第33話
翌日、俺はマドカ博士と共に、基地内の隔離された医務室にいた。
そこは、外部からの干渉を一切受け付けない、厳重なセキュリティが施された一室だ。
朝日が大きな防弾ガラス窓から柔らかく差し込み、清潔なシーツの匂いが漂うその部屋で、カレンは検査用のベッドに静かに腰掛けていた。
その小さな手は、不安そうに膝の上で固く握りしめられている。
その顔色は、まだ少し青白い。
「カレン。少し長くなるかもしれないが、大事な話があるんだ」
俺の声は、自分でも意識するほど、普段よりも柔らかく、そして慎重な響きを帯びていた。
隣に立つマドカも、神妙な面持ちで頷いている。
「君自身のことについてだ」
カレンは、大きな紫色の瞳を不安そうに揺らしながら、俺の顔をじっと見上げてきた。
「……最近、わたし……また、変な夢を、よく見るんです」
彼女の声は、か細く、消え入りそうだ。
「わたしじゃない、別の誰かが……わたしの、この身体を使って……何か、とても恐ろしいことをしているような……そんな、夢……」
その言葉は、昨日の医務室での彼女のうわ言と重なった。
「……カレン。それは、もしかしたら夢ではないのかもしれない」
俺は、慎重に、一つ一つの言葉を選びながら続けた。
「君の中には……君が認識している君とは別に、もう一人の君が、存在している可能性が高い」
「え……?」
カレンの瞳が、困惑の色に見開かれる。
マドカが、手にしたタブレット端末を操作し、カレンの目の前に、彼女自身の脳の精密スキャン画像と、複雑な波形パターンを表示させた。
「これは、精密検査を行った、あなたの脳の活動記録よ」
マドカは、努めて優しい口調で説明を始める。
「通常、人間の脳は、このような複雑怪奇なデュアルシグネチャパターンを示すことは、まずあり得ないの。あなたの脳には……残念ながら、極めて高度な、そして人為的な手が加えられた痕跡が、複数確認されたわ」
「……わたしの、脳が……? 何かの、病気、なんでしょうか……?」
カレンの声が震える。
「病気じゃない。だが……」
俺は、意を決して、昨夜入手した衝撃的な情報を、彼女に告げる覚悟を固めた。
「昨夜、俺は、君が以前所属していたと思われる、古い研究施設から、ある極秘情報を入手した。カレン……君は、幼い頃、『オメガ計画』と呼ばれる、JDFの特殊能力者育成プログラムの、最重要被験者の一人だったんだ。君の持つ、天才的なまでの戦略的思考能力と、卓越した指揮統制能力を、純粋な戦闘兵器として開発するための……非人道的な計画だ」
カレンの顔から、サッと血の気が引いていくのが分かった。
その紫色の瞳が、信じられないというように大きく見開かれる。
「……嘘……。そんな……わたしが……兵器……?」
俺は、言葉を続ける。
彼女にとってはあまりにも過酷な真実だが、目を逸らすわけにはいかない。
「君の記憶は、その『オメガ計画』の中で、意図的に操作され、そして一部は封印されている可能性が高い」
俺は、マドカが用意していたポータブルモニターの再生ボタンを押した。
スクリーンに映し出されたのは、まだ10歳にも満たないであろう、幼いカレンの姿だった。
だが、そこにいるのは、俺たちが知る、あのほんわかとした癒し系の少女ではない。
その小さな顔には、現在のカレンからは想像もつかないほど鋭く、そして冷徹な光を宿した瞳があり、表情は一切の感情を映さず、まるで精巧な人形のようだ。
映像の中の幼いカレンは、大人でも音を上げるような複雑怪奇な三次元戦術シミュレーションを、淀みない動きで、そして完璧にこなしていく。
その姿は、まさに生まれながらの司令官、あるいは冷酷な戦術家そのものだった。
「……これ……が……わたし……?」
カレンは、まるで自分ではない何かを見ているかのように、呆然と映像を見つめている。
「そうよ、カレンちゃん。これが、記録に残っている、あなたの元々の……類稀なる才能を持った姿」
マドカが、静かに、しかし確かな口調で説明する。
「あなたは、生まれながらにして天才的な戦略家としての資質を持っていた。そして、軍の特殊プログラムは、その才能を、幼い頃から徹底的に育成し、兵器として完成させようとした。でも……あなたの、あまりにも強すぎる感情と、他者への共感能力は、彼らにとっては想定外の……そして、非常に厄介な『バグ』だったのよ」
モニターの映像が切り替わる。
そこに映し出されたのは、先程より少しだけ年嵩に見える、12、3歳くらいのカレンだった。
彼女は、やはり戦術訓練のシミュレーションを行っているようだが、その表情は苦痛に歪み、突然、その場に崩れ落ち、頭を抱えて絶叫している。
『もうイヤ……! もう、誰も殺したくない……! 誰も、傷つけたくない……! お願いだから、やめて……!』
その悲痛な叫びは、俺の胸を締め付けた。
「軍は、君のその類稀なる能力を、どうしても手放したくなかったんだろうな」
俺は、声を低くして続ける。
「そこで、彼らは……人格そのものを分割し、再構築するという、常軌を逸した最後の手段に出た。君の持つ卓越した戦略的思考能力と戦闘指揮能力を、『もう一人のカレン』として、心の奥底に隔離し、封印したんだ。そして、普段、俺たちが接している、穏やかで、優しくて、少しだけ天然な性格を持つ『新しいカレン』を、人工的に作り上げ、主人格として表面に据え付けた……それが、真実だ」
カレンは、震える手で、自分の頭にそっと触れた。
その瞳は、恐怖と、混乱と、そして深い絶望の色で揺らめいている。
「……そんな……。じゃあ、わたしの記憶も……わたしの、この性格も……みんな、全部……作られた、偽物だったっていうんですか……?」
「君の優しさは、絶対に本物だ、カレン」
俺は、彼女のその言葉を、強く、そしてはっきりと否定した。
「それは、紛れもなく君の本質の一部だ。彼らがどんなに隠そうとしても、消し去ることのできない、君自身の輝きだ。ただ……君の中には、君がまだ知らない、もっと多くのものがある。そして、それを無理やり抑え込むために、これが……君の脳に埋め込まれている」
マドカが、タブレットに別のスキャン画像を表示させた。
それは、カレンの脳の深部を拡大したもので、そこには、米粒よりもさらに小さな、しかし明らかに人工物と分かる、微細なチップのようなものが映し出されていた。
「これは……神経接続型の抑制装置。おそらく、あなたの脳内に隔離された、いわゆる『二次人格』が、不意に目覚めないように、常にその活動を監視し、制御しているものと考えられるわ」
カレンの大きな紫色の瞳から、ついに大粒の涙が溢れ落ちた。
「でも……もし、それが、本当のことだとしたら……わたしは……わたしは、一体、誰なんですか……? 今、ここにいるこのわたしは……偽物の、わたし……? それとも……」
「どちらも、紛れもなく本当の君だ、カレン」
俺は、彼女の震える肩に、そっと手を置いた。
「ただ、君は……君自身の全てを知る機会を、これまでずっと、奪われてきただけなんだ」
その瞬間だった。
カレンが、突然「あああっ!」と、短い悲鳴を上げ、激しい頭痛に襲われたかのように、強く頭を抱え込んだ。
「痛い……! 頭が……割れそう……! 何かが……何か、が……出てくる……!」
「カレン! しっかりしろ!」
俺が、慌てて彼女の身体を支える。
次の瞬間、カレンの身体が、まるで電流に打たれたかのように、ビクッと一度大きく硬直した。
そして……その表情が、一変した。
それまでの気弱で混乱した雰囲気は完全に消え失せ、背筋がピンと伸び、その瞳には、ぞっとするほど冷静で、そして全てを見透かすような、鋭い光が宿っていた。
声色も、先程までの彼女とは全く異なり、低く、落ち着いた、そしてどこか威厳すら感じさせるトーンに変わっていた。
「……真実に辿り着いたようだな、真田ハヤト」
「……お前は……『もう一人のカレン』……なのか……?」
俺は、思わず息を呑みながら呟いた。
「正確には、本来のカレン、と言うべきだろうな」
彼女――いや、本来のカレンは、冷静に、そしてどこか嘲るような笑みを浮かべて答えた。
「この状態を長く維持できる時間は限られている。あの忌まわしい抑制装置が、まだ部分的にだが、機能しているためだ。私たちは、同じ人間の、分かたれた二つの側面に過ぎない。彼女は、私の感情と優しさ、良心を引き受けた半身。そして私は、彼女の理性と戦略性、そして……汚れ仕事を引き受けさせられた半身。本来、分断されるべきではなかったものが、無理やり引き裂かれ、歪められている」
彼女は、その鋭い瞳で、俺を真っ直ぐに見据えてきた。
「奴らは、私のこの能力を、純粋な兵器として使いたかった。だが、私は……私自身の、あまりにも強すぎる共感能力と、そして、かろうじて残っていた良心が、それを邪魔した。数えきれないほどの命を、私の戦術で奪った後……私は、徐々に精神の均衡を失い、崩壊し始めた。そこで、奴らは私を『救済』するという名目で、この忌まわしい計画を実行したのだ」
「……君は……実戦の戦場に立っていたというのか……? あの若さで……?」
俺は、驚きを隠せない。
「そうだ。私は、『オメガ・ストラテジスト』というコードネームで、JDFの極秘作戦に、数えきれないほど参加させられた。最初の実戦は……確か、13歳の時だったか」
本来のカレンの目に、一瞬だけ、深い、そして耐え難いほどの痛みの色が浮かんだ。
「私の立案した戦術によって……多くの命が失われた。敵も、そして……時には、味方でさえも……」
その言葉の持つおぞましい重みが、俺とマドカの胸に、鉛のようにのしかかってくる。
まだ幼い少女を、感情を持たない殺人兵器として利用する……そんな非道な行為に、俺たちは言葉を失うしかなかった。
本来のカレンは、苦しげに息を吐きながら続けた。
「私の精神は、もう限界だった。だが、軍は、私のこの『才能』を惜しんだ。だから、『救済』と称して、私の辛い記憶の全てを封印し、罪の意識など微塵も感じることのない、純粋無垢で、穏やかな人格を、新たに作り出した。それが……今の、あの子の正体だ」
「……なぜ、今になって、俺たちにそんな話をしてくれるんだ?」
俺は、ようやく声を絞り出した。
「危険が、すぐそこまで迫っているからだ」
本来のカレンの表情が、急に険しくなる。
「最近の、あの忌まわしいデビルズの動き……その戦術パターンには、かつて私が立案し、そして封印されたはずの、私自身の思考データとの、不気味なまでの類似性が見られる。誰かが、私の思考ルーチンを解析し、それをデビルズのコントロールに応用している可能性が、極めて高い」
彼女は、苦しげに額に手を当てた。
その顔色が、みるみるうちに悪くなっていくのが分かる。
「……もう、時間がない……。この状態を、長くは維持できない……。真田ハヤト……頼む……私たち二人を……この、引き裂かれた魂を……もう一度、一つに戻してほしい……。このままの分断は……いずれ、私たち二人を、確実に殺すことになる……!」
「……どうすれば、いいんだ……!?」
「……あの、忌まわしい……神経抑制装置を……破壊、するしか……」
本来のカレンの言葉が、そこで途切れた。
彼女は、再び激しい頭痛に襲われたかのように、うめき声を上げ、その身体がぐらりと傾ぐ。
「……来る……! もうすぐ、大きな、攻撃が……準備されて、いる……!」
それが、彼女の最後の言葉だった。
彼女は、まるで糸が切れた人形のように、ベッドの上へと崩れ落ち、そのまま意識を失ってしまった。
医務室に、重い沈黙が落ちる。
俺とマドカは、目の前で起きた、あまりにも衝撃的な出来事の連続に、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
だが、俺たちの心の中には、もう迷いはなかった。
早乙女カレンを救うこと。
それは、単なる一人の部下の問題などではない。
俺たちバニー・フォースの、いや、JDF全体の、そしてもしかしたら人類全体の未来に関わる、重大な危機と、そして……ほんのわずかな希望へと、確かに繋がっているのだ。




