1-1.特別高等警察、会議室兼応接室にて
大正十年四月二十九日。
特別高等警察特務課、会議室兼応接室。
己に宛てられた手紙を読み終えた龍臣は便箋を折り畳んで封筒に差し戻す。何の変哲もない茶封筒には、古巣である陸軍第一師団の所在が柔らかな肉筆で書かれている。
伏せていた顔を上げれば、欅の一枚板で作られた重厚な洋卓の向こうに、安楽椅子に腰掛ける男女が龍臣を見詰めている。男は三〇代半ばといった外見であり、上等な紳士服に身を包んでいる。痩躯であり、結核患者の如し青褪めた膚をしていながら、瞳だけはありありと熱を灯している様子は思想家宛らであった。隣の女は、二十歳そこいらという容姿をしている。鼻梁の通った涼しげな顔立ちと後ろ髪を纏める簪だけが特徴の娘である。
前者が特務課の課長にして最高責任者の後藤実篤。
後者が特務課抜刀隊の隊長、黒澤馨である。
「読んでくれただろうか。それが君に任せたい仕事だ」
実篤は懐から葉巻を取り出して銜えると、燧火で先端を炙って着火する。最初の一回は焦れるほど緩慢に喫い、量の多い煙を吐き出す。嫌煙家の馨が顔を顰めるが実篤は気付かない。
「何か質問はあるだろうか」
実篤は美味そうに煙を吐きながら尋ねる。
「ええ。細かいところですが何点か」
龍臣が首肯すれば、構わない言い給え、と実篤が答える。
「なぜ、私なのですか」
「そりゃあ君、相手が君をご指名だからだよ。何より神を祓う――神殺しなどという物騒な仕事など、かつて酒呑童子を討った君の適任だとは思わんかね」
龍臣は思案する。酒呑童子というのは、一条天皇の御代に、大江山に棲み、悪事を働いた結果、源頼光に退治された悪鬼――ではなくて。
大正の初頭、帝都に暮らす民衆を攫い、犯し、殺し、悪逆非道の限りを尽くした、臣民を恐怖と絶望のどん底に突き落とした鬼である。
当時、陸軍に所属していた龍臣達、東京第一師団に勅命が下され、龍臣もある事情により決死隊に志願、結果、首魁である鬼の撃破および攫われた娘達の救出という武勲を上げたこともあったが――決死隊の多くが討ち死にしてしまったがため、詳細は秘密裏のまま、事件は闇に葬り去られたはずではなかったか。少なくとも龍臣は、己が功績を他人に吹聴した覚えもなければ、新聞記者からの取材にも応じた覚えはなかった。
「手紙の差出人は、どうして私が鬼を討ったことを知っているのでしょうか」
「簡単な話さ。陸軍の連中が君のことをバラしたんだよ。君のいた部署は大層口が軽いとみえる。辞める時に問題でも起こしたのかね」
眉根を寄せた龍臣に、愉快そうに実篤は笑みを深める。
「手紙の差出人である蚕影嘉多子は、最初は陸軍に手紙を送ったそうだ。東京第一師団が派兵して事件を解決したことまでは報道されたからな。しかし立役者である君がその頃には軍を辞していたこともあり、軍は我々特高に連絡を寄越したというわけだ。その後は第一師団を通して遣り取りを進めさせてもらった次第だよ」
「陸軍の秘密に対する姿勢はひとまず置いておくとして。繰り返しになりますが、どうして私なのですか」
「うん? 御令嬢からの頼み事というだけでは不満かね」
「不満というほどではありませんが、私である必要性は薄いかと。東北の盛岡であれば、弘前の第八師団の縄張りです。もしくは現地の特務課にでも依頼すべき案件ではありませんか」
「そうしたいのもやまやまなんだが盛岡に特高はないぜ。特高が設置されているのは一道三府七県だ。東北には思想犯ないし政治犯を取り締まる必要性は今のところ薄いからね。それに先方の御令嬢には、君が出立することは既に通達しているのだ。観念してくれ給え。私の配下である密偵班も既に派遣している。上手く使ってやってくれ」
そこまで言った実篤は、火の消えかけた葉巻を銜え直し、大きく煙を吐いた。
「有り体に言ってしまえば君にはもう拒否権がないのだよ。せいぜい与えられた任務をこなし給えよ。神を殺せる機会など中々やってこないぜ」
「質問、宜しいですか」
「何かね?」
「命令については承知いたしました。人間社会に仇なす者は全て斬り伏せてみせましょう。出発の日時についてはどのように」
「それについては既に決まっている。急な話ですまないが来週の頭には到着してくれ。期間は一週間だ。宿も手配している。詳細は黒澤君に渡してあるから目を通してくれ」
「来週の頭とはまた急ですね」
抗議こそしないものの、龍臣は目を細めて実篤を睨み付ける。
思えば実篤の無茶な仕事振りに付き合うのは初めてではなかった。己が異界の者達を看破できる体質であるのを良いことに、護衛として付き従う中で実に数多の怪異を斬り捨ててきた。
小鬼や餓鬼といった妖怪から、怨嗟のあまり成仏し損ねた亡霊、果ては祟り神など、人間でないものは善も不善も問わず一切が滅殺の対象となった。酷い時には、拷問の果てに衰弱死させた無政府主義者の屍を持ってこさせ、怨霊を痛めつけて情報を吐かせろなどという難題を吹っかけられるときだってあった。無論、注文通りに仕事を済まさなければ、屍になるのは己の方だと龍臣も分かっている手前、そして生来の生真面目さと怪異を憎む利害の一致も手伝い、手を抜くことはなかった。
龍臣にとっては、特高が掲げるべき正義も理念もどうでも良かった。上司の実篤が抱く、人間以外の生物に向ける歪な敵愾心だけが共感できる点であった。畢竟、怪異を殺すことができるゆえに龍臣は特務課に所属していた。
「貴方の言うことはもっともね。でもこれはもう確定事項なのよ。我慢して頂戴」
はい、これが詳細よ――と言って馨は立ち上がると、龍臣の前に分厚い封筒を置いた。
龍臣が中身を検めれば、宿の住所や地図から、依頼人である御令嬢――蚕影嘉多子の調査記録や写真までが付属している。小さな封筒には、交通費を含めた雑費であろう金子が三十円ばかり納められている。高等文官の給与が七十円、大卒初任給の平均が四十円、大工の日雇い賃金が三円と八銭、珈琲一杯が十銭であることを思えば中々に奮発した金額であろう。
「依頼人まで調査するとは随分と丁寧な仕事ぶりですね。人に求められぬ神を始末するだけの簡単な仕事ではありませんか」
「神殺しを簡単と言ってのけるのは貴方くらいよ。もちろん、この仕度には理由があるわ。あとお金は大事に使いなさい。追加の支援は認めないわ」
「金については了解しました。しかし理由ですか」
龍臣が聞けば、馨は実篤に視線を送り発言を促す。
「君に宛てられたその恋文だが、蚕について詳しく書いてあったね」
「どこをどう見たら恋文になるのですか。蚕について記載されていたのは事実ですが」
「御令嬢が君のような若く優秀な男を頼りにしているのだ。これを恋文と言わずして何と言うべきか――否、そんな話などどうでも良いのだ。坂ノ上君、君は養蚕について詳しいかね?」
「いいえ。生憎これといった知識も経験も持ち合わせてはおりません」
「まあそうだろうな。今日日、養蚕などは女性の仕事になってしまったからな。それでは遺伝学についてはどうかね?」
「遺伝学。失礼ながら話が見えません」
「グレゴール・ヨハン・メンデルが一八六五年に発表して、一九〇〇年に再発見された、分離の法則、独立の法則、優位の法則――通称メンデルの法則のことだ。実験にはエンドウを使ったことで有名だな。平たく言えば形質遺伝――子が親に似るという現象を科学的に研究したものであるのだが――本邦でもこの考えは明治の頃から学者の間で普及していてね。蚕についてもこの法則が適用されると考えられ、国立原蚕製造所ではついこの間――大正三年に一代交雑種の十八種類が国産種として、全国の養蚕家に配布されるようになった。これは生糸の品質を安定かつ良質なものにするための取り組みであるわけだが、なぜそれが求められたかは理解しているかね?」
「軍備費の拡張を目的としたからでしょうか」
「うむ、その通りだ。明治三八年、日露戦争に勝利した我が国は、主な輸出品である蚕糸の量産を強化する運びとなった。もっとも欧州大戦後の不況や、輸出先のアメリカから品質に関わる苦情が寄せられるなど、生糸および蚕種の輸出が順調ではなかったことは確かなのだが、まあ、これについてはひとまず置いておこう。問題は先刻も言った通り遺伝学――もっと言えば優生学についてなのだよ」
優生学?
「明治三九年、帝大農科の助教授が、優性の法則が蚕にも適用されることを論文にて発表したのだが、ときに坂ノ上君。君はこの法則が人間にも適用されると思うかい?」
「ええ。法則というくらいですから普遍的なものではありませんか」
「そうだ。件の助教授は『遺伝学の進歩と人生の関係』と題して、明治四三年に雑誌『理学会』に寄稿しているのだ。曰く――今日の人類は淘汰の結果、今日の進歩をなしたことに相違はないが、社会を構造するにおいて、健康に生存するにおいて、様々なる不良性を現存するものであり、教育の力により、一時を糊塗し、法律、衛生など諸種の効果でこれを圧迫するも、結果良好なるは一代限りであり、人類永久の福利増進には遠く及ばない」
そこまで語った実篤は、一寸ばかり伸びた葉巻の灰を灰皿に擦りつけるように落とした。
「続けよう。――是において余輩は、繁殖学上の力によりて淘汰の実行を期待する。即ち人類中にある各種遺伝の性質を研究して、之によりて婚姻の習慣を改良し、当時地方にて行われる疾病者の結婚におけるが如き風習を作為せば、人類なるものが円満なる発達を為すことになるだろう――要するに、だ。人類の婚姻にも遺伝子遺伝学ないし優生学の考え方を適用すべきだとこの学士様は説いているのだよ」
「課長。失礼ながらやはり話が見えません。優生学にしろ養蚕にしろ、今回の任務において、いかなる関わりがあるのですか」
「殺すのは神だけに限った話ではないということだ」
実篤は答える。他者の生命などどうでもいいと理解している者に特有の、淡々とした口振りであった。しかし龍臣には実篤の言わんとすることが掴めない。
「それはどういう意味でしょうか」
「その手紙には、呪われた姉妹が云々(ぬん)と書かれてあっただろう。この唯物科学全盛の時代に呪いというのも馬鹿馬鹿しいのだが、もしも、その呪いとやらが実在したのなら。遺伝的なものであったなら。次の時代に残すのに相応しくないものであったとしたら。その際は君の判断で、一族郎党皆殺しにしてくれて構わない。君に預けた諸々の資料は、その判断基準ないし参考資料とでも思ってくれ」
「なるほど。だからこその事前調査というわけですか」
「そういうことだ。我々だって無駄に屍を転がす趣味はない。まして相手は未来ある麗しの女学生ときたものだ。もっとも、密偵の報告では表面的なことしか分からなかったわけだから、結局は君に一任してしまうことになるのだがな。もし仮に殺すと判断した場合、心配は要らない。報告も不要だ。現地の警察、所管署の上役には既に話を通してある。要するに買収済みだ。よって君が捕縛、投獄されることはない。安心して仕事に励んでくれ給え」
期待しているよ、と言って実篤は再び煙を吐いた。飾電燈の温い光に照らされた紫煙は、宙空を漂った後、溶けるように消えていった。馨が不快そうに眉を顰めて咳払いをするも、やはり実篤は気付かない。




