼殺しも伊達じゃないってか」
背後からの声に振り向けば、裏辻が立っていた。黒い隊服と足許から伸びる影が繋がって見える。そこで夕陽が赤々と燃えるように輝いていることに気付く。
「見ていたのか」
「悪く思うなよ。俺の仕事にはあんたの監視も含まれているのだ。それで、殺ったのか?」
「いや、手応えはなかった。どうすれば殺せるのか皆目見当もつかぬ」
「そうかい。なら次の会敵までに備えておかなければな。それはそうと、今が好機だとは思わねえか?」
「好機。何がだ」
「蚕影の家に取り入っちまえって話だよ」
裏辻は足許に這いつくばる蚕達を見ながら、こりゃ明日には踏み潰されるか蟻の餌だな、と言った。龍臣が手放した拳銃を拾い上げて手渡す。
「御令嬢を心配したとか何かと理由を付けて護衛の役でも買い出れば良いだろう。先方も無碍にはできないはずだぜ」
「なるほど。流石は密偵だな。目の付けどころが違う」
「なんだいそりゃ。褒めてんのか」
「無論、褒めているとも。貴殿も来るか」
「いや、俺は宿に帰って今日の出来事を課長に報告せにゃならん。金色姫と会敵するも撃破までには至らずってな。まあそういうわけだから上手くやれよ」
そう言うと、裏辻は掌をヒラヒラと振りながら帰って行く。残されたのは龍臣と、何十頭もの蚕達である。やはり自力で飛翔することができないのか、ヨタヨタと翅を動かすばかりで、その様は大地に縫い付けられているかのようであった。




