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3-2.姫子

 蚕場から薄暗い廊下へ出た龍臣は、玄関へ向かい、歩兵宜しくグシャ長の革靴を履く。他者の出入りを確認するために姫子の草履を探すが見受けられない。白菊と話し込んでいる間に帰宅しているものとばかり思っていたが、予想が外れたようである。


 ――だとすればまだ屋外にいるのか。


 紫外線に晒されることを思えば日差しは毒であろう。ともすれば木陰にでも入って休んでいるのかもしれない。

 広大な桑園をあてもなく探す気にはなれなかった龍臣は、もっともらしい理屈を捏ねながら館の外周を廻り、裏庭の桑畑へ辿り着く。


 最初に感じたのは、瑞々しく生い茂った光沢ある葉の眩しさであった。

 葉や実が収穫しやすい高さに(せん)(てい)された木々が等間隔に並んでいる。桑園を囲う柵が見えぬ程度には広い敷地であった。この館で蚕の飼料として使う他、近隣の農家にも配布しているのかもしれない。あるいは蚕に食わせる以外の使い途もあるのかもしれないと龍臣は考える。


 事実、桑には様々な用途がある。強い繊維質を持つがゆえ伐採すれば製紙の原料ともなる。根皮、葉、果実は生薬ともなる。春先に生える若芽は食用であり、茶葉としても使用される。また熟した実は果実酒の他、シロップ漬けや生食も可能である。木材としても硬質であり、稀少品として重宝される。


 龍臣はひとつの苗木に近付いて桑木を見遣る。薄い葉は艶のある(もえ)()(いろ)をしている。今年の春は冷え込んだが(そう)(がい)の影響はないようであった。未熟な(わか)(みどり)(いろ)の果実に、穂状に、白い毛のように生えているのが桑の花である。気が早いのか花の蜜を吸いに来たのか、一匹の黒大蟻が花の周りをうろついている。()(しつけ)な蟻を弾き落とした龍臣は桑林を突き進む。道中、木陰や小屋の物陰に姫子がいないか気に留めるも、それらしい人物は見付からない。


 ――入れ違いになったか。館で帰りを待つ方が得策か。


 諦めた龍臣が引き返そうとした時、濡れたように光る(しろこ)()()が目についた。

 桑の高木によって四方を隠された、神社らしい建築物である。


 桑林の中央に位置しているらしい社の前には。

 日陰によって黒く切り取られた世界には。

 純白の娘が座っていた。


 龍臣は姫子を見付けると、制帽を取り、迷いのない足取りで近付く。姫子も龍臣に気付いたようであった。龍臣の黒い隊服を眩しそうに見詰めている。両者の間には境界線が引かれ、龍臣には、嘘も誇張も抜きに、姫子が別の世界からやって来たのではないかと思われた。遠くの山からは春蝉の声が聞こえた。


「妹からお話は伺っております。坂ノ上龍臣さんですね」


 先に口を開いたのは姫子であった。成熟した見た目とは裏腹に、使い込まれていない声帯が出す声は(こども)のようであった。


「いかにも。特別高等警察、特務課、坂ノ上龍臣と申します。嘉多子君の護衛として、一週間ほど館でお世話になる予定であります。以後宜しくお願いいたします」


 龍臣は一礼の後、帽子を被り直す。

 軍属時代と違い斬切頭(ざんぎりあたま)ではない。

 襟足の長い総撫付(オールバック)である。


「特別高等警察」


 姫子は暗く淡い(べに)(いろ)の瞳で龍臣を見詰める。その視線には探るような色が込められていたが、それ以上に龍臣は強烈な畏怖を覚えた。それは、龍臣が今の今まで、他人に誇れるような生涯を歩んでこなかったがゆえの罪悪感が齎す錯覚なのか、それとも姫子が持つ(はかな)い魅力に()てられていたからなのかは判別がつかなかった。


「隠していても仕方のないことですので率直に申し上げます。嘉多子君に要請を受けて帝都からやって参りました」

「要請ですか」


 要請とはなぜでしょうか、と姫子は小首を傾げる。

 女性らしい柔らかな挙動であった。


「金色姫を討ち、あなた方姉妹を解放することが私の役目です」


 龍臣が正直に答えれば――正直に答えても――姫子は視線を逸らさなかった。ただそこに在るから見ているのだと言わんばかりの、何の感動も篭もらぬ瞳であった。


「――そうですか」


 数瞬の間を置いて、姫子はそれだけを言った。やはり、何の驚きも篭もらぬ平坦な声であり、龍臣は無意識のうちに苛立ってしまう。安堵してほしかった。喜んでほしかった。そう思う身勝手な己を発見して、龍臣は帽子の鍔を僅かに下げる。姫子から視線を逸らさぬのは、僅かばかりの抵抗であった。


「この度はあなたに金色姫のことを聞きたく参りました、お隣、宜しいですか」

「構いませんわ。どうぞ、こちらに――」


 姫子は己の隣を指先で三度払うように叩いた。

 龍臣は一言断ってから腰を落ち着ける。

 日陰に入るだけで、一気に涼しくなったような気がした。


「坂ノ上様は何をお知りになりたいのですか。生贄にされる私とて全てを知っているわけではありません。お役に立てるかは分かりませんわ」

「金色姫についてです。とは言っても伝説の方ではありません。君達姉妹を取って食らわんとする化物についてです。奴とは一度立ち会ったのですが有効打を見出せずにいるのです」


 切った側から蚕蛾になって終いには消えてしまいました、と龍臣が言えば、相手は神なのですから当然でしょう、と姫子はこともなげに答える。


「よろしいですか。相手は神様なのです。しかも平穏を離れた荒魂なのですよ。それを斬って強引に調服しようなどとは、いささか傲慢に過ぎるでしょう」

「しかし私は他に方法を知りません。私は今まで、人間に求められぬ祟り神や悪しき妖をこの刀で斬って参りました。私が歩むのは修羅道であると教わりました。この生き様ばかりは変えられません。金色姫もその類ではないのですか」

「全然違いますわ。金色姫とは、私から言わせれば悲しい神なのです」

「悲しい神が生贄を望むのですか」

「その悲しさゆえにですわ」


 姫子は答える。そこには己が身を差し出す悲哀はなく、諦念すら通り越して、慈愛すら込められていた。なぜそのような顔ができるのか龍臣にはまるで分からなかった。


「なぜだ。君は神に食われてしまうのだぞ」


 普通は嫌がるものではないのか。

 己が運命を呪うものではないのか。


 だが姫子は答えなかった。代わりに。


「坂ノ上様は、この社がいつに分社したのか――そもそも何という名前の神社なのかご存知でしょうか」


 と聞き返す。知らない、と龍臣が答えれば。


「蚕影神社と申します。明治の始め頃に、私達の祖先と共に、筑波の総本山から分社されて来たのだと聞いております」


 と姫子は説明する。話題についていけず、龍臣は微かな(しょう)(そう)に駆られる。


「それがどうしたというのですか。金色姫の話をしていたはずでは」

「ですから金色姫の話をしているのですよ」

「む?」

「どうして分社が必要になってしまったと思いますか」


 不意の質問であった。

 龍臣には答えられない。


示唆(ヒント)は明治の始めという時期と、蚕影神社の正式な祭神が、当時信仰されていた蚕影大神ではなくて、稚産霊神(わくむすびのかみ)埴山姫命(はにやまひめのみこと)木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)という三柱の女神だということです」

「続けてください」

「明治政府は、その設立期において国家神道の秩序確立を目指しました。蚕糸業が国策に位置づけられて、その奨励のために皇后による宮中養蚕が始められ――にも関わらず、です。神社の格付けが行われました。正式には、官社以下定額及神官職員規則の布告がなされ、神社は国家の衆祀であるため神官社家の世襲を廃止して精任補佐すること。また、官社国幣社、府藩県社、郷社、産土社を制定して、国家が祀る神々の体系を定めようとしました。宜しいですか」

「話は聞いております。続けてください」

「この際、蚕影神社がいかなる序列に格付けされたのかといいますと、村社でした。郷社よりも下、即ち村によって維持されるものでした。明治初期の廃仏毀釈によって廃寺とされるよりは良かったのかもしれませんが、それでも、来歴もハッキリとしない伝説上の神ですから弾圧――とまでは言いませんが、熱心に信者を集めることもなくなり、当時国策であった養蚕に関連しながらも、権威に欠けた民俗上の神として貶められたのです」


 ですから――と姫子は続ける。


「金色姫は悲しい神様なんですわ」

「なるほど。金色姫が不遇な扱いを受けていた――否、受けているということはよく分かりました。ですが、だからといって生贄を望むのはおかしいのでは。たとえ金色姫が望んでいない――人間側が勝手にやっていることだとしても――私はその在り方を断じて認めるわけにはいきません」

「どうして、ですの?」


 姫子は聞いた。さも不思議な顔をしていた。その質問が龍臣にとっては意想外であった。


「どうして、とは」

「私には、金色姫の悲しみがよく分かります。きっと調和が崩れ、和魂から荒魂へと変貌してしまったのでしょう。ですからお父様がどうにかして、そのお怒りを鎮めようと、慰めようとしていることはよく分かるのです。金色姫とは、謂わば蚕たちの集合意識のようなものです。そして蚕とは、絹糸を取るために殺される宿命を背負っております。それを抑えるために私達のような者がいるのです。もっとも、嘉多子さんにはこんな役目をさせられないから、私ひとりが贄となるのが最善なのでしょう」

「そんなの間違っております。人を犠牲にする荒神など許していいわけがありません」

「だからどうしてですの?」


 姫子は再び問うた。


「坂ノ上様はお優しいのですね。でも間違っていてもいいのです。認められずとも構いません。私は、私の意思で贄になることを決めたのです。他の誰にも私の意思を(あなど)らせはしません」

「しかし嘉多子君はそんなことを望んでなどおりません。私だってそうです」

「坂ノ上様。それ以上は言いっこなしよ」


 野暮にしかなりませんわ、と姫子は唇に人差し指を当てた。その死期を覚った者に特有な、透明な眼差しに射貫かれ龍臣は言葉を失ってしまう。用意していた説得の台詞もどこかに行ってしまった。何を言っても届かぬと覚ってしまった。


「姫子君。最後にひとつだけ聞かせていただきたい」

「どうぞ。私に答えられることなら」

「君が御身を捧げなくてはならぬ儀式とやらは、いつ、どこで執り行われるのですか」

「お父様が出張から帰ってきたら。この場所で。きっと夜遅くになるのでしょう。坂ノ上様がいるときに行われるはずだから、そこは心配しなくてもいいと思うわ」

「随分素直に答えてくれるのですね」

「だって、隠していたって同じ屋敷にいるものですから無駄でしょう。それに、この躰でいられるのも、もう限界ですもの」

「限界とは」


 姫子は顔の前に小さな掌を翳し、握ったり広げたりしてみせる。赤子の如しその手指が陽光に晒されていることから、太陽が傾いて、日光から隠れられる領域が削り取られていることに気付くが、それ以上に龍臣を驚かせたのは。


「姫子君。指が」


 透けている。白菊が四度の眠りを経て塾蚕となった幼虫を窓に掲げて飴色に光ったように。細い骨だけが存在を主張している。


「私はじきに、蚕達と同じように糸を吐いて繭を作り、その中で蛹になります。そうして眠っているうちに夜になって私は食い殺されるでしょう。かつて、私の母がそうだったように」

「待っていただきたい」


 龍臣は堪らずに話を遮る。糸を吐いて繭を作ることも、その中に篭もり蛹になることも、母親が過去に贄になっていたことも、全てが初耳であった。


「君のご母堂は、嘉多子君を産んだ直後に亡くなったのではありませんか。外でもない嘉多子君からそう聞いております」

「それはお父様が吐いた優しい嘘よ。お母様が生贄になったというのに、自分も同じ運命を辿るだなんて残酷でしかありませんわ。あの娘はあくまでも私の代替品(スペア)。呪いなんか忘れて、自由に生きてほしいもの。この話、嘉多子さんには内緒にしてくださいな」

「分かりました。決して口にしないことを約束します。しかしあなたの躰についてです。糸を吐いて繭を作るだなんて本当にできるのですか。できてしまうのですか」


 己の声が(しわが)れていることを自覚して、遅ればせながら龍臣は自身が動揺していることを覚る。何が面白いのか姫子は龍臣を見て面白そうに笑った。


「これくらいわけないわ。品がないから人前ではしたくなかったけれど、論より証拠ですわ。ほら、ご覧になってくださいな」


 姫子はそう言うなり、自分の腔内に指を突っ込むと、静かに引き抜いてみせる。指先と唇を白い糸が伝い――それは途切れることなく一尺あまり伸びた。(よだれ)ではない。雫にはならず、風に流されて吹き飛ばされてしまった。


「坂ノ上様。驚きになったことでしょう。これが蚕影一族の。蟲の呪いなんですの。蚕影の女は皆こうなんですわ。穢れているでしょう?」

「すると、君だけではなく、嘉多子君や白菊さんも」

「嘉多子さんは私と同じ。だって世界に二人ぼっちの姉妹なんですもの。分かるわ。あの娘のことだからきっと美しい蝶になるのでしょうね。それと、白菊さんは違いますわ。呪いに悩んでいるところなんて見たことがないし、なにより血が薄いんですもの」


 そこまでを言うと、姫子は辛そうに息を吐き出した。


「袖すり合うも多生の縁と申します」


 龍臣の手に、姫子の生白い手が乗せられる。体温(ぬくもり)は革手袋に遮られて分からなかったが、きっと温かくて柔らかいのだろうと龍臣は思う。


「ひとつだけお願いがあるの。聞いてくださらない?」

「内容によります」

「そんなに警戒しなくても。子供の(わが)(まま)のようなものですわ」


 姫子が龍臣に寄り掛かる。軽い躰であった。龍臣の体幹は揺るがない。


「儀式の邪魔をするなとも、金色姫様を討つなとも言いません。あなたにはあなたのお役目があって帝都からやって来たことは承知しております。ですが――私は、私の意思で繭を作り贄となります。そのように育てられましたがゆえ、他に生き方を知りません」


 こういうのを雀百まで踊り忘れずとでもいうのでしょうか――と姫子は薄らと笑った。


「あなたの介入で、儀式の場がどうなるのかは、繭に篭もり蛹となる私には想像もつきません。ですが、全てが終わった後、嘉多子さんのことをお願いしたいのです」

「嘉多子君のことを」

「はい。嘉多子さんは、私などと違って強くて優しい娘なのです。私が贄となるのを知って、それを止めようとして、あなたを帝都から呼んでくれた――本当に優しい娘なのです。きっとこの先、あの娘は自らの生まれや呪われた血で大いに悩むでしょう。私が神様に食べられてしまったら悲しんでくれることでしょう。どうかそのとき、あの娘の側にいて、寄り添ってやってほしいのです。ほんの少しでも、気に掛けてやってほしいのです」

「姫子君。その願いは、私には荷が重い」

「まあ、どうしてですの。慎ましいお願いではありませんか」


 龍臣の肩に頭を乗せながら姫子は抗議する。いつの間にか腕を絡めていた。


「私は知っておりますわ。あの娘があなたをお兄さまと呼んで慕っていることを。こんなことを言うのは、いくら姉とはいえども狡いのかもしれませんが、あの娘はあなたを好いております。どうか寄る辺となってやってくださいな」

「それは。それだけはできない」


 最初は頷こうと思った。たとえ嘘偽りでも、それが一時の慰めになるのであれば構わないと。だが龍臣に残された一握りの誠実さと、ささやかな慕情が抵抗を示した。


「姫子君。私は帝都の人間です。いつ帰還命令があるかも分からない。ともすれば明日には盛岡を去れと言われるかもしれない。まして仕事柄、平穏無事ではいられません。畢竟、明日を無事に生きられるかも分からぬような人間なのです。自分の手だって幾度となく汚してきた。幾度洗おうとも血の臭いが取れずにいるのだ。こんな屑のような人間に大切な妹御を任せるなど正気の沙汰ではありません」


 だから私は君の願いを聞いてやることはできません――と断じた龍臣は、決して乱暴にならぬように姫子の腕を振り解く。姫子は名残惜しそうな顔をしたがもう何も言いはしなかった。


「陽もだいぶ傾いてきたな。その目では見にくいでしょう。部屋まで送らせてください」


 龍臣は立ち上がり、姫子に向かって手を差し伸べる。日光は影を侵食して、社のほとんどを照射していた。姫子は躊躇した後、龍臣の手を握り返す。


「坂ノ上様はお優しいのですね」


 龍臣の黒い手袋を見詰めたまま、(ささや)くように姫子は言った。


「私が優しい。冷たいの間違いでしょう」


 君の願いを聞いてやれないのだから、と龍臣が言えば、それでも私にとっては優しいのです、と姫子が反論する。


「こうして誰かに手を引かれるなど初めてのことで――嗚呼、顔から火が出そうですわ」


 姫子を見れば、困ったような表情をして頬を染めていた。


「あまりじろじろと見ないでくださいませ。これは――そう、日焼けなのです」


 姫子は反対側の手で顔を隠しながら龍臣を睨む。その眼差しを受けて、龍臣は自身の胸がズキリと疼くのを感じた。

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