■裏辻と白菊
蚕影邸、玄関。白菊は裏辻を見送るため従いついてきた。
「なあ女中さんよ。先刻から気になっていたんだがよ」
靴を履いた裏辻が振り向いた。口許こそ好青年らしい笑みの形をとってはいたが、その三白眼は白菊の瞳をしっかりと見据え、白菊は強烈な居心地の悪さに襲われる。同じ特別高等警察という組織でも、姉妹が熱を上げている純朴な若者とは大違いであると密かに白菊は思う。
「あんた顔色が悪いぜ。何かあったのかよ」
「――いえ、特に、何もありませんわ」
「そうかい。言えないってことか。それなら無理に聞くつもりはねえが」
裏辻はしばし口を閉ざした後。
「あんた。蚕影天涯のことをどう思っている?」
と聞いた。
依然視線は白菊を捕らえて放さない。
唐突な問いであった。
「旦那様のことですか。立派な方だと思っておりますわ」
「そうかい。それなら嘉多子嬢と姫子嬢との関係はどうだ。良好かい?」
「――概ね、良いものと思われますわ」
「今、妙な間があったな。嘘を吐いたって良いことはねえぞ」
「嘘ではありませんわ。私は嘉多子さんでも姫子さんでもありません。どう答えたらよいものか迷っておりましただけですわ」
白菊は拳を握り、怯まずに答える。裏辻を睨んですらいたが、当の裏辻は微塵も意に介した様子もなく何かを考え込む。
「今の質問には一体何の意味が」
あるのですか、とは続かなかった。裏辻が白菊を射殺さんばかりに睨んでいた。その眼光に晒されるだけで白菊は言葉に詰まってしまった。
「あるに決まっているんだろうが。だから聞いてんだよ。覚悟しておけ。これは忠告だ」
「忠告、ですか?」
「娘を神に差し出す親が特別良い人間だと俺にはどうしたって思えねえ。思いたくねえ。俺達の目的は祟り神をどうにかして鎮めることだ。だから蚕影天涯に対してどうこうするつもりはねえ。だが邪魔立てするならば話は別だ。俺の言いたいことは分かるな?」
「――はい。旦那様を諫めろということですね」
「ふん。女中にどれだけの発言権があるのかは知らねえが、せいぜい頑張ることだな。それが無理ならば、仕方がなかったと諦めろ」
「諦めろ、ですか」
それはあんまりな言い分であると。権力者の勝手な言い分であると白菊は反発を抱くが、やはり裏辻は動じない。人情の欠落した瞳を向けられ、白菊は背筋に怖気が走るのを感じた。
「言いたいことは分かるぜ。だがこちらも仕事なんでな。あらかじめ言っておくが警邏の連中は買収済みだ。俺達を捕まえようったって無駄だぜ。元々はそちらの御家問題だ。巻き込まれた御令嬢が龍臣殿を頼ったのが運の尽きとでも言っておくぜ。恨むのはお門違いだ」
「恨むなんて、とても」
「まあいいさ。重ね重ねになるが期待だけはするなよ。龍臣殿は特務課にしては珍しいほど人の好い男だが――俺は。俺達密偵班は違う。必要とあれば。上にそうと命じられれば何だってする。屍だって転がす。要するに、俺達に余計な仕事をさせないでくれってことだ。忠告は以上だ。説教臭くなって悪かったな」
「いえ。教えてくださってありがとうございます」
白菊が一礼すれば、裏辻は興味がないと言わんばかりにそのまま館を出て行った。
その場に残された白菊は扉を見詰めていたが、我に返ると、営繭が上手くいっているかの確認のために蚕場へ行こうとして――曲がり角で息を潜めていた嘉多子とぶつかりそうになる。
「嘉多子さん。聞いていたのですか」
「聞こえてくるんですもの。仕方ないでしょう。それよりもお父さまのことよ」
「旦那様がどうされたのですか」
「私、考えましたの。大切な姉さまを神に差し出そうとして、私たちを生贄として育てたお父さまを許すことはできない。ここまで育ててくれた恩義はあれども感謝はできないわ。だから覚悟を決めてしまったのよ。ねえ白菊さん。あなたはどうかしら?」
抑揚のない声で嘉多子は言った。
今迄、白菊が目にしたことのない姿であった。
人形――否、蟲のようだと白菊は思う。
蟲といえば。
「御嬢様。先程の件ですが、どうして坂ノ上様に嘘を吐いたのですか」
「嘘? 何のことかしら」
「惚けないでくださいませ。姫子さんのことですよ。どうして眠っているなどと騙すような真似をしたのですか。姫子さんは糸をお吐きになっていましたが――あんな姿、初めて見ましたが――まだ起きていたじゃありませんか」
「――どうして、かしらね。自分でもよく分からないわ」
嘉多子は俯きながら答えた。
そのまま続ける。
「あの場ではああすることが最善だと思ったのよ。そう思ったら口が勝手に動いていたわ」
嘉多子は弁明する。平生から、勝ち気ながらも凜然とした態度ばかりを見ていた白菊にとってその姿は奇異に映った。そうさせる龍臣にも興味を抱く。
「だってそうでしょう。あなたも見た通り、姉さまは繭を作っている最中だった。そしてその作業は本能的で、繊細で、とても恥ずかしい姿なのよ。だから私は姉さまのためを思って、お兄さまと会わせまいとしたわ」
「でも姫子さんは坂ノ上様を待っておりました。最後に一目でもいいから会いたいと仰っておりました」
「――そうね。それは。姉さまの想いは否定できないわ。でも、誰かを想ったまま蛹になるなんてどんな悪影響を及ぼすかが私には分からない。姉さまには眠りに集中してもらいたかった。もしかしたら私は嫉妬していたのかもしれないわ」
「嫉妬ですか」
白菊は驚く。嘘の動機が軽かったことにではない。嘉多子と嫉妬という単語が、遠くかけ離れているように思えたからである。白菊の態度に嘉多子は拗ねたように睨む。
「そうよ。醜い嫉妬。あの場では、姉さまとお兄さまを会わせてはならないのだと、私の中にいるもうひとりの私が耳元でそっと囁いたのよ。きっと兄様は姉さまを好いていらっしゃるから。せめて時間だけでも稼ぎたいと思ってしまったのよ」
「そんなことは」
「そんなことがあるからこうして喋っているのよ。いいこと、お兄さまはあんな姿になってでも姉さまに会いにいこうとしたんですもの。お兄さまのためにもならないわ」
そこまで言った嘉多子は、そのお兄さまのことだけれど、と話題の転換を図る。
「今はグッスリとお休みになっているのよ。その間にボロボロになった制服を修理して差し上げたいと思っているのだけれど、白菊さん、お裁縫得意でしょう。手伝ってくれないかしら。私ひとりだときっと間に合わないわ」
ねえお願い、と嘉多子は強請る。恋に翻弄される少女らしい表情であり、そんな嘉多子にも蟲の血が流れているのかと白菊は戦慄する。
糸を吐き、繭に篭もり、蛹になって――生糸を提供するためだけに生まれてきたのか。神を鎮めるためだけに産まれてきたのか。だとすればそれは怖ろしく、残酷なことではないのかと白菊は考えるが――頭を振ってその想像を振り払う。
自分にはそれを考える資格がなかったゆえに。
何分、今まで自分が蚕たちにしてきた仕打ちとそう大差ないのだから。
春先、桑の若葉が霜害にやられて収穫できなかったとき。暑さ寒さで蚕が死んでしまったときはもっと酷い。裏庭の片隅にある蚕石――蚕を供養するための像――の前に、鍬で穴を掘ってただ埋めるのだ。特別な供養など考えたこともなかった。それを思えば、金色姫がお怒りになるのも仕方がないのだろうか。
否、仕方がないわけなどあるものか。たとえ、どんな血が流れていたとしても、姫子も嘉多子も立派な人間であるのだ。贄にされる謂われなどあるわけがない。
そこまでを考えれば、決断も早かった。自分のすべきことを察する。
即ち、蚕影天涯の決断に逆らうことを。
「お裁縫の件は分かりました。先に居間へ向かっていてください。私は蚕の様子を見てから行きますわ」
繭が了承すれば、針と糸は私が用意しておきますわ、と嘉多子はパタパタと跫音をたてて駆けていった。
蚕場に着いた白菊は窓を開けて居室の空気を入れ換える。
部屋の壁には水銀が封入された室温計が掛けられ、二四度という適温を示していたのだが、蚕の飼育には手順書よりも何よりも膚感覚が優先される。地域ごとに季節の温湿度は異なり、また建築様式も異なるため、数値による画一した管理ができないためである。
この調子ならば火鉢はもう不要だろう。納戸にしまおうかと白菊が考えたとき、白い楕円形の繭で埋め尽くされた回転蔟の一枠が空室であることに気付く。その真下を見れば、一匹の幼虫が床に転がっている。昨日見た時には蔟に収まっていた個体である。
白菊が指先でそっと拾い上げれば、ピクリとも動かない。
純白の幼虫――姫子は死んでいた。




