第37話
あの山岳地帯の廃神社での激闘と、早乙女カレンの衝撃的な人格統合から、数週間が経過した。
アーサー・グレイブスはJDFの厳重な監視下に置かれ、彼がデビルズに与えたカレンの思考パターンの影響も、マドカ博士を中心としたチームの尽力により、ほぼ無力化された。
幸い、カレンの脳内に埋め込まれていた神経抑制装置は、グレイブスの最後の悪あがきで不完全な起動に終わったため、マドカの手によって比較的安全に除去することができた。
そして、当の早乙女カレンは――驚くべきことに、いや、ある意味では当然と言うべきか、以前の、あのほんわかとした「天然で優しい癒し役」の彼女に、ほとんど戻っていた。
◇
明るい日差しが差し込むバニー・フォース専用訓練施設。
「ミナさーん、そちらの仮想ターゲットの反応が少し早いです! もう少しだけ、タイミングを遅らせてみてもいいですか?」
カレンは、訓練用のコンソールを覗き込みながら、以前と変わらない、おっとりとした、どこか間の抜けたような声でミナに指示……いや、お願いをしている。
その薄紫色の逆バニースーツ姿も、以前のような威圧感はなく、ただただ彼女の柔らかな雰囲気を引き立てているだけだ。
「アイリさーん、今の狙撃、とっても素敵でした! でも、もうほんの少しだけ、右に照準を合わせると、もっとパーフェクトかもしれませんね?」
「……了解。修正する」
アイリも、以前のようにカレンの言葉をデータとして分析するのではなく、どこか妹のたわ言を聞く姉のような、ほんのりとした苦笑を浮かべて応じている。
俺は、その光景を訓練施設の管制室から、マドカ博士と共に眺めていた。
「……本当に、元に戻っちまったんだな、カレンは」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。
「そうねぇ……」
マドカは、腕を組み、データタブレットに表示されたカレンのバイタルサインと脳波パターンを眺めながら、少しだけ複雑な表情で頷いた。
「人格の完全な再統合後、彼女の精神状態は極めて不安定な時期があったわ。あまりにも多くの情報と、そして何よりも過酷な記憶が一気に流れ込んできて、彼女の心がそれを処理しきれなかったのね」
マドカの言葉に、俺は数週間前のことを思い出していた。
統合直後のカレンは、確かに以前のどちらとも違う、落ち着きと強さを併せ持った素晴らしい少女だった。
だが、その一方で、彼女は「オメガ・ストラテジスト」としての過去の記憶――自分が立案した戦術によって多くの命が失われたという事実――に、日夜苛まれるようになっていたのだ。
その小さな身体には、あまりにも重すぎる十字架だった。
「……彼女は、自分で選んだのよ」
マドカが、静かに続けた。
「あの強大な力と、全てを知る記憶を持ち続けることよりも、今の仲間たちと、この穏やかな日々の中で、誰かを癒し、支える自分でいることを。だから、彼女は意識的に、あの『もう一人の自分』……いえ、彼女の持つ強大な知性と戦略的思考能力を、心の奥底に、今はそっと仕舞うことにしたの。完全な封印じゃないわ。彼女自身による、選択的な『自己抑制』よ」
「……そうか」
俺は、再び訓練場でミナやアイリに笑顔で声をかけているカレンの姿を見つめた。
彼女は、確かに以前の「天然で優しいカレン」に戻ったように見える。
だが、俺には分かる。
あの壮絶な経験は、決して彼女の中から消え去ったわけではない。
訓練が終わり、メンバーたちがぞろぞろと休憩室へ向かう中、カレンが俺のところにやってきた。
「司令官、今日のお昼ご飯は、私が特製のオムライスを作ろうと思うんですけど、ケチャップで何か描いてほしい絵とか、ありますか~?」
その屈託のない笑顔は、以前と全く変わらない。
「……そうだな。だったら、バニー・フォースのエンブレムでも描いてもらおうか。難易度は高いかもしれんが」
俺がそう言うと、カレンは「わー! 頑張りますねー!」と、嬉しそうに両手をぱちんと合わせた。
だが、彼女が去り際に、ふと俺のデスクの上に広げられていた、次期作戦の戦術マップに目を留めた時だった。
「……あら? 司令官、このデビルズの予想進攻ルートですけど……もしかしたら、B地点よりも、C地点の渓谷を迂回してくる可能性も、少しだけ、あるかもしれませんね……。あちらの方が、地盤が緩いですし、奇襲をかけるには、都合が良いかもしれませんから……」
彼女は、何気ない口調でそう呟くと、「あ、でも、わたし、難しいことはよく分からないんですけどね! えへへ」と、いつものように照れ笑いを浮かべて、部屋を出て行った。
俺は、カレンが指摘したC地点の渓谷を、戦術マップ上で確認する。
……確かに、言われてみれば、その可能性はゼロではない。
むしろ、敵の意表を突く一手としては、十分にあり得るルートだ。
完全に見落としていた戦術的盲点だった。
(……やはり、彼女の中には、確実に残っているんだな。あの、卓越した戦略家の魂が……)
俺は、カレンが出て行ったドアを見つめながら、静かに微笑んだ。
彼女は、自ら「優しいカレン」でいることを選んだ。
だが、それは決して後退ではない。彼女なりの、強さの形なのだろう。
そして、いつかまた、本当にチームが危機に陥った時、あるいは彼女自身が、その封印された力を解放する覚悟を決めた時……その時は、きっと、今の彼女よりもさらに強く、そして真に統合された「早乙女カレン」が、俺たちの前に現れるのかもしれない。
俺は、カレンが作ってくれるというオムライスを、少しだけ楽しみにしながら、午後の書類仕事へと意識を切り替えた。
この、どうしようもなくイカれた、しかし愛すべきバニー・フォースの日常は、まだまだ続いていくのだ。
そして俺は、彼女たちの指揮官として、その全ての瞬間を、この目で見届けていこう。
そう、心に誓いながら。




