第31話
昨日の早乙女カレンの豹変。
そして、彼女自身も覚えていないという、あの圧倒的な戦術指揮能力。
あれは一体何だったのか?
俺の胸には、拭いきれない疑念と、そして言いようのない不安が渦巻いていた。
一夜明け、俺はマドカ博士の協力を得て、JDF基地の最深部に位置する機密情報室にいた。
ここは、通常のアクセス権限では閲覧すら許されない、基地のあらゆる情報が集約された神経中枢だ。
室内の壁一面を埋め尽くす大型モニターが青白い光を放ち、中央のコンソールではマドカが猛烈な勢いでキーボードを叩いている。
「……あったわ。バニー・フォース所属、早乙女カレンのパーソナルファイル。ただし、これを見て驚かないでちょうだい」
マドカの声に、俺はコンソールを覗き込む。
モニターに映し出されたカレンの個人ファイルは、その大部分が、まるで検閲された秘密文書のように、黒々と塗りつぶされていた。
『機密指定(レベルΑ)』『開示不可』『閲覧権限確認』といった無機質な文字列が、情報の代わりにそこかしこに並んでいる。
「何だこれは……」
俺は思わず呟いた。
「隊員の基本情報だぞ? なぜここまで徹底的に隠蔽されているんだ? 俺のアクセス権限レベルでも、これ以上は開けないのか?」
軍内での俺の地位は、決して低いものではないはずだ。
だが、目の前の黒塗りの壁は、俺の権限など歯牙にもかけないと言わんばかりに、堅く口を閉ざしている。
「特殊なプロテクトがかかっているみたいね、これは」
マドカが、眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせながら言う。
「通常の機密指定とは明らかにレベルが違うわ。まるで、彼女の存在そのものを、JDFが意図的に隠そうとしているみたい」
彼女もまた、昨日のカレンの異変に強い興味と……そして、科学者としての懸念を抱き、俺の調査に全面的に協力してくれていた。
「早乙女カレンの過去に、一体何があるというんだ?」
俺は思考を巡らせる。
「昨日の戦闘での彼女は、まるで百戦錬磨の指揮官が乗り移ったかのように、的確で、冷静で……そして、どこか非人間的ですらあった」
マドカは、慣れた手つきでキーボードを操作し、別のウィンドウにカレンの逆バニースーツの活動記録データを表示させた。
そこには、複雑な波形グラフと、膨大な数値データが羅列されている。
「彼女の逆バニースーツのエネルギー反応データも、少し見てみましょうか。何か手がかりがあるかもしれないわ」
マドカが指し示したグラフの一点。
それは、昨日の戦闘中、カレンが豹変した瞬間のエネルギー波形だった。
他のメンバー――ミナやアイリのスーツの波形とは、明らかに異質なパターンを描いている。
「……これは……二重波形……ね」
マドカは、顎に手を当て、興味深そうにその奇妙な波形を眺めている。
「まるで、二人の異なる人間の感情エネルギーが、一つのスーツの中で同時に、しかし独立して活動しているかのようにも見えるわ。そして……」
「この部分だ」
俺は、グラフの別の箇所、微弱だが明らかに異常なノイズを発しているデータラインを指差した。
「何か……埋め込まれた、微細な装置の反応シグナルも混じっているように見える。これは一体何だ?」
「……現時点では不明ね。でも、おそらく、彼女の感情か能力、あるいはその両方を監視、もしくは抑制するための、何らかの生体インターフェースか、インプラントの類かもしれないわ」
マドカは眉をひそめる。
「気になるのは、昨日の戦闘中、この謎の装置の活動レベルが一時的に急低下した、まさにその瞬間に、彼女のスーツから異常なまでの高エネルギー反応――エネルギースパイクが記録されていることよ」
俺とマドカの会話が続く中、モニターの隅に、さらに別の、暗号化されたファイル群のリストが小さく表示されているのが、ふと俺の注意を引いた。
その中に一つだけ、妙に引っかかるタイトルのフォルダがあった。
『Project Ω(オメガ)』
俺は、無意識のうちにそのフォルダをクリックしようとした。
だが、その瞬間、モニター全体が真っ赤に染まり、けたたましい警告音と共に、極めて威圧的なメッセージが表示された。
『最高機密情報:アクセス権限レベルΩ(オメガ)以上が必要です。不正アクセスは即時記録され、軍法会議における最高刑罰の対象となります』
「……オメガ計画……」
俺は、その言葉の響きを、まるで苦い薬でも噛み締めるかのように、口の中で繰り返した。
「マドカ博士、何か聞いたことはあるか? この『オメガ計画』について」
マドカは、珍しく難しい顔をして首を横に振った。
「いいえ、全く。JDFのデータベースでも、これほど厳重なプロテクトが施されたファイルは、私も初めて見たわ。でも……」
彼女は、慎重に言葉を選びながら続けた。
「カレンちゃんの脳波パターンに、非常に特異な点があるの。昨日の戦闘中、彼女の脳活動レベルが、瞬間的にだけど、通常の人間の約3倍以上にまで跳ね上がっていた時間帯があるわ」
「……3倍以上、だと? そんな馬鹿な……常人なら、それだけの負荷に脳が耐えられるはずが……」
「ええ、正常値を遥かに超えている。にも関わらず、戦闘後の彼女の脳に、器質的な損傷や機能低下は一切見られなかった。つまり……」
「――つまり、彼女は、その異常な脳活動に耐えられるよう、何らかの特殊な強化、あるいは改造を受けている、ということか」
俺が、マドカの言葉を引き継ぐように結論づける。
背筋に、冷たいものが走るのを感じた。
◇
その日の午後、俺はマドカと共に医務室を訪れていた。
カレンは、検査用のベッドに静かに横たわり、頭部や手足には、脳波や各種生体データを測定するための無数のセンサーが取り付けられていた。
彼女は眠っているようだったが、その眉は苦痛に歪み、時折、うなされているかのように、小さな呻き声を漏らしている。
その姿は、あまりにも痛々しかった。
俺は、ベッドのそばに静かに近づき、彼女の様子を見守る。
「検査結果は、どうなんだ?」
俺は、声を潜めて尋ねた。
「……正直なところ、私の予想を遥かに超える、驚くべき結果よ」
マドカは、手にしたタブレット端末に表示された複雑なデータを俺に見せながら、深刻な表情で言った。
「彼女の脳内……特に記憶を司る海馬と、思考や理性を司る前頭前野に、極めて高度な、そして……非人道的な、人工的改変の痕跡が確認されたわ。それも、かなり幼い時期に施術されたものみたいね。これは、記憶の植え付けや消去、そして……複数の人格を意図的に形成、あるいは分離するための実験が行われた可能性が高いことを示唆している」
「なっ……何だって……!? そんな、子供相手に、そんな実験を……一体、誰が、何のために……!」
俺の声が、抑えきれない怒りで強まる。
その瞬間だった。
「……ん……」
ベッドの上で、カレンがゆっくりと目を開けた。
その紫色の瞳は、まだ焦点が合わず、混乱したように俺とマドカの顔を交互に見ている。
「あれ……? わたし……何を……してたんでしょうか……?」
「気分が悪いと聞いてな。少し検査をさせてもらっていたんだ。今は、どうだ? 気分は」
俺は、できるだけ平静を装い、優しく声をかける。
「頭が……少しだけ、痛いです……。それと……」
彼女は、少しだけ躊躇いがちに、しかしはっきりとした口調で続けた。
「なんだか、変な夢を見ていたような気がするんです。わたしじゃない、別の誰かが……わたしの身体を使って……何かを、お話しているような……そんな、夢……」
俺とマドカは、思わず視線を交わした。
夢ではない。それは、現実に起きていることなのだ。
俺は、意を決し、穏やかに、しかし真剣な眼差しで彼女に尋ねた。
「『オメガ計画』という言葉に、何か心当たりはあるか? どんな些細なことでもいい」
その言葉を聞いた瞬間、カレンの瞳孔が、まるで猫のように、キュッと一瞬だけ大きく見開かれた。
そして、彼女の身体が、ビクッと硬直する。
次の瞬間、彼女は「あ……ああ……っ!」と、激しい頭痛に襲われたかのように顔を歪め、両手で頭を強く押さえつけ、甲高い悲鳴を上げた。
「カレン! しっかりしろ!」
俺が、慌てて彼女の肩を支える。
「い、痛い……! 頭が……頭が、割れるように……痛い……っ!」
彼女は、涙を浮かべ、苦しげに呻く。
そして、突然。
その苦悶の表情が、ふっと消えた。
代わりに、彼女の顔に浮かんだのは……ぞっとするほど冷たく、そして全てを見透かすような、鋭い眼差しだった。
声色も、まるで別人のように低く、そして重々しいものに変わっていた。
「――余計な詮索はするな。そこから先は、お前たちが立ち入るべき領域ではない。警告は、したぞ」
その言葉を残し、彼女は再び、くたりとベッドに力を失った。
そして、数秒後。
「……あれ……? わたし……また、何か……変なこと、言ってました……?」
いつもの、気弱で、おっとりとした早乙女カレンに戻り、混乱したように周囲を見回している。
俺は、固く拳を握りしめた。
カレンの中には、間違いなく、もう一つの何かが存在する。
そして、彼女のその壮絶な過去には、JDFという巨大な組織でさえも、躍起になって隠蔽しようとしている、何かとてつもない闇が潜んでいるのだ。
「マドカ博士。君の力が必要だ」
俺は、隣に立つマドカに向かって、静かに、しかし断固とした口調で言った。
「正規のルートでは、おそらく真実にはたどり着けないだろう。……非公式に、この『オメガ計画』と、早乙女カレンの過去を調査したい」
マドカは、俺のその言葉に一瞬だけ驚いたような表情を見せたが、すぐに全てを理解したように、力強く頷いた。
「……分かったわ。私にできることなら、何でも協力する。あの子を、放ってはおけないもの」
ベッドの上では、カレンが、俺たちのそんな会話を、ただ不安そうに聞きながら、自分の小さな手を見つめている。
「……わたし……本当は……何者、なんでしょう……?」
そのか細い声が、俺の胸に深く突き刺さった。
俺は、必ず、その答えを見つけ出してみせる。
たとえ、どんな危険が伴おうとも。
それが、彼女の指揮官としての、俺の責任であり、使命なのだから。




