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6-2.蛇足

 龍臣が事務仕事を終えて卓上を整理したときには日も暮れ始め、検閲や票読みに苦戦していた同僚達も早々に切り上げて帰って行った。最後となった龍臣は、正門の鍵を金庫から取り出し、己も帰宅の仕度を始める。


 事務室から出たところで、玄関の扉が半ば開いていることに気付く。誰かが立っていた。背格好から若い娘であることは分かるが、逆光となり、詳細は分からない。馨が忘れ物でも取りに戻ってきたかと思ったとき。


「お兄さま。会いたかったわ。こちらにいらしたのね」


 龍臣に踏まれた影法師が言った。


 ――お兄さま?


 己をそのように呼ぶ娘など、龍臣はひとりしか知らなかった。


「まさか、君は嘉多子君か」

「そうですわ。あなたにお目にかかるために、遠路はるばるやって参りました」

「どうしてここが。どうしてここに」

「どうか落ち着いてくださいな。順に答えます。私はどこにも行きません。あなたが下宿屋に残していった荷物を検めればすぐに分かりましたわ。住所さえ分かれば、あとはどうとでもなりますわ」

「それならどうやって帝都まで来たのだ。汽車にでも乗ったのか」

「その必要はありませんわ。空から参りましたもの」

「空? 君は何を」


 刹那、怖ろしい発想が龍臣の脳裏を掠める。


 ――そうだ。彼女は蚕影の娘『()()』なのだ。


 嘉多子が既に変態を遂げ、蚕になっていたとしたら?


「ええ。私は人でもあり、同時に蚕でもありますから。証拠を御覧に入れましょう」


 嘉多子は襟巻を取り払い、制服の上を脱ぎ捨てる。


 均衡のとれた躰が夕陽に晒される。

 整った乳房は刺繍の入った白い下着で隠されている。

 完璧過ぎるが故に、人間らしさの欠いた冷たい肉体である。


 龍臣が目を背けようとした時、ふわり――と、嘉多子の背から左右四枚の翅が現れた。


「そうか、そうだったのか。君にも翅があったのか」

「お兄さまが帝都に発ってすぐ、繭に篭もりましたわ」

「嘉多子君。蚕は空を舞うことができない蟲だと聞いている。事実、姫子も羽搏くことができなかった。君は違うのか」

「詳しいことは私にも分かりませんけれど、私はどうも蟲の血が薄いようですの。つまり人でもあり蟲でもあり――半端な存在です。ですから宙を舞うことができるのだと思います。それに、姉さまは蛹の中で急いてしまったのよ。繭に籠もって眠りから覚めるには、どんなに早くても一週間はかかるの。私だって十日は繭の中でじっとしていたんですもの。もちろん、姉さまだってそれくらい解っていたのでしょうけど――たったの一日で蝶になろうなんて無理があったのよ。まして、脆い躰に傷をつけられてしまっては尚更のこと」

「随分簡単に言うのだな。私には、姫子がどうしても忘れられない」

「私がいるじゃありませんか」


 得意げな声であった。

 不思議と、龍臣にはその声が明瞭と聞こえた。


「お兄さまには私がついております。そんなに過去に怯えるのはお止しになって」

「簡単に言わないでくれ。姫子は私のせいで、私の目の前で」

「似ておりませんか?」


 不意に嘉多子は尋ねた。


「何がだ」

「姉さまと私が、ですよ。仮にも姉妹ですし、私は瓜二つだと思っておりますわ。髪と目の色と、背丈がほんの少し違うだけではありませんか?」


 嘉多子は龍臣を窺うように見て――そこで龍臣は嘉多子と姫子が怖ろしい程似ていることに思い至る。途端に、嘉多子の輪郭が夕闇に溶け出し、一瞬のうちに姫子の姿にすり替わる。


「坂ノ上様。どうしたの。変な顔ね」


 姫子が言った。


 頭部の触角に、頸と手首を包む綿毛、光沢ある翼、意思の汲めぬ双眸、肌蹴た死装束――。


 間違いなく、姫子であった。

 蝶になった姫子が、龍臣を見て、笑っている――。


「――姫子? なぜ、君がここに。そんな、馬鹿なことが」

「ばかって、ひどいのね。私、ここにいちゃいけませんか」

「まさか。そんなことはない」

「ふぅん」


 龍臣が断言すれば、姫子は不愉快そうに唇を尖らせる。不可解な光景に、龍臣は喜べばいいのか驚けばいいのか分からなかった。


 ――これは幻覚だ、妄想だ。姫子はもう、どこにもいないのだ。


 歯を食い縛って前を睨めば、姫子の虚像は掻き消え、嘉多子が戻ってくる。何てことはない。嘉多子が姫子の口調を真似ただけである。龍臣が姫子を重ねてしまっただけである。


「嘉多子君。下手な芝居は止してくれ。悪趣味にも程がある」

「下手って心外だわ。よく似ていたでしょう?」

「心外なのは私の方だ」

「そうは言うけれど、私のこと、すっかり姉さまだと思ったでしょう?」

「何故、姫子を真似た」

「だって、好きだったんですもの」


 嘉多子は龍臣を上目遣いで見詰めた。

 離れた位置からでも、彼女の瞳は(けい)(けい)と輝いて見えた。


「改めて、伝えます。私はお兄さまが好きです。愛しております。決して、幼い一時の感情なんかじゃありません。私は、あなたの外見も好きですが、あなたの内面に惹かれました。私を、あのとき身を挺して庇ってくださいました。穢れた血の私にも、優しくしてくださいました。私達姉妹を救おうとしてたったのひとりで来た勇敢なところも好きです。どうか、お願いです。私をお側に置いてください」


 嘉多子は言い切った。己の心情を全て吐き出さんとする真剣な告白であった。


「駄目だ。私は姫子を愛していたのだ。君の想いには応えることは」

「苦しいままで、いいの?」


 被せるように嘉多子は言う。


「よくお聞きになって。人と蟲は違う生き物なの。姉さまは辛うじて人には見えたけれど、やっぱり境界の向こう側の存在なのよ。どうしたって結ばれるなんて在り得ない。姉さまを想い続けても苦しいだけよ?」


 嘉多子の甘い慰めが、じわりじわりと龍臣の心を蝕んでいく。

でもね、お兄さま――と嘉多子が続ける。


「私は違いますわ。空を舞うことだってできます。でも何人たりとも私を蟲と思う人はいない。私は人でもあり蟲でもある。ゆえに、姉さまにはできなかったこんなこともできますわ」


 嘉多子は翅を広げ、ふっ、と爪先だけで前方に跳んだ。

 優雅に宙を舞い、龍臣の胸に飛び込む。


 (とっ)()に彼女の両肩を掴む。

 姫子がしたくともできなかった羽搏きであった。


「今は代わりでも構いません。あなたの心を慰める道具と思ってくださっても」


 でも、いつかは――と嘉多子は私の背に手を回して。


「私を愛してください」


 と乞うた。


 拒もうと思った。

 だが、龍臣は嘉多子を抱き寄せていた。

 嘉多子の直向きな慕情が、龍臣の空虚な心を満たしていき――。


 ――お願い、坂ノ上様――。

 ――私のことを忘れないで――。


 姫子の泣き顔が浮かんで、嘉多子と混じり、消えていった。


 玄関の扉が、風によって閉ざされた。

 暗い廊下で、龍臣は誰とも分からぬ娘を掻き抱き続けた。

※完結。お付き合いいただき真にありがとうございました。


※参考文献

 『養蚕と蚕神――近代産業に息づく民族的想像力』

   2020年2月15日 初版第一刷発行 

   著者  沢辺 満智子

   発行所 慶應義塾大學出版株式会社


 この書物には大変助けられました。養蚕がいかような道を辿り近代産業の中心に据えられていったのか、蚕というものがどのように生きて死んでいくのか、金色姫伝説やその信仰、それにともなう民俗学的な考察が詳細すぎるほど詳細に綴られ、大いに想像力を掻き立てられました。また著者の取材による知識と経験には脱帽ものです。養蚕や蚕神の歴史や想像に興味がある方は是非とも一読してみてはいかがでしょうか。

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