1-2.大正という時代
実篤と馨の態度も、龍臣がこうして何者かの殺害を命じられることも、いつもの光景となりつつあった。
――随分勝手なことを言ってくれる。
無表情のまま龍臣は思索を巡らせる。
無論、神殺しにも人殺しにも臆したわけではない。
特務課の任務において、他者を殺害することも、反対に手痛い反撃を食らうことも、数えればきりがない。しかし無辜なる民草を殺すとなれば話は別であった。忘れていた良心が疼くのを感じた。だからだろうか。
「課長。私は、無益な殺生は好みません。たとえ、呪いというものがあったとしても」
消極的な反論が口をついて出たのは。
実篤も馨も意外そうに目を瞬かせる。
「どうしたのだね君らしくもない。君は、泣く子も黙る特務課の鬼だろう」
「そのように名乗った覚えはありません。私が殺したいのは人間に仇なす怪異供です。決して人間そのものではありません」
「ふむ。君の言いたいことは理解した。件の女学生に恋慕したわけでも、人殺しに倦んだわけでもなさそうだな。だがね、坂ノ上君。君には、呪いというものが遺伝であったならば何が何でも、この一族を殺してもらわなければならないのだよ」
瞳に執着を浮かべながら実篤は言った。
「ご命令とあらば従いましょう。しかし、理由を聞いても」
「理由だと?」
「なぜそこまで、呪いというものに。遺伝というものに拘泥するのですか」
龍臣が尋ねれば、なんだそんなことかね、とつまらなそうに実篤は応じる。
「簡単な話だよ。先刻も言ったかもしれないが、次なる時代に相応しくないものであるからだ。前時代的悪習も因果も、この時代で断ち切らねばならぬからだ。それが遺伝に由来するものであるならば尚のことだ」
「遺伝、ですか」
「そうだ。先程の学士様ではないが、遺伝というものを甘く見てはいけないよ。僕はこの論説に対して反対も賛成もしない。というよりできないのだが――蛙の子は蛙とでも言おうか。どうしたって子は親に似るものだ。子が子を産めば孫となり、一族の形質は受け継がれてしまう。だが、そこに呪いという忌まわしき遺伝が含まれていたらどうだ。親の呪いは子に、子の呪いは孫に引き継がれ、子孫代々、その呪いは保持され、拡大して、やがてはこの国を穢す瑕にすらなり得るのだよ。宜しいかね、坂ノ上君」
実篤は葉巻の煙越しに龍臣を見据える。冷酷な愛国者の眼差しであった。
「これは命令だ。件の姉妹に降りかかる呪いというものが遺伝によるものであるならば。君がそうと判断したならば。情けも容赦も無用だ。一切合切斬り捨ててしまえ。その腰に差した軍刀は飾りじゃないことをこの僕に教えてほしい。くれぐれも情で刃を鈍らせないことだ。有益な殺生だ。胸を張って励むといい」
「承知いたしました」
龍臣はひとまず頷く。有益な殺生など存在しないことを。どのような大義名分や美辞麗句を並び立てたところで所詮殺しは殺しでしかないことは重々理解していた。だが己の立場ではこれ以上の反論を挟むことはできなかった。これ以上何かを言えば、実篤が懐に隠し持つ拳銃により射殺されないとも限らない。
「それはそうとだ、坂ノ上君。君はこの優生学というある種の選民思想染みた考え方についてどう思うだろうか。人間の婚姻まで定めるに相応しい良い案だと思うかい?」
龍臣は顎に手を遣り考える。
実篤は続ける。
「メンデルの法則を用いて、人間社会の淘汰を実行し、善良なる人間社会を作らんとする。これ人類改良学なり――と先刻の学士様は説いている。君はこの考えに賛同すべきと思うかね」
実篤はまた問うた。
銜えた葉巻からは白い煙が筋となって伸びている。
実篤は眉間に皺を寄せて考え込んでいる。
実篤にしては珍しい態度であった。
「私は」
少々の間の後、龍臣は答える。
「そのような意見には反対です」
「ほう。それはなぜかね?」
「我々は人間だからです。エンドウでも蚕でもありません。自由意志を持ち合わせております。好きなように生きて、好きなように死ぬるべきです。科学知をもって人間を制御しようとするのも結構ですが、それが過度になれば国粋主義に繋がるでしょう。新たな差別も生まれるでしょう。人類改良学を扱うには、まだ我々臣民は成熟していないように思われます。そのような差別や対立こそ、次なる時代に持ち越してはならぬことかと存じます」
「うむ、そうだな。その通りだ。いやはや、君も良いことを言うじゃないか」
実篤は満足そうに頷いた。
「君を勧誘した僕の目に狂いはなかったというわけだ。では次なる時代のために、神も呪いも斬り捨ててくれ。この大正という時代を少しでも良いものにするのが僕達の使命だからな」
「使命、ですか」
「そうとも。坂ノ上君。話は少々変わるが、君はこの大正という時代をどのように思っているかね。良い世だと思うかい?」
「はい。私はそう信じております」
龍臣は首肯する。少なからず自信はあった。
龍臣は東京で生まれ、東京で育った人間である。帝都の外など知らないが、年を経るごとに人が集い、街として区画され、猥雑を孕みながらも完成されていく東京が嫌いではなかった。大正になってからはその変化が顕著となり、まだ十年しか経っていない大正の雰囲気と、その空気に酔った人間が創造する風俗が好きだった。
具体的に論えば――。
大正三年、百貨店の三越日本橋本店に自動階段を備えた新館が落成した。「スエズ運河以東最大の建築」とまで謳われ、「今日は帝劇、明日は三越」という惹句が大流行した。龍臣が百貨店に行ったのは人生で一度きりであったが、その瑞々しい感動は鮮明に覚えている。
まだ蔑称の域を脱してはいないが「新しい女」というのも良いだろう。平塚らいてう女史が中心となって創刊した『青鞜』である。元始、女性は太陽であった――から始まる創刊の辞は名文であろう。しかしながら『青鞜』を読む者は不良と見做され、公序良俗への反逆者と考える者も依然として多いのが現状である。龍臣にも立場があり公言こそできないが、平塚女史を始めとする青鞜社を、そして世の女権拡張論者を影ながら応援していた。
陸軍予科士官学校に在籍していた頃は、土日の休みは、近場の寄宿舎に朋友達と屯して、好きな時に菓子を食べ、茶を飲み、解りもしない詩集や短歌、果ては学術書にまで手を出して――北原白秋の言葉遣いが美しい、いや文章なら志賀直哉が勝っている――などと仲間内で熱く議論を交わした。学外で醸成された文化に触れるだけで癒されたのだ。
無論、大正が良い点ばかりだと言うつもりはなかった。
帝都にいるからこそ余計に分かる。政治に関しては酷評せざるを得ない。今年の二月に終止符を迎えた宮中某重大事件も記憶に新しい。護憲運動や米騒動、シベリア出兵も同様である。また普通選挙という言葉を契機に、民衆が政を知った過渡期ゆえか、民衆はより過激に、他方政治家はより慎重になってしまったという結果である。
平民宰相と親しまれる原敬首相が、普通選挙の漸進的拡大を目指すと言い、選挙権取得の条件である国税を三円にまで引き下げたのが先日のことである。有権者の資格を制限せず、広く民意を汲み取ることは民主主義の鉄則であるが、どうも首相は時期尚早と考えている節が見受けられるようで――。
「では、明治と比べてはどうかな?」
「大正の方が優れていると思います」
「優劣の話ではない。君自身の好悪でいい」
「ならば、私はこの時代を好ましく思っております」
「そうか。それならば」
僅かな間を置いてから。
「坂ノ上君。君は、大正の世が長く続いてくれると思うかい」
実篤は再び問うた。
「いいえ。思いません」
即答した龍臣に、馨が目を剥いた。
聞く者によっては不敬と騒ぎ立てられる内容である。
「何を根拠に君はそう言うのだね」
「根拠と呼ぶにはいささか薄弱ではありますが――」
この時代もそう長くは続かぬことであろうと龍臣は思う。
聞くところに依れば、大正天皇の御容態は思わしくない。
また今年の三月三日、東宮御学問所を修了したばかりの皇太子裕仁親王は見分を広げるため、およそ半年に渡る欧州歴訪の途に就いた。軍艦・香取に乗艦し、横浜港を出港したのは記憶に新しい。イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、イタリア――半年間で欧州五ヶ国を巡る外遊は順調であるという。今後は摂政に就任し、いずれは日ノ本を導く立派な主導者になるのだろう。
それ自体は喜ばしい報せである。だが、裏を返せば裕仁親王の育成を急いだ結果とも受け取れる。無論、皇太子の歴訪には根強い反対論があった。大正天皇の病状が悪化している際に外遊するとは不敬であるという批判、裕仁親王への負担を不安視する声、大戦後の欧州情勢への懸念――挙げればきりがないが、それでも、元老院の山形有朋、松方正義、西園寺公望、そして原敬首相らの後押しがあった上で実現したのだ。
大正は、今この時でさえ、緩やかでありながらも確実なる破滅に迫っている。
もしかすれば明日にでも天皇が薨去され、裕仁親王が践祚し、次なる年号が発布されないとも限らない。
「膚で感じる東京の空気から判断します」
「空気? 君は空気で時代の終焉が分かるのかい」
「強いて言うなれば直感のようなものです」
「ふむ。君は随分と鋭い感性を持っているんだな」
刹那、実篤が目を絞った。
猛禽の如し鋭い眼光が龍臣を捉えるが一瞬のことであった。
「君は、このまま大正が終わってもいいと思えるかい」
実篤は問いを重ねる。
龍臣は答えなかった。それが何よりの答えであった。
「課長。この尋問には何の意味があるのです」
代わりに問答の趣旨を尋ねれば。
「尋問? 君は、これを尋問だと言うのかい」
僕としては何てことはない雑談のつもりだったのだが、と実篤は白々しく答える。
「それならもう世間話は止めにしよう。繊細な同志の気分を害したくはないからね。代わりと言ってはなんだが、少々ばかり拝聴してもらおうじゃないか」
龍臣が返事をする前に実篤は語り始める。
「君と同じように、僕だってこの時代を、そしてこの帝都を愛している。ほど近い未来に大正が終わりを迎えてしまうことも知っている。だが、このまま終わらせることだけは絶対にしてはならないのだ。なぜか。それはこの帝都が途方もない負債を抱えているからだ。負債とは表現したけれども、そのままの意味じゃない。次の時代が何と呼ばれるのかは知らないが、その年号に持ち越してはならぬものが我が国には満ち満ちているのだよ。不可解で不可思議で、雑多で穢れたものだ。僕自身もそれが何かを明確に言い表すことはできないのだが――」
実篤はそこで言葉を切り、彷徨させていた視軸を龍臣に戻す。
「次の世代に謂れのない汚辱を負わせてはならぬのだ。如何なる犠牲を払ってでも排除しなくてはならないものがこの国にはあり過ぎる。僕はそれらを抹殺するために君を招集したのだ。もう一度言わせてもらおう。我々の目的はこの大正を綺麗なまま終わらせることだ。君も、利害の一致があったからこそ賛同してくれたのだろう」
演説に区切りをつけた実篤は、龍臣の前まで歩み寄る。
「君の正義は僕の正義でもある。皇女殿下より恩賜されたというその軍刀で、存分に君の正義を貫いてくれ給え。もちろん、僕も君の奮闘には十二分に応える所存である」
実篤は自身の右手を差し出す。握手である。
――成る程、これが特高式の命課布達式なのだろう。
熟考の末、龍臣は実篤の掌を握り返す。
――大正を終わらせる、か。
間違ってなどいない。話の筋も通っている。だがどういうわけか、実篤と龍臣の正義には、致命的な隔たりが存在して、生涯この男とは相容れぬだろうという予感を抱いた。その溝が何であるかは皆目見当も付かなかったが、龍臣は実篤の手を握ったことを後悔した。




