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第25話

 昨夜、アイリが見せた、あの魂の叫びとも言える涙。

 

 そして、ほんの少しだけだが、確かに感じられた変化の兆し。

 俺は、そこに一縷の望みを繋いでいた。

 

 だが、その期待は、翌朝早くに打ち砕かれることになる。


 特別訓練の開始時刻になっても、アイリが指定された隔離訓練施設に姿を現さなかった。

 嫌な予感が胸をよぎり、俺は彼女の自室のドアを叩いた。

 

 返事はない。


 再度ノックし、それでも応答がないことに焦りを覚え、俺は躊躇いながらもドアノブに手をかけた。

 ロックは、かかっていなかった。


「入るぞ」

 

 声をかけながら部屋に足を踏み入れると、そこはもぬけの殻だった。

 ベッドは、彼女の性格を反映してか、シーツの皺一つなく完璧に整えられている。

 

 だが、そこにアイリの姿はない。

 部屋全体が、まるで主の不在を嘆くかのように、しんと冷え切っている。


 そして、俺の目に飛び込んできたのは、簡素なドレッサーの上に、ぽつんと一つだけ残された、小さな銀色のロケットペンダントだった。

 確か、彼女が時折、無意識に指で弄んでいたものだ。

 それを置いていったということは……。


 その瞬間、俺の個人端末にけたたましい警報音と共に、マドカ博士から緊急通信が入った。

 

『 大変よ!  アイリちゃんが、基地の整備ドックからバイクを持ち出して、無断で離脱したわ!  東ゲートの監視カメラに、彼女が北東方向へ向かう映像が記録されているけど……!』

 

 マドカの焦った声が、俺の最悪の予感を裏付ける。


「クソッ……あの馬鹿、一体どこへ!」


 俺は即座に決断した。

 

「彼女のバイクの発信信号を追えるか?  俺もすぐに追跡する!」


 数分後、俺は自分の黒い大型バイクに跨り、JDF基地を飛び出していた。

 風防ヘルメットのバイザー越しに、アスファルトの荒れた道が猛スピードで後方へ流れていく。


『彼女の行き先の見当はついているの?』


 無線通信機から、風切り音に混じってマドカの声が聞こえる。

 

「いや、わからない。何か心当たりはあるか?」

『彼女の過去のパーソナルファイルに、以前所属していた研究施設の場所が記録されているわ。北東部の旧第7軍事区域内』


 俺は歯噛みした。

 彼女が、自分の過去と向き合おうとしているのか、それとも……。


「彼女のバックグラウンドについて、もっと詳しく教えてくれ。あのファイルだけでは、あまりにも情報が少なすぎる」


 俺は、バイクのアクセルをさらに捻りながら、マドカに要求した。

 

『……分かったわ。これは最高機密事項だけど、緊急事態だものね』


 マドカの声のトーンが、少しだけ重くなる。

 

『彼女、白雪アイリは、記録によれば5歳の時に、その特殊な共感性過敏増幅能力を発現させた。両親の記録は抹消済み。おそらく、普通の孤児院から、すぐに軍の特殊児童養護施設……実態は、能力開発研究施設だけど……そこに移送されたのよ』


 風の音が、やけに耳障りに聞こえる。

 

『そこでの約10年間、彼女は『感情制御及び能力増幅実験』の主要な被験体の一人になった。簡単に言えば、軍は、彼女のその稀有な能力を、強力なサイキック兵器として利用しようとしたのよ』

「……なんてことだ……」


 思わず、そんな言葉が口をついて出た。

 5歳の子供に、そんな非道な……。

 

『でも、皮肉なことに、彼女の能力はあまりにも強力で、そして不安定すぎた。幼い彼女には、それを制御することなど到底不可能だったの。だから、研究者たちは逆の道を選んだのよ――感情そのものを徹底的に消去し、抑制することで、危険な能力を封じ込めるという道をね。そしてそれを、『完璧な兵器』を作り上げるための崇高な訓練だと、彼女に信じ込ませたの』


 言葉を失った。

 それが、あの白雪アイリという少女が背負ってきた、あまりにも過酷な過去なのか。


 荒廃した風景が、まるで彼女の心の傷を映し出すかのように、次々と目の前を過ぎ去っていく。

 

 そして、ついに俺は、古びた、巨大な研究施設の前に到着した。

 そこは、まるで巨大な墓標のように、静まり返っていた。


 廃墟と化したコンクリートの建物、割れた窓ガラス、蔦に覆われ崩れかけた外壁。

 しかし、その無機質な廃墟の入り口に、見慣れたJDFの軍用バイクが、一台だけ無造作に停められているのが見えた。


 俺はバイクを停め、ヘルメットを脱ぎ捨てると、慎重に建物の中へと足を踏み入れた。


 内部は、外観以上に荒れ果てていた。

 埃とカビの匂いが鼻をつき、床にはガラスの破片や瓦礫が散乱している。


 薄暗い廊下を進むと、壁には錆びついた実験機器の残骸や、そして……子供たちが描いたのであろう、色褪せたクレヨンの落書きが、そこかしこに残っていた。

 

 笑顔の太陽、手をつなぐ家族、色とりどりの花……。

 だが、廊下の奥へ進むにつれて、その落書きの色調は次第に暗く、歪んでいき、最後には、まるで絶望を塗り固めたかのような、真っ黒な塗りつぶしだけが残されていた。


 胸が、締め付けられるような痛みを覚えた。


 そして……一番奥にあった、ひときわ小さな、独房のような部屋。

 鉄製のドアは半開きになっていた。

 

 そこに、彼女はいた。


 窓際に立ち、ただ黙って、荒涼とした外の景色を見つめている、アイリの姿が。

 その背中は、あまりにも小さく、そして脆く見えた。

 

 彼女は、俺の気配に気づいていたのだろう。

 振り返ることなく、静かな声で言った。


「……ここが、私の原点です」

 

 その声には、何の感情も込められていなかった。

 まるで、昨夜までの揺らぎが嘘だったかのように、再び完璧な無表情に戻っている。

 だが、その横顔から覗く青い瞳の奥には、言葉では言い表せないほどの、深い悲しみの色が宿っているのが、俺には分かった。


「私が……人間ではなく、ただの兵器になった、始まりの場所」


 俺は、ゆっくりと彼女に近づき、数歩手前で立ち止まった。

 そして、静かに、しかしはっきりとした声で言った。

 

「どんな過去があろうと、君は兵器じゃない。一人の人間だ」

「……違います」


 アイリは、頑ななまでに首を横に振った。

 そして、ようやく俺の方を向く。

 

 その顔は、完璧な能面のようだった。

 

「私は、この施設で『作られた』、不完全な兵器です。私の感情は……あまりにも、危険すぎるのです」


 部屋の壁には、子供の頃のアイリが描いたと思われる絵が、何枚も残っていた。

 最初は、本当に楽しそうな、幸せに満ちた家族の絵、黄色い大きな太陽、にこやかに笑う動物たち……。


 だが、それが次第に、色を失い、形を歪め、そして最後の一枚は、黒いクレヨンで、ただひたすらに真っ黒に塗りつぶされていた。

 まるで、彼女の心が壊れていく過程を、そのまま記録したかのように。


「……私は、7歳の時、一度だけ、感情を爆発させてしまいました」


 アイリは、遠い目をして、静かに告白を始めた。


「その結果……一人の研究員の方を、殺しかけたのです。私の、ほんの些細な怒りが、その人の精神を破壊し、暴走させた……。それから、私は『特別訓練』という名の、感情を消し去るためのプログラムへと移されました。感情を持つことは恥ずべきことであり、制御できない弱さそのものなのだと、徹底的に……刷り込まれました」


 俺は、部屋の中を見渡した。

 白い壁、最小限の粗末なベッドと机、その他には何もない、個性の欠片すら感じられない、まるで監獄のような空間。


 そして、部屋の隅には、小さな監視カメラが設置されていたであろう、不自然な穴が空いていた。

 ここで彼女は、一体どれだけの孤独と絶望を味わってきたというのだろうか。


「……彼らは、間違っていた」


 俺は、抑えきれない怒りを込めて、断言した。


「感情を持つことは、決して弱さなんかじゃない。それは、君が人間であるという、何よりの証なんだ。君の人間性そのものなんだ!」

「でも……私のこの、忌まわしい能力は……!」


 アイリの声が、わずかに震える。


「君の能力は、君自身の一部だ。それを恐れ、ただ抑え込み、消し去ろうとするのではなく、それと共に生きる道を見つけ出すべきなんだ」


 俺は、アイリの青い瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。


「バニー・フォースの一員として、君のその力は、決して敵なんかじゃない。使い方次第では、俺たちの……いや、人類の未来を切り開く、大きな可能性になるかもしれないんだぞ」


 アイリは、きつく目を閉じ、深く、深く息を吐いた。

 そして、ゆっくりと目を開ける。


 「……私は……もう、みんなの元へは戻れません。私のこの力が、またいつ暴走して、仲間たちを危険にさらすことになるか……分からないから」


 その声には、諦めと、そして仲間を想うが故の苦悩が滲んでいた。


「それは、君一人が決めることじゃない」


 俺の声が、自分でも驚くほど強くなる。


「ミナも、カレンもみんな君を必要としている。そして……俺も、君を必要としているんだ」


 アイリの目が、驚きに見開かれる。

 その青い瞳が、大きく揺れた。


「俺たちバニー・フォースに必要なのは、感情を持たない完璧なだけの兵器じゃない。迷い、苦しみ、それでも仲間を信じ、共に戦おうとする……白雪アイリという、一人の不完全な人間が、必要なんだ」


 俺は、彼女に向かって、そっと右手を差し伸べた。

 

「……一緒に、基地へ戻ろう。そして、もう一度……いや、何度でも、お前の本当の居場所を、俺たちと一緒に見つけようじゃないか」


 長い、長い沈黙が、廃墟の部屋を支配した。

 アイリは、俺の差し伸べた手と、窓の外の荒涼とした景色を、何度も何度も見比べていた。


 やがて、彼女の白い頬を、また一筋の涙が、静かに伝い落ちた。


 だが、それは昨夜の絶望の涙とは違う。

 何か、新しいものが生まれようとしている、そんな温かい涙のように、俺には見えた。


「……私は……もう、完璧では……ないのですね……」

 

 彼女の声には、ほんのかすかな、自嘲とも諦めともつかない、不思議な笑みが混じっていた。

 

「ああ、そうだ。誰も、完璧なんかじゃない。だからこそ、支え合い、補い合い、そして……時にぶつかり合いながら、前に進んでいく。それが、人間の美しさであり、強さなんじゃないのか」


 俺は、静かに答えた。


 アイリは、ゆっくりと、本当にゆっくりと、震える左手を持ち上げ、そして……俺の差し出した右手に、その小さな手を、そっと重ねた。

 

 その手は、驚くほど冷たかったが、しかし、確かに、生きている人間の温もりを感じさせてくれた。

 

「……教えて、ください……司令官……。私に……人間としての、生き方を……」


 その瞬間だった。


 俺たちが、ようやく互いの手を握りしめ、この忌まわしい過去の象徴である廃墟から、新たな一歩を踏み出そうとした、まさにその時――!


 ドゴォォォォォォン!!!


 突如として、建物の外で、凄まじい爆発音が轟いた!

 同時に、俺の個人端末がけたたましい緊急警報音を発し始めた!


『緊急警報!  未確認のデビルズ多数出現!  当座標ポイントへ急速接近中!  総員、直ちに戦闘準備!』


 切羽詰まった声が、通信機から響き渡る。

 

 嘘だろ……なぜ、こんなタイミングで……!


 俺とアイリは、互いの顔を見合わせた。

 彼女の青い瞳には、先程までの涙の跡も乾かぬうちに、新たな戦いへの覚悟と、そして……ほんの少しの、恐怖の色が再び宿っていた。

 

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