第26話
俺たちは、半壊した窓から慌てて外の様子を窺った。
そして、息を呑んだ。
さっきまで、ただ薄暗いだけだった空が、まるで巨大な墨汁をぶちまけたかのように、おぞましい黒色の雲に覆われ始めていたのだ。
それは生き物のように蠢き、明らかに異常な速度でこちらへ迫ってくる。
デビルズ……それも、尋常ではない規模の!
『 聞こえる!? 状況は最悪よ!』
個人端末から、マドカ博士の切羽詰まった声がノイズ混じりに飛び込んできた。
「 状況を報告してくれ! いったい何が起きた!?」
俺は通信機に向かって叫ぶ。
『新型のデビルズよ! 未確認の超大型種が、複数、そちらの座標ポイントに急速接近中! しかも……』
マドカの声に、ザーッという激しい静電気が混じり始める。
『……あなたたちを……特に、アイリちゃんの……感情エネルギーに反応して……ザザッ……目指して、いるみたい……!』
「アイリを!?」
『……気をつけて……!』
ブツッ、という音と共に、マドカとの通信は完全に途絶えてしまった。
その時、アイリが震える指で、空を指さした。
「……あれは……『エモーショナル・ハンター』……」
彼女の声が、絶望の色を帯びて震える。
「私のような……感情エネルギーに特殊な反応を示す人間を、優先的に追跡し、捕食する……デビルズの、特殊な狩猟種……。私の知識では……遭遇した場合の生存確率は、限りなく……ゼロに近いです……」
ゴポゴポ……という、気味の悪い音が頭上から聞こえてきた。
見上げると、空を覆っていた黒い雲から、まるで粘性の高いタールのような、黒い液体状の物質が、雨のように降り注ぎ始めていた。
それらは地面に到達すると、まるで意思を持つアメーバのように蠢き、盛り上がり、そして……みるみるうちに、鋭い爪と歪な角を持つ、禍々しい人型のシルエットを形成していく。
一体、二体ではない。数十……いや、百を超えるかもしれない数のデビルズが、俺たち二人を完全に取り囲むように、次々とその姿を現しつつあった。
「チッ……! バイクで強行突破するぞ! 俺に続け!」
俺はアイリの手を強く引き、建物の入り口に停めてあったバイクへと走ろうとした。
だが、既に遅かった。
バイクは、先程の爆発の余波か、あるいはデビルズの直接攻撃か、見るも無惨な鉄屑と化していた。
そして、俺たちの退路は、いつの間にか出現したデビルズの群れによって、完全に断たれていたのだ。
「……私の、せいです……。私が、ここに来たから……」
アイリの声は、絶望に打ちひしがれ、消え入りそうだった。
その青い瞳からは、再び涙が溢れそうになっている。
「感傷に浸っている時間はないぞ!」
俺は素早く周囲の状況を判断し、研究施設の裏手にある、比較的小さな、しかし頑丈そうな倉庫へと彼女を導いた。
扉は古びていたが、内側からロックをかければ、多少の時間は稼げるはずだ。
俺たちは何とかその倉庫の中に滑り込み、錆びついた鉄の扉を閉め、内側から鍵をかけた。
外からは、デビルズの威嚇するような低い唸り声と、扉を叩き引っ掻くおぞましい音が聞こえてくる。
倉庫の中は、埃っぽく、カビ臭かった。
床には、用途不明の古い軍事機器の残骸や、何かの部品が入っていたのであろう、埃をかぶった輸送ケースがいくつも転がっている。
俺は、何か使えるものはないかと、迅速に周囲を調査し始めた。
そして、その中の一つ、ひときわ大きな金属製のケースに目が留まった。
JDFの旧式エンブレムが、かろうじて読み取れる。
「これは……まさか……」
震える手でケースのロックを外し、蓋を開ける。
その中身を見て、俺は自分の目を疑った。
そこにあったのは――旧式の逆バニースーツだった。
それは、彼女が普段着用している洗練されたデザインのものとは比較にならないほど、無駄なまでに露出度が高く、装飾もほとんどない、明らかに実用性よりも「羞恥心」を最大限に喚起することだけを目的としたかのような、シンプルな、しかしそれ故に扇情的なデザインだった。
「……どうやら、この旧研究施設でも、逆バニースーツの初期研究が、極秘裏に行われていたようだな……。それも、かなり歪んだ方向性で」
アイリは、その禍々しいスーツを見て、愕然とした表情を浮かべていた。
「……これが……原型……。私の、あの忌まわしい能力を……無理矢理にでも制御し、兵器として転用するために……開発されていた、のかもしれません……」
俺は、思わず動揺を隠せない。
「……原型、試作品です。おそらく、現在のスーツよりも、感情エネルギーの変換効率、特に『羞恥心』に対する感応度を、極限まで高める設計思想に基づいているものと……推測されます」
アイリは、どこか専門的な、しかし熱のない目で俺の姿を観察している。
いや、その瞳の奥には、ほんの少しだけ、別の色が宿っているような……?
その時、ガシャァァァン!! という轟音と共に、倉庫の分厚い鉄の壁の一部が、内側から無残に砕け散った!
そこから、黒い人型をしたデビルズの一体が、ぬるりと侵入してくる。
「下がっていろ!」
俺は、咄嗟にアイリを守るように、その前に立ちはだかった。
「……いいえ」
だが、俺の背後から聞こえてきたのは、意外なほど、落ち着いた、そして……どこか決意に満ちた、強い声だった。
「もう、逃げません」
「アイリ、君は……まさか……!」
俺が驚きの表情を浮かべる中、アイリは、その旧型スーツを、まるで自分の運命を見据えるかのように、冷静な、しかしどこか挑戦的な目で見つめていた。
「私のこの能力も、私のこの感情も……もう、否定はしません」
アイリは、静かに、しかしはっきりとそう言った。
そして、俺の方を真っ直ぐに見据え、ほんの少しだけ、挑発的な笑みを浮かべてみせた。
「司令官……教えてください。この、耐え難いほどの『恥ずかしさ』を……どうすれば、力に変えることができるのかを」
俺と彼女の視線が、激しく交差する。
その瞬間、砕けた壁の向こうから、デビルズの新たな一体が、鋭い爪を振りかざし、俺たち二人目掛けて襲いかかってきた――!




