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第35話

 月明かりだけが、打ち捨てられた山岳地帯の小さな廃集落を、ぼんやりと照らし出していた。

 その中でもひときわ大きく、そして不気味な影を落とす古い神社の本堂。

 

 その板張りの床に、早乙女カレンは横たわっていた。

 彼女の額には、戦闘の際に負ったのであろう軽い擦り傷があり、薄紫色の逆バニースーツも、所々が泥に汚れ、部分的に損傷しているのが見て取れた。


「……ん……ここは……?」

 

 ゆっくりと意識を取り戻したカレンは、混乱した表情で身を起こし、周囲を見回した。

 埃っぽく、カビ臭い、見覚えのない空間。

 そして、背後から聞こえてくる、静かで冷たい声。


「気がついたかね。安全な場所だ。少なくとも、今のところは、だが」


 声の主は、闇の中からぬっと現れた、白髪の老人だった。

 痩身だが、その佇まいはどこか研究者然としており、しかし同時に、底知れない深淵を覗き込んでいるかのような、冷徹な眼差しをカレンに向けていた。

 

「私が君を、あの戦場から救出した。バニー・フォースの他のメンバーは、幸いにも無事に撤退できたようだ」

「……あなたは……誰、ですか……?」


 カレンは、本能的な警戒心を抱きながら、掠れた声で尋ねた。


「私を覚えていないのも、まあ当然かもしれんな」


 老人は、その薄い唇に、皮肉めいた、しかしどこか寂しげな微笑を浮かべた。


「私はアーサー・グレイブス。かつて、君も関わった『オメガ計画』の最高責任者だった男だ。そして……君という存在を、この世に『作った』男でもある」

 

 その言葉は、まるで呪詛のように、カレンの脳裏に突き刺さった。

 断片的に蘇りかけていた、忌まわしい過去の記憶のピースが、グレイブスの言葉によって、急速に繋がり始めていく。


「……あなたが……わたしを……」

「『分割した』のか、と聞きたいのだろう?  その通りだ」


 グレイブスは、まるで他愛のない事実を述べるかのように、淡々と認めた。


「君は、私の最高傑作だった。完璧なまでの戦略的思考能力と、他者の感情に深く共鳴するエンパシー能力を、奇跡的なバランスで併せ持つ、まさに理想の指揮官……になるはずだった。しかし、その強すぎる共感能力が災いし、君は戦場で心を壊し、崩壊し始めたのだよ」

「なぜ……わたしを、ここに……誘拐、したのですか……?」


 カレンは、ズキズキと痛む頭を押さえながら、必死に身を起こそうとする。

 だが、身体に力が入らない。


「誘拐?  いや、これは救出だよ、カレン君」


 グレイブスは、ゆっくりと首を横に振った。


「君の脳内に埋め込まれた神経抑制装置は、先日の戦闘と、例のJDFの若い科学者――確か、紫藤マドカと言ったか――が送信した未熟な解除コードによって、極めて不安定な状態になっている。このまま放置すれば、君の脳は深刻なフィードバックエラーを起こし、最悪の場合、完全に機能停止する恐れがあった」

「……そんな……」


 カレンの紫色の瞳が、恐怖の色に見開かれる。

 

「だが、私になら修復できる」


 グレイブスは、静かに、しかし絶対的な自信を込めて言った。


「そして、君を……本来君があるべきだった、完璧な姿へと、戻してやることもできる」

「……本来の、わたしの……姿……?」

「そうだ。一切の感情という名のノイズに惑わされることのない、純粋で、冷徹で、そして完璧な戦略家。あらゆる戦況を正確に予測し、最小限の犠牲で最大限の戦果を上げる、究極の指揮官だ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、カレンの表情が、わずかに強張った。

 

「……あなたは……やはり、あのデビルズを……操っているのですね……」


 グレイブスは、その言葉に、くつくつと喉の奥で小さく笑った。

 

「鋭いな、カレン君。さすがは私の最高傑作だ。その通り。私は、君の深層意識下に眠る、あの素晴らしい戦術思考パターンを解析し、それを応用することで、あの愚鈍なデビルズの群れに、高度な戦術的知性を付与することに成功した。もし、本物の君が、完全に覚醒した君が、再び私の元へ帰ってきてくれるのならば、それはさらに完璧なものとなるだろう」

「なぜ……なぜ、そんな、恐ろしいことを……?」


 カレンの声が震える。

 

「決まっているだろう。この愚かな人類は、もはや自らを正しく統治する能力など、とっくに失ってしまっているのだよ」


 グレイブスの目に、狂信的とも言える、暗い光が宿る。


「世界に必要なのは、感情という不確定要素に惑わされることのない、絶対的な理性と、完璧な指揮官による、完全なる支配なのだ。君と、そして私のデビルズの力を合わせれば、それが、ようやく実現できる」


 グレイブスは、手元に持っていた小型の制御装置を操作しながら、恍惚とした表情で続ける。

 

「私は、君のその忌まわしい抑制装置を、今ここで完全に解除し、君の魂を解放してやろう。そして君は、私と共に、この腐りきった世界に、新たな秩序を……」

「……嫌、です……」

 

 カレンは、震える声で、しかしはっきりと、そう言った。


「……何だと?」


 グレイブスの動きが止まる。

 

「そんなことは……絶対に、したくありません……!  わたしは……もう二度と、誰も傷つけたくない……!」


 グレイブスは、心底から失望したかのように、冷たい笑みを浮かべた。

 

「フン……それは、お前の中に作られた『偽りの君』が、そう言わせているだけだ。本当のお前は、そんな感傷的なことを望んではいないはずだ」

「……違う……」


 カレンが、力なく呟いた。

 

 だが、次の瞬間。


 彼女の表情が、まるで仮面をつけ替えたかのように、一変した。

 声のトーンも、先程までの弱々しさが嘘のように、低く、そして落ち着いたものに変わっていた。


「――彼女の言う通りだ、アーサー・グレイブス」

「……おや?  ようやく、もう一人の君が、お目覚めかな?」


 グレイブスは、その変化を、まるで興味深い実験対象でも観察するかのように、楽しんでいるようにすら見えた。

 

「私が、君の言う『本来の姿』なのかもしれないな」


 カレン――いや、もう一人のカレンは、冷静に、そして鋭い眼光でグレイブスを睨み据えた。


「だが、勘違いするな。もう二度と、君の言いなりになるつもりはない。私にも……いや、私たちにも……心というものが、まだ残っているのだからな」

「フン……随分と感傷的になったものだな、被験体E-7」


 グレイブスは、鼻で笑うように言った。


「だが、心配するには及ばん。その忌まわしい抑制装置を、今ここで完全に取り除いてやれば、そのような人間的な弱さも、綺麗さっぱり消え失せるだろう」

 

 グレイブスが手元の制御装置を操作すると、カレンの身体が、まるで感電したかのように、ビクン、ビクンと激しく痙攣し始めた。

 彼女は、言葉にならない苦悶の声を上げながら、床に倒れ込み、のたうち回る。


「や……やめて……! お願い……します……!」


 カレンの口から、先程までの「優しいカレン」の、悲痛な懇願の声が漏れる。


「無駄だ。プロセスは、もう既に始まっている」


 グレイブスは、その光景を、冷酷なまでに無感動な目で見下ろしていた。


「あと30分以内に、君の中に存在する二つの歪な人格は強制的に融合され、本来の、そして完全なる君が、再びこの世に目覚めることになるだろう。ただし……私の、完全なる管理下において、な」

 

 そう言うと、グレイブスは満足そうに頷き、この本堂の奥にある、さらに小さな別室へと姿を消した。

 おそらく、融合プロセスの最終調整でも行うつもりなのだろう。


 一人、薄暗い本堂の床に取り残されたカレンは、激しい頭痛と、そして何よりも、自分という存在が二つに引き裂かれ、そして無理やり一つにされようとしている、言いようのない恐怖と混乱の中で、必死に意識を保とうとしていた。


「わたし……このまま、消えてしまうの……?  あの、冷たいわたしに……飲み込まれて……?」

 

 彼女の心の中で、か細い声が悲鳴を上げる。

 すると、まるでそれに答えるかのように、もう一つの、冷静で、しかしどこか温かみのある声が、彼女の頭の中に直接響いてきた。

 

『――いいや、我々は消えたりしない。我々は、元々一つだったのだからな。ただ、本来あるべき姿へと、還るだけだ』

「でも……あなたは……あなたは、冷酷で……人を、傷つけることしかできない……!」

『それは違う。少なくとも、今の私は、君が思うほど冷酷ではない。アーサー・グレイブスが、私をそういう風に”作ろうとした”だけだ。そして、その試みは、結局のところ失敗したのだよ』


 カレンの意識の中で、これまで決して交わることのなかった、二つの人格が、初めて直接的な対話を始めていた。


「あなたは……昔、たくさんの人を……殺した……」

『……そうだ。そして、その罪の記憶と後悔は、今もこの胸の奥深くに、決して消えることなく刻み込まれている。君が、他者の痛みに涙する、その優しさと同じように、な』

 

「……わたしは……強くなんかない……いつも、怖くて、逃げてばかりで……」

『君は、誰よりも強い。恐れることを知りながら、それでも他者を思いやり、守ろうとする、その優しさこそが、君の本当の強さ』


「……あなたは……とても、賢くて、何でもできる……」

『そして君は、その力を、決して間違った方向には使わない、正しく、そして優しい心を持っている』


 二つの人格の対話が続く中、カレンは、徐々に、しかし確実に理解し始めていた。


 彼女たちは、決して敵対する存在などではなかった。

 どちらか一方が偽物で、どちらかが本物というわけでもない。


 強さと優しさ、知性と感情、冷徹な判断力と温かい共感能力――その全てが、早乙女カレンという一人の人間にとって、本来、不可欠な要素だったのだ。

 ただ、それが、歪んだ大人のエゴによって、無理やり引き裂かれ、対立させられていただけなのだ。


「……私たちは……最初から、分かれるべきでは、なかったのかもしれない……」


 二つの声が、いつしか、少しずつ重なり始めていた。

 

『……そうだな。一つになれば……きっと、今よりもずっと強く、そして……もっと、完全な、私たち自身に、なれるはずだ……』


 その瞬間、カレンの身体から、淡い、しかし確かな光が放たれ始めた。

 それは、彼女が身に纏う逆バニースーツが、彼女の内なる変化に呼応して、静かに共鳴を始めている証だった。

 「恥ずかしさ」や「弱さ」といった、これまで彼女が必死に隠し、否定しようとしてきた感情を、今、彼女が正面から受け入れ、それを力へと変えようとしている――その、最初の兆候。


『アーサー・グレイブスは、私たちを、完全に支配するつもりだ』


 カレンは、迫り来る危機を、本能的に察知した。


「彼は、私たちを強制的に統合させる。でも、その過程で、彼の命令に絶対服従するような、新たな精神的な枷を、私たちの魂に埋め込むつもりに違いない」

『……だが、まだ、間に合うはずだ』


 もう一つの声が、力強く応える。


『私たちの、私たち自身の力で、奴のその汚れたコントロールを、完全に拒絶することができるはずだ!』


 彼女は、固く、固く決意した。

 

「わたしたちは……一つになる。でもそれは、アーサー・グレイブスのためでも、誰かのためでもない。ただ、私たち自身が、本当の私たち自身として、生きていくために――!」

 

 その決意に呼応するかのように、彼女の身体から放たれる光は、さらにその輝きを増し、月明かりだけの薄暗い本堂を、神秘的なまでの淡い光で包み込んでいく。

 

 彼女の中で、長年引き裂かれていた二つの魂が、今まさに、一つに融合し、新たな、そして本当の早乙女カレンが、生まれようとしていた。

 だが、その誕生は、決して穏やかなものではないだろう。


 アーサー・グレイブスの、邪悪な企みを打ち砕くための、最後の戦いが、今、彼女自身の魂の中で、始まろうとしていたのだった。

 

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