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第29話

 JDF基地内の一日は、大抵の場合、騒がしい訓練か、うんざりするほどの書類仕事か、あるいはその両方で始まる。

 だが、時折、俺の荒んだ心に一服の清涼剤を届けてくれる場所があった。

 それが、早乙女カレンが主のような顔をしている、この医務室だ。


 朝日が大きな窓から柔らかく差し込み、清潔なリネンの匂いと消毒液の微かな香りが漂う、静かで穏やかな空間。

 そこでカレンは、いつものように天使のような微笑みを浮かべながら、訓練で軽い捻挫をした若い隊員の手当てをしていた。


 彼女の肩までの長さの、ふわりとした薄紫色の髪が、その優雅な動きに合わせてさらりと揺れる。

 白い医務班用の制服(清潔感あふれるパンツスタイルだ)が、彼女の柔らかな雰囲気を一層引き立てている。

 

「ふふっ、大丈夫ですよ。この特製湿布を貼っておけば、明日の朝には痛みもすっかり引いてますから。無理は禁物ですからね?」

 

 カレンの声は、まるで上質なハーブティーのように柔らかく、聞いているだけで荒んだ神経が鎮まっていくようだ。

 手当てを受けている隊員の顔からも、みるみるうちに緊張が解け、安堵の表情が浮かんでいくのが分かる。

 まさに、バニー・フォースの癒し担当、といったところか。


 俺が医務室のドアを開けると、カレンはすぐにこちらに気づき、ぱたぱたと軽い足取りで寄ってきた。


「あ、司令官!  おはようございます!  みなさん、経過は順調ですよ♪」

 

 彼女は、まるで小さな子供がお気に入りの玩具を見せびらかすように、明るく、そして少しだけ得意げにそう報告した。

 それから、ふわっと自分の薄紫色の髪を耳にかき上げる。その何気ない仕草すら、どこか絵になるのが彼女の凄いところだ。

 

「あ、そうだ司令官!  今日のランチのメニューなんですけど、みんながもっと元気が出るように、新しいレシピを考えてみたんです!  ビタミンと愛情たっぷりですよ~♪」

「……そうか」


 俺は、そのあまりにも平和な話題転換に、一瞬だけ言葉を失った。

 だが、彼女のこの底抜けの天然っぷりには、もう慣れっこだ。

 むしろ、これがカレンの平常運転なのだろう。

 

「それも重要だが、明日の大規模デビルズ掃討作戦のブリーフィング資料、準備はできているんだろうな?  特に、負傷者発生時の後方支援プランだが……」

「えっとぉ……あれぇ……?  たしか、この辺の棚に……うーん、どこに置いたかなぁ……?」


 カレンは、可愛らしく小首をかしげ、大きなカルテ棚の前で書類の山と格闘し始めた。

 資料の整理整頓は、どうやら彼女の得意分野ではないらしい。

 このおっとりとした天然ぶりも、彼女の魅力の一つ……と言えなくもないが、時々、本気で心配になる。


 その時だった。


 ウウウウウウウウウウウウッッッ!!!

 基地全体に、けたたましい緊急警報のサイレンが鳴り響いた!


 赤い警告灯が医務室の白い壁を不気味に照らし出し、平和な空気は一瞬にして吹き飛んだ。

 俺の表情が、反射的に引き締まる。

 

「デビルズか!?  全員、直ちに第一戦闘配置につけ!  急げ!」


 俺が怒鳴ると同時に、医務室にいた軽傷の隊員たちも、顔色を変えて慌ただしく動き出す。


 その喧騒の中、ほんの一瞬だけ、俺の視界の端に、早乙女カレンの姿がフレームインした。


 息を呑んだ。


 そこにいたのは、いつものおっとりとした癒し系の彼女ではなかった。

 表情が一変していたのだ。

 

 普段は優しげに細められている紫色の瞳が、まるで猛禽類のように鋭く細められ、冷静沈着な、そしてどこか冷徹さすら感じさせる観察眼で、周囲の状況を一瞬にしてスキャンしているかのような……そんな、異様なまでの集中力と緊張感を漂わせていた。


 だが、それも本当に一瞬のこと。

 俺が驚いて彼女の方を振り返った時には、彼女はもういつもの、ほんわかとした表情に戻っていた。


「わぁ、大変ですねぇ。サイレンの音、びっくりしちゃいました。わたし、すぐに医療キットの最終チェックをして、救護テントの準備をしますね!」

 

 そう言うと、彼女は少しだけ慌てたように小走りになり、医療器具が並ぶ棚へと向かっていった。


 ……今の、は……見間違い、か……?


 俺の胸に、小さな、しかし無視できない違和感が芽生えた。


 ◇


 結局、あの警報は、最新鋭の早期警戒システムが、宇宙ゴミか何かをデビルズと誤認したことによる、ただの誤報だったと判明した。

 拍子抜けするやら、安堵するやら。

 

 数時間後、基地はすっかり平常を取り戻し、俺は隊員たちと共に、昼食のために食堂へと向かった。


 食堂では、橘ミナが、大きな身振りと効果音を交えながら、テーブルの向かいに座るカレンに向かって、何かを熱く語っていた。

 どうやら、昨日の訓練での「武勇伝」らしい。

 

「――それでさー!  あの模擬デビルズが、ガオーって目の前に現れたとき、私ったら一瞬マジでビビったんだけど、でも次の瞬間には『こいつ、今日の晩ご飯のおかずにしてやる!』って思って、シャイニング・サイクロン・バニー・アタックをですね――!」


 ミナの言葉に、カレンは「まあ!」「すごいですね!」と、いつものように優しく微笑みながら相槌を打っている。

 その光景は、実に平和で、微笑ましい。


 だが、俺は、そんなカレンの様子を、トレイの上の味気ないレーションを口に運びながら、注意深く観察していた。


 何か、違和感があるのだ。


 彼女の笑顔は、どこからどう見ても完璧な「癒し系の笑顔」だ。


 だが、時折……本当に、ほんのコンマ数秒だけ、その紫色の瞳の奥に、まるで別の誰かが潜んでいるかのような、鋭く、そしてどこか冷たい光が一瞬だけ宿るような気がするのだ。


「ねえ、カレンちゃんってばー。聞いてるー?」

 

 ミナの少しだけ不満そうな声に、カレンがハッとしたように顔を上げた。

 

「あ……はい?  ミナさん、ごめんなさい。少しだけ、考え事をしていました」

「へえー、珍しいね」


 ミナが、からかうように口を尖らせる。


「カレンちゃんって、いっつもふわふわしてて、天然だもんねー!」


 カレンは、その言葉に「えへへ……」と照れたように笑った。

 だが、その目が、またしても一瞬だけ、スッと細められたのを俺は見逃さなかった。

 

「そうですね……わたし、難しいことを考えるのは、ちょっと苦手ですから……」


 その言葉は、いつもの彼女のもののはずなのに、なぜかほんの少しだけ、含みがあるように聞こえた。

 俺は、静かに食事を続けながらも、心の中でカレンに対する疑問を、さらに深めていた。

 

(早乙女カレンは……本当に、見た目通りの、単純でおっとりした性格の少女なのだろうか……?  それとも……)


 その時だった。


 食事が終わり、カレンがトレイを持って席を立とうとした際、バランスを崩したのか、彼女のトレイの端から、医務室で整理していたはずの書類の束が、ハラハラと滑り落ちたのだ。

 

「あっ!」


 俺は、咄嗟に手を伸ばし、その書類を拾い上げようとした。

 だが――。


 それよりも早く、カレンの手が、まるで予測していたかのような滑らかな動きで、しかし常人ではありえないほどの驚異的な速度と正確さで、空中に舞う書類の束を、完璧にキャッチしていた。

 

 その動きには、一切の無駄も、ためらいもなかった。

 まるで、精密機械のような……。


「あ……」


 カレンは、自分のその行動に自分で驚いたかのように、一瞬だけ固まっていた。

 そして、すぐにいつものほんわかとした笑顔に戻り、「ら、ラッキーでした……ね? あはは……」と、誤魔化すように笑った。


 彼女は、慌てたようにその書類を自分のバッグにしまい込むと、「それじゃあ、司令官、ミナさん、お先に失礼しますね。お休みなさい♪」と、どこかぎこちない軽やかさで言い残し、食堂を後にしていった。


 だが、その小さな背中には、先程までの穏やかな雰囲気とは裏腹に、どこかピリピリとした緊張感が漂っているように、俺には見えた。


 俺の目が、自然と細くなる。

 早乙女カレンの中に隠された、何か。


 それが何なのかはまだ分からない。

 だが、俺は、その「何か」の存在を、確かに感じ取っていた。


 このバニー・フォースには、まだまだ俺の知らない秘密が隠されているのかもしれないな……。


 そんな予感が、俺の胸をざわつかせていた。

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