第24話
白雪アイリの特別訓練、5日目の夜。
隔離訓練施設内の空気は、いつもより数段張り詰めているように感じられた。
あの日、俺が「不完全の日」を提案して以来、アイリはそれを頑なに拒否し、むしろ以前にも増して、自らを完璧な殻の中に閉じ込めようとしているかのようだった。
「司令官。繰り返しますが、この訓練に意味はありません。私は感情など必要としていませんし、それがむしろ任務の遂行において妨げになるだけです」
ソファに浅く腰掛けたアイリは、俺の目を見ようともせず、冷え冷えとした声でそう言い放った。
その横顔は、まるで精巧に作られた氷の彫像のようだ。
俺は、彼女のその頑なな態度にも、もう動じなかった。
むしろ、その強固な防衛本能こそが、彼女の心の奥底に隠された何かを示しているように思えたからだ。
「では、聞かせてほしい。君は一体、なぜそこまで感情を持つことを恐れるんだ?」
「……恐れてなど、いません」
即答だった。
だが、その声には微かな震えが混じっていた。
「嘘だ」
俺は、普段よりも少しだけ厳しい声で言った。
「バイタルデータ、逆バニースーツのエネルギー出力パターン、その全てが雄弁に語っている。君は、自分の感情が表に出ることを、極度に恐れている。なぜなんだ?」
「……それは……」
アイリの声が、さらに震えを増す。
白い指先が、きつく握りしめられているのが見えた。
俺は、さらに一歩踏み込んだ。
これが正解かどうかは分からない。
だが、このままでは彼女は本当に壊れてしまう。
「君の過去のパーソナルファイルを見た。特殊な育成プログラム、徹底的な感情の抑圧……。だが、それがすべてではないだろう。君がそこまで頑なに心を閉ざす、本当の理由は何なんだ?」
「……やめて、ください……」
アイリの声が、明らかに上ずる。
その青い瞳が、苦痛に歪んでいる。
だが、俺は止まらなかった。
ここで引いては、何も変わらない。
「感情を持つと、一体何が起きるというんだ? 誰かを傷つけてしまうのか? それとも……君自身が、深く傷つくことになるのか?」
その言葉が、最後の引き金になったのかもしれない。
アイリの中で、何かが、音を立てて決壊した。
「うるさいっ!!」
彼女は突然、金切り声に近い叫び声を上げ、目の前のテーブルを、バンッ! と力任せに叩いた。
その衝撃で、テーブルの上のデータパッドが床に滑り落ちる。
「あなたに……あなたなんかに、私の何が分かるというのですかっ!」
瞬間、部屋の温度が数度、急激に下がったかのような錯覚に陥った。
いや、錯覚ではない。
アイリの周囲の空間そのものが、まるで陽炎のように、微かに歪んでいるのが見えた。
俺の胸が、言いようのない圧迫感に包まれ、一瞬、呼吸が苦しくなり、足がすくむのを感じた。
「私の感情が……私のこの、忌まわしい感情が……どれほど危険なものか、あなたは知らないでしょう……!」
アイリの声は、怒りと、恐怖と、そして深い絶望がないまぜになったように震えている。
「私が……私がもし、本当の感情を……この胸の奥底にあるものを解放してしまったら……周囲の人たちが……みんなが……!」
そこまで叫んだ時、アイリは突然、ハッとしたように動きを止めた。
まるで、自分自身が発した言葉の恐ろしさに、今更ながら気づいたかのように。
恐怖に目を見開き、わなわなと震える自分の両手を見つめている。
「……すみません……私……わたしは……」
その言葉を最後に、彼女は弾かれたように訓練室から飛び出していった。
一瞬の戸惑いの後、俺はすぐに我に返り、彼女の小さな背中を追いかけた。
こんな精神状態で一人にしておくわけにはいかない。
◇
彼女を見つけたのは、基地の最上階にある、普段は誰も立ち入らない古い屋上だった。
吹きさらしのコンクリートの上に、アイリはいた。
暗い夜空と、その向こうに広がる都市の無数の明かりを背景に、彼女は冷たい金属製の手すりに寄りかかり、震える両手で顔を覆っていた。
その肩が、小さく、そして激しく震えているのが、遠目にも分かった。
俺は、できるだけ静かに、しかし彼女に聞こえるように声をかけながら、ゆっくりと近づいていく。
「近づかないでください!」
俺の気配に気づいたのだろう、彼女は獣のように身を竦ませ、金切り声に近い悲鳴を上げた。
「私の感情は……危険なんです! あなたまで、巻き込んでしまう……!」
「……君の、あの特殊な能力のことか?」
俺は、努めて冷静な声で言った。
「他者の感情を、良くも悪くも増幅させてしまうという」
アイリが、驚いたように顔を上げ、振り返った。
その青い瞳は涙で濡れ、街の灯りを反射して、痛々しいほどに揺らめいている。
「……なぜ……それを……知って、いるのですか……?」
「マドカ博士から聞いた。君のパーソナルファイルの隅に、断片的な記録として残っていたそうだ。極めて稀な、共感性過敏増幅能力、とかなんとか」
俺は、さらに一歩、彼女に近づいた。
「だが、それは君が感情を持つなという理由には、絶対にならないはずだ」
「あなたは……あなたには、分からない……!」
アイリの声が、再び感情的に震える。
「私が……私が少しでも強い感情を出すと、周りの人の感情も、それに引きずられて暴走してしまうんです……! 幼い頃……私の、ほんの些細な怒りに反応して、そばにいた子が、突然狂ったように暴れ出して……何人もが、大怪我をした……! 私の、どうしようもない恐怖に呼応して、研究者たちが集団でパニックを起こし、研究所は……!」
言葉にならない嗚咽が、彼女の口から漏れる。
大粒の涙が、次から次へとその白い頬を伝い落ちていく。
「だから……だから私は、完璧でなければならなかった……! 感情を持たない、冷たい機械のように……! それが、私が、周りの人を傷つけずに生きていける、唯一の方法だったから……!」
俺は、もう何も言わず、彼女の前に立った。
そして、静かに、しかし力強く言った。
「……だが、その代償は、あまりにも大きすぎた。君自身が、今まさに壊れていこうとしているじゃないか」
「……私は……私はもともと、そうやって作られた……壊れた人間だったんです……」
アイリの声は、もうほとんど風に消え入りそうなくらいにかすれていた。
「違う」
俺は、彼女の震える肩に、そっと手を置いた。
「君は、完璧に作られてなんかいない。それは、決して欠陥なんかじゃない。君が、当たり前に傷つき、当たり前に迷い、そして当たり前に何かを感じることができる……ただの、一人の人間であるという、何よりの証なんだ」
その言葉が、彼女の心の最後の壁を打ち砕いたのかもしれない。
アイリは、まるで子供のように、俺の前で声を上げて泣き崩れた。
彼女の華奢な身体が、激しく震えている。
そして、その瞬間、俺の胸の奥が、ズキン、と強く締め付けられるような感覚に襲われた。
それは、彼女の深い悲しみや絶望が、まるで直接流れ込んでくるかのような、強烈な共感の波。
「……怖いんです……」
アイリは、俺の胸に顔をうずめるようにして、震える声で言った。
「自分の感情に……この、得体の知れない力に……飲み込まれてしまうのが……また、誰かを……傷つけてしまうのが……怖い……!」
俺は、そんな彼女の小さな身体を、ただ静かに、しかし力強く抱きしめた。
「……大丈夫だ。もう、一人じゃない。俺がいる」
その瞬間、アイリの身体から、ふっと何かが解き放たれたような気がした。
長年、彼女自身の手で厳重に封印し、抑圧し続けてきた感情の奔流の一部が、ほんの少しだけ、彼女の中で静かに、そして確かに流れ始めるのを、俺は感じていた。
それは、まだほんの小さな変化かもしれない。
だが、白雪アイリという、氷のように閉ざされていた少女の心が、今、確かに溶け始めた、その最初の瞬間だったのかもしれなかった。




