■姉妹
嘉多子が姫子の部屋を訪れたときには既に黄昏時を迎えていた。解放された窓からは照柿色の日差しが差し込み、部屋の中央に鎮座する輦輿と、中にスッポリと修められた作りかけの繭を静かに照らしている。
膝を抱えるような姿勢で繭の中にいた姫子が瞼を開く。蘇芳色の瞳に見詰められ、嘉多子は姉を騙した罪悪感に駆り立てられる。
「姉さま。勝手に入ってごめんなさい。まだ起きていたのね」
「まだ繭は完成していないから眠るわけにはいかないわ。それに坂ノ上様にも会いたかったから。会いに来てくれるかもしれないから」
「お兄さまのことなんだけれど」
「坂ノ上様がどうしたの?」
「言いにくいのだけれど、この館をお出になったわ」
「――そう。あの怪我で心配だわ。でもどうして。お帰りはいつになるのかしら?」
「もう帰らないわ。菅原さんのところの下宿屋さんでお世話になると聞いているわ」
「え――」
姫子の瞳が見開かれる。
驚愕と絶望が入り交じった純真な感情であった。
「そうなのね。もうお会いすることはできないのね」
「そのことだけど、私、姉さまに謝らなくてはならないことがあるわ」
姫子の眼差しに耐えられず、嘉多子は切り出す。
「そんなに改まってどうしたの?」
「私、お兄さまに嘘を吐いてしまったの。もう姉さまは繭を作って眠ってしまったから、会うことはできないんだと」
「どうしてそんな嘘を吐いたの?」
姫子は怒りも悲しみもしなかった。頸を三十度ほど傾げて、純粋に尋ねる。
妹を気遣う姉の顔をしていた。それが余計に嘉多子を乱す。
「お兄さまが姉さまに会おうとしたからよ。姉さまにお兄さまを取られたくなかったから。嫉妬よ。そう、これは醜い嫉妬なのよ」
堪らずに嘉多子は答える。
だが、やはり姫子は怒りも悲しみもしなかった。
ただ一言。
「馬鹿な子なんだから」
と言った。
その言葉には慈しみすら込められていた。しかし嘉多子には言葉の意味が分からない。姉妹の縁すら切られる覚悟でいたのに、どうしてこの人は笑っているのだろうと思った。
「姉さま。どうして?」
そうも優しく微笑んでいるの?
怒らないの?
「私は確かに坂ノ上様を、ね。こうして繭を作っている今だって、最後に一目だけでもいいから会いたいとは。そう思う程度にはあの人のことを。でも、ね」
「でも、なに?」
「でも、私の想いなんてどうだって良いのよ。私は蟲で、あの人は人間。この想いが報われることなんてないのだから。ただ最後に――私がまだ人間でいられるうちに――一目だけでも良いから会いたいと思った、ただそれだけの話なんだから。実際に、あなたのことをお願いしますって坂ノ上様に頼んだのよ?」
姫子はそう言うと、口から糸を吐き出して繭を作り始める。その目から透明な雫がつうと垂れたのを嘉多子は見逃さない。
「姉さま。私達にできることをしましょう」
「できること?」
「お兄さまを信じましょう」
気が付けば舌が勝手に動いて喋っていた。先刻まで抱えていた疚しさはどこかに消え去り、胸に熱いものが込み上げていた。
「坂ノ上様の何を信じるの?」
「私達を金色姫から、お父さまからお救いになってくださることをですわ」
「――そう。姫子さんは強いのね」
でも私には信じることはできないわ、と姫子は言った。
「どうしてそんなことを言うの? お兄さまは悪い人なんかじゃないわ」
「そんなことは分かっているわ。坂ノ上様は優しい人よ。だけどね、繰り返すようになるけれど、私は蟲であの人は人間なのよ。幸せな結末になんて起こり得ないのよ。私は繭の中で眠り、眠ったまま神様に食べられてしまう。そう言い聞かされてきたの。今更になって生き方なんて変えられないわ」
姫子の言葉には、自分に言い聞かせるかのような響きが込められていた。
「――ああ、でも。坂ノ上様が私を助け出してくれる。そういう夢を見ながら、死んでいくというのはきっと良いことね」
「夢なんかじゃないわ。現実になるのよ」
「そうかしら」
「そうよ」
間髪入れずに嘉多子が頷けば、眩しいものを見るかのように姫子は目を細めた。眠いのだろうと。人間でいられる刻限が迫っているのだろうと嘉多子は解釈する。
「もしお兄さまのことが信じられないと言うのなら――眠りの時間を短くして、すぐにでもその繭から出てしまえば良いのよ。きっとお兄さまは、神様もお父さまも、全ての問題を解決して、姉さまのことを――たとえ、どんな姿になったとしても――羽搏いたところを受け止めてくれるわ」
「そうだったら良いわね」
「そうに決まっているでしょう」
「負けたわ。嘉多子さんがそこまで言うのなら、私も信じることにするわ。坂ノ上様のこと。私はきっと醜い蛾になるのでしょうが――そうね。懸命に羽搏いてみせるわ」
良かった説得に応じてくれた、と嘉多子は安堵する。そして夢想する。
姫子が蝶ないし蛾に変態するところを。きっと全身が透けるように白く、羽衣の如し翅をもった天女のようになるのであろう。そんな姉が夜に飛翔して、愛しの殿方の許へ飛び込むのだ。確かに都合の良い妄想ではある。だが甘く儚い想像は嘉多子の心を確かに支えた。
姉と男を天秤にかける罪悪感も、失恋が齎す胸の疼きも、今だけは感じなかった。




