6-1.帝都への帰還
龍臣が自我を取り戻したのは汽車の中であった。制帽を目深に被り、布製の簡素な座席に腰掛けている。固く握られた右の拳を開けば、皺だらけになった帝都行きの切符がある。
あの惨劇からどれだけ経ち、いかにしてここに至ったかの記憶はない。幾星霜も昔の出来事であるような気もするし、たった数刻前の話だったようにも思う。
他の乗客に日時を尋ねようと周囲を見回すが、近傍には誰も座っていない。離れたところはどうだと腰を浮かすも、車両の乗客は龍臣だけであった。
不意に何者かの気配を察して嵌め殺しにされた窓を見れば、血色の失せた屍人の如し男が龍臣を見詰めていた。形崩れした帽子に、薄汚れた黒衣の制服という格好である
龍臣が会釈をすれば、隣席の男も同時に頭を垂れる。
「今、何日の何時かご存知でしょうか」
龍臣と男が異口同音に問うた。
居心地の悪い沈黙が訪れる。
男は怪訝そうに眉を顰め――そこで、この頗る顔色の悪い男が、暗い硝子に映った自身であることに気付く。今が夜であるということにも。
余りの滑稽さに笑ってしまった。長い夢を見ていた心持ちであった。だが、盛岡で体験した変事が夢幻の類ではないことは、全身の疲労からも明白である。
――姫子。
龍臣が愛した娘である。
だが龍臣は姫子を救うことができなかった。
姫子は龍臣の眼前で、羽搏き、地に落ち、果てた。
今の龍臣には、折れ曲がった切符と、恩賜の軍刀しかない。帝都から持ち込んだ旅行鞄もどこかにやってしまった。どこに置いたものかと首を捻るが皆目見当も付かない。疲弊した精神は考慮を拒み、休息を欲していた。その癖、嘉多子に世話になった礼を述べていないことや、白菊に碌な挨拶もせずに去ってしまったことなど、然程重要でもないことが浮上しては霧消していく――。
龍臣は嘆息して、目を瞑る。
帝都に着くまで何も見たくない――と祈った瞬間、意識は暗闇に呑まれた。
久方振りに仰ぐ帝都の空は透けるような茜色をしていた。
化膿した傷のせいで熱があるのか、視界が霞み、平衡感覚が覚束ない。果たして今見上げている空は朝焼けか夕焼けかと、麻痺した脳髄で考える。
脚を引き摺りながら特務課の官社を目指す。右膝が酷く痛むが道端に座り込むことはしない。傷痍軍人か物乞いかと思われ、小銭と憐憫を投げつけられるのが目に見えているためである。
駅に繋がる通りから、民家が建ち並ぶ区画に曲がる。
今は何もかも放棄して眠りたかった。
眠って、傷を癒して、姫子を悼んで――現実に立ち戻るのはそれからでも遅くはない。
そんなことを考えながら歩いていれば、特務課の官舎に着いた。
規模の小さな洋風建築の館である。
館の前に女が立っていた。黒い髪と簪が特徴の――馨である。龍臣を認めると、僅かに口角を上げ、手袋を嵌めた掌を挙げる。
「隊長。どうされたのですか」
「貴方を待っていたのよ。随分と苦労したと聞いているわ」
「聞いた、とは。誰にですか」
「密偵班の裏辻さんからよ」
「具体的には何と」
「武力衝突が起きて、貴方の右膝を撃ち抜いてしまったと聞いているわ。ねえ、大丈夫なの?」
馨は龍臣の膝を心配そうに見下ろし、歩くのも大変でしょう、と手を差し伸べる。だが龍臣は、お気持ちだけ頂戴します、と丁重に断る。
「あの野郎は他に何か言っておりましたか」
「私は何も聞いていないわ。課長なら何か知っているかもしれないわね。それにしても何があったの。あの野郎だなんて口が悪いわ」
「因縁が生まれてしまったんですよ」
「因縁?」
馨は首を傾げるが、龍臣はその疑問を黙殺する。龍臣が多くを語りたがらない性分であることを知っている馨は追求を諦めて素直に引き下がる。
「課長ならいつもの会議室で仕事をしているから行きましょう。課長も貴方の口から報告を聞きたがることでしょうから都合が良いわ」
「そうですね。課長には私からも問い糾したいことがあります」
龍臣は右脚を引き摺りながら官社へズカズカと踏み入っていく。
会議室兼応接室には、洋卓に書類を広げながら腕を組んで唸っている実篤がいた。入室してきた龍臣を認めると、おう待っていたよ、と暢気に声を上げた。機密事項の類であろう諸々の書類を手早く纏めると、脇に置いた鞄の中に押し込んでしまう。
「座り給え、龍臣君。此度はご苦労であった。密偵班から君の活躍は聞き及んでいるよ。やはり神殺しは君にしかできない任務であったな。――ウン? どうしたのかい、座り給えよ」
膝を撃たれたと聞いているぜ、と実篤は着席を勧める。だが龍臣はそれを無視して、天板に手を叩きつけ実篤を睨み付ける。猛禽の如し瞳に射貫かれ、仰天した実篤は安楽椅子の背凭れに寄りかかる。
「課長。ご無礼をお許しください。どうかひとつだけ教えてください」
「わ、分かった。何でも聞いてくれ」
「なぜですか」
「なぜというと」
「なぜ、姫子と嘉多子にまで抹殺命令を出したのですか。元来殺すかどうかは私の一任によるものだったはずです。あの姉妹は懸命に生きておりました。確かに、糸を吐き、繭に篭もり、蝶に変態するという我々人間には為し得ない特徴こそありましたが、それだけです。課長の命令がなければ、裏辻殿が繭を切ることもなかった。姫子は死なずに済んだ。私は此度の事件において裏辻殿を許すことはできない。返答次第によっては課長。あなたも許すことはできない。死んでしまった姫子に謝罪を。それができなければ、私は特務課を抜けさせていただきます」
龍臣の要求を受けても、実篤は大きく揺らぎはしなかった。額に流れる汗を手巾で拭った後、君の言うことはもっともだ、と一応の迎合をみせる。
「私があの姉妹を抹殺せよと言ったのは、君の言った通り、あの姉妹には蟲の血が流れていると分かったからだ。否、分かったというのは正確ではない。密偵班から送られる報告書や電報には、どれも姉妹以外のことばかりだ。そうなれば考えは絞られる。姉妹が本当に、取るに足らぬ凡庸な人物であったか。あるいは君か密偵班のどちらかが姉妹に感化されてしまったかのどちらかだ。君の反応を見るに、私の命令は誤りではなかったようだな。だが、君には随分と酷を強いてしまったようだな。そこだけはすまなく思う」
実篤は椅子から立ち上がると、素直に頭を下げる。
「しかしだ、龍臣君」
頭を上げた実篤は続ける。
「僕が謝るのは、あくまで僕の命令により、君が心身共に並々ならぬ負担を強いてしまったことだ。それ以外の事象については譲るつもりはない。つまるところ、此度の事件で犠牲になった者達に対して謝ることは絶対にできない。これでも僕は特務課の課長だからな。自分の指揮には自信を持たねばなるまいし、謝るくらいなら最初から命じていないのだよ。だから僕は、君の言う通りに、姫子という娘に対して謝ることはできない」
「そうですか。口幅ったいことを申し上げてしまい、申し訳ありません」
「いや、僕は気にしていない」
「課長。今までお世話になりました」
龍臣が調帯につけた支給品の拳銃を洋卓に置けば、二人の遣り取りを入口で見守っていた馨が慌て出す。実篤に至っては何が起きたか分からないと言わんばかりに、口をあんぐりと開けて茫然としている。
「どうされたのですか」
「どうしたはこっちの台詞だよ。どうして君が辞めることになるのだ。それ以前に、君に辞められるとこっちの業務が回らなくなるから非常に困るよ」
「先刻申し上げた通りです。姫子に対する謝罪ができないのであれば特務課を抜けさせてもらいます。裏辻殿も許すわけにはいかない。課長、密偵班の連中は今どこにいるのですか」
「君のような危険な男にそれを教えるわけにはいかないな。第一聞いてどうするつもりだね」
「同じように謝罪を求めるだけですよ。相手の態度にもよりますが命までは取りません。贖罪の命は私のものだけで十分でしょう」
龍臣が本心を吐露すれば、実篤は困り果てたように溜息を吐いた。
「あのなァ、君。その無垢なる信念は確かに君の長所であり美徳なのだろう。事実、僕も君のそういう危うさを気に入っている節があるのだが――ここは特高のしかも特務課だぜ。人は勿論、神だろうが鬼だろうが、文明社会の瑕となりうる一切を屠り捨てる――抜刀隊の一員だぜ。それなのに幼い感情論を切り捨てられずにいるとは、自覚に欠けているとは思わんかね」
「幼い感情論だと」
龍臣が反射的に、軍刀の柄頭に右手を乗せれば、馬鹿な真似は止しなさい、と見かねた馨が間に入る。
「龍臣君。君はそれほどまでに、姫子なる娘に入れ込んでいたのかね?」
龍臣に拳銃を向けた実篤は問うた。引鉄に指は掛かっている。あと少々でも力を込めれば、弾丸は発射され、龍臣の顔面を打ち抜いてしまうだろう。
「そうです。私は姫子を愛していた。だから課長。私は自分というものが許せずにいるのです」
右手を軍刀から放し、馨が巻き添えを食らわないように押し留めれば、実篤も拳銃を懐にしまう。
「なるほど。君の事情はよく分かった。ならば――こういうのはどうだろうか。現在、蚕影神社には祭神も神主も不在というわけだ。ここで僕が上に掛け合って、新たな神主を用意させ、そして姫子君を始めとする散っていった者達の鎮魂祭を執り行おうじゃないか。どうかね。これなら君は納得してくれるかい?」
阿るように実篤は問うが、龍臣にとってその反応は意外であった。
「宜しいのですか」
「宜しいから提案したのだ。それとも何かい。君はまだ不服というのかい」
「とんでもありません。しかし可能なのですか。神主の準備にしても鎮魂祭にしても容易ではないように思われます」
「君、内務省という組織を甘くみちゃいけないぜ。神社仏閣の管理、神職の行政事項だって内務省の内部部局――神社局の仕事だ。僕が声を掛ければ動いてくれるだろう。流石に今すぐというわけにはいかないだろうが、神主の不在を放置することもあるまい」
「課長。お心遣いありがとうございます。そして重ね重ねの無礼、申し開きもございません」
「いや、なに。君の働きぶりにこちらも応えねばと思っただけさ。それはそうと、だ」
思い出したように実篤は言った。
「改めて云おう。君はよくやってくれた。君のお蔭で、この大正も終わりに近付いたのだ。君は間違いなく、この大正という時代の一端を創ったのだ」
「大袈裟ですよ。私は」
本当に護りたかった者を護れなかったのだから――と龍臣は歯噛みする。
「謙遜する必要は無いぜ。これでますます大正は終わりに近付いたのだ」
実篤は、葉巻の一本を投げて寄越す。
「吸い給え、同志よ。残り僅かになったこの大正の空気を共に愉しもうじゃないか」
これも供養の一つだと思うぜ――と実篤は嘯いた。




