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5-3.死への羽搏き

 残されたのは、男達の屍と神の骸、半壊した輦輿と刻まれた繭であった。


「姫子」


 龍臣の唇から娘の名前が零れた。


 ――私のせいで姫子は。済まない。赦してくれ。


 龍臣は歩み寄ろうとするが、躰が言うことを聞かず、その場に膝を突いてしまう。

 龍臣を支えるものは何ひとつ残されていなかった。人としての誇りも、姫子への恋情も、どこかに霧消してしまった。どうにもできぬことを悟ってしまった。誰かの跫音がした。しかし龍臣には顔を動かす気力も残っていない。


「お兄さま――」


 視界の隅に娘が映り込む。嘉多子であった。


「お気を確かになさって」


 龍臣の双肩に嘉多子の掌が乗せられる。他人を気遣う、暖かな言葉と体温であった。だが、龍臣は嘉多子を見ることはしない。姫子の像が嘉多子に浸食されることを恐れたためである。


 繭はほとんど動かなくなったが――異変が起きた。


 裂け目から、白い手が生え出した。小さなふたつの掌である。その手は、緩慢な動きではあったが、内側から分厚い生糸の壁を()じ開けようとしている。


 一尺、二尺と(ほつ)れは拡がっていき、繭の中から娘が顔を覗かせる。

 白い髪に黒い眼をした――龍臣の知っている娘であった。娘は外界に無垢なる視線を這わせ――その目が龍臣で止まる。遠目からでも分かった。娘は、龍臣を見て微笑した。


「姫子」


 歯を食い縛り龍臣は立ち上がる。

 嬉しさのあまり、姫子しか眼中になかった。

 ゆえに。


「嘘よ。いくらなんでも早過ぎるわ」


 嘉多子の声は聞こえなかった。


「お兄さま、お待ちになって。姉さまは眠ってから一日も経っていないのよ。そんなに急に姿を変えることなんて無理よ。躰の方がもたないわ」


 聞いてらっしゃるの、ねえ――と嘉多子が龍臣の袖を掴む。


「嫌な予感がするわ。姫子さんに触れるのはお止しになって。お兄さまだって姉さまのことが大切なんでしょう」


 切羽詰まった制止であった。


「嘉多子くん。話は後だ」

「駄目よ。お願い待って」

「できぬ相談だ」


 嘉多子を振り払い、龍臣は今度こそ輦輿の傍らに立つ。


「姫子君、聞こえるかい。姿を見せてくれないだろうか」

「うん。いま、私も、そちらに――」


 既に繭は裂かれ、小柄な姫子には十分過ぎる空間が空けられていた。

 最初に頭が出てきた。額の上から、黒い二本の触角が生えている。頸周りは白い綿毛に覆われている。次いで、腕が出てきた。節くれ立った五指が土を掻く。手首も、量のある綿毛に飾られている。胴が出てきた。(ゆき)(いろ)の着物に(こき)()の帯は(はだ)()て、肩から腰にかけて青白い月光に晒されている。背には翅があった。鱗粉に包まれた光沢ある四枚の翼である。二本の脚も躰に引き摺られ――繭の中には、白く濁った液体が留まるだけとなった。


 完全なる蚕蛾である。

 変態を遂げたばかりの姫子は座り込み、澄んだ双眸で龍臣を見上げている。

 意思の汲めぬ瞳をしていたが、不思議と龍臣には愛しいものに感じられた。

 姫子の帯は、真っ二つに斬られ、垂れ下がっている。

 露わになった裸体を隠そうともしない。


 腹部に水平に走る一本の(きず)が痛々しいが――その瑕が霞んでしまう程美しい躰をしていた。否、その瑕すらも姫子の一部で、儚く神秘的な様を強調しているかのようであった。


 姫子との距離は、歩幅にして十歩。たったそれだけの範囲に、姫子がいる。

 それが龍臣には堪らなく嬉しかった。


「姫子君。立てるかい」


 寄ろうとした龍臣を、姫子は頭を振って拒む。


「来ないで。私から、参ります。貴方はそこにいて。私は確かに蟲だけれど、でも、貴方と一緒に生きたい」


 だから、私から行かなきゃ――と姫子は細い脚を震わせながら立ち上がる。

 羽織っていただけの着物は重力に逆らえず地に落ちた。

 四枚の翅が三度、力強く羽搏いた。

 夜風がすり抜け、姫子の髪が、触角が、翅が――微かに揺らぐ。


 照り輝く満月の真下に佇む姫子は、天女かと見紛う程に鮮麗であった。

 今この瞬間、世界には龍臣と姫子しかいなかった。

 見詰め合い、どちらからともなく頷いた。


 姫子は翼を広げながら龍臣へと跳躍する。

 龍臣は、胸元に飛び込んでくるであろう彼女を抱き留めようとして。


 ――蚕とは、餌であり、繭であり、贄なのです――。

 ――蚕に幸福な未来など間違つても訪れやしないのです――。


 誰かの訓戒が脳裏を過ぎる。

 姫子の手が龍臣に届くことはなかった。

 宙に舞う寸前、姫子は転倒した。


 何に(つまず)いたのかと見れば、姫子の足首に、脱ぎ捨てた着物が絡み付いていた。

 龍臣はすぐ足下の姫子に寄り、助け起こそうとして。


 ――何か、妙だ。


 強烈な違和を抱く。

 姫子は龍臣のすぐ前に伏せている。


 なのに、何故あんな遠いところに二本の脚がある?


 おかしい。

 この光景はおかしい。


 何故、姫子の躰は伸び切っている――いや違う。


 何故、姫子の胴と脚は

 千切れて

 いるの

 だ――。


 下半身と上半身の間に白い河が流れている。河には白濁色の体液だけでなく、腹に収まっている筈の腸に子宮、膀胱らしき臓物が散乱している。どれもが真白に光り、人間の内臓は赤色であるという常識などまるで通用しない光景であった。


 (さく)(らん)した龍臣の精神を辛うじて繋ぎ止めたのは、姫子の呼び声であった。


「坂ノ上様。私は――」


 龍臣は姫子を仰向けにさせ、抱きかかえる。

 横目で損壊した姫子の下半身を見遣る。つい先刻まで温かな生物であったはずなのに、今では不細工な無機物にしか見えなかった。


「嗚呼、そっか。やっぱり、駄目だったのね」


 神様に食べられてしまう前に蝶になって、貴方と共に生きようとしたんだけどな――と姫子は自虐的な笑みを浮かべる。額には脂汗が浮いて、余計に姫子の貌が白く見えた。


「姫子君。待っててくれ、今手当てを」

「手遅れですわ。そんなことより、ね」

「そんなこととは何だ。私は、君を」


 死なせたくはないのだ。


「お願い。聞いてくださいませ」


 己の死を覚った姫子に、龍臣は何も言えなくなってしまう。

 姫子は、痛いなあ、と呟いたのち、紡ぐように言った。


「ずっと繭の中で考えておりました。私は蟲で、虚弱(ひよわ)な蚕。だから、どんなにがんばっても貴方より早く死んでしまう。けれど、貴方の心の中で生き続けることなら私にだってできるの。貴方さえ忘れてくれなければ。お願い。私のこと、忘れないで。貴方の心の、ほんの片隅にでもいいから側にいたいの。私もずっと、貴方のこと、愛しているから――」


 姫子の声は(なみだ)に濡れていた。

 小さな手を伸ばし、龍臣の頬を二回、撫でた。


「分かった。約束する」

「良かった。私の最期を、貴方に看取ってもらえるのなら、もう」


 後悔はありません――と姫子は目を閉じた。


「――姫子君?」


 龍臣は姫子を揺り動かすが、もう二度と姫子は動かなかった。

 龍臣は、自身の世界が崩れる音を聞いた。

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