第23話
白雪アイリの特別訓練、3日目。
俺は一つ、賭けに近い実験を試みることにした。
テーマは「不完全さの是認」。
あの鉄壁の完璧主義の殻を破るには、教科書通りのアプローチでは埒が明かない。
ならば、俺自身が道化を演じるまでだ。
まずは昼食からだ。
JDF基地内の一般食堂。
トレーを持って席に着くアイリの向かいに、俺はわざと音を立てて腰を下ろした。
アイリは、ミリ単位の正確さで配置された食器と、背筋を伸ばした完璧な姿勢で、栄養バランスの計算され尽くしたヘルシーランチを口に運び始めている。
その箸の使い方は、まるで茶道の師範のようだ。
一切の無駄も、乱れもない。
対する俺はというと……我ながら、なかなかの惨状だった。
まず、ネクタイは緩めに緩め、第一ボタンは外して胸元をはだけさせている。
普段はきっちり固めている髪も、今日はわざと無造作に掻き乱してきた。
そして、目の前には大盛りの豚骨醤油ラーメン。ニンニク増し増し、背脂こってりだ。
ズゾゾゾゾゾッ!! と、行儀悪く、わざと大きな音を立てて麺をすする。
時折、スープが口の端から飛び散り、テーブルに小さなシミを作る。
うん、完璧なまでにだらしない。
普段の俺を知る人間が見たら、卒倒するかもしれないな。
案の定、周囲のテーブルに座っていた基地スタッフたちが、何事かとこちらをチラチラと窺い、ヒソヒソと何かを噂し始めているのが分かる。
いいぞ、もっとやれ。
この公開処刑のような状況こそが、アイリの固定観念を揺さぶる第一歩になるはずだ。
当のアイリはというと、最初、目の前でラーメンと格闘する俺の姿を、まるで未知の生命体でも観察するかのような、理解不能といった表情で固まっていた。
だが、それも数秒。
やがて、その美しい柳眉が、ぴくりと不快そうにひそめられた。
よし、効果ありだ。
「……司令官。体調が、優れないのですか?」
彼女は、ようやく絞り出すように、静かに尋ねてきた。
その声には、純粋な疑問と、ほんの少しの……軽蔑?
いや、困惑か。
「ん? ああ、いや、絶好調だぞ。このラーメンが美味すぎて、ついつい我を忘れちまってな」
俺は、口の端についた豚骨スープの油を、わざと手の甲で乱暴に拭いながら、ニッと笑って答えた。
うん、我ながら最低な笑顔だ。
「……司令官のその行動は、JDFの服務規程第3条『品位ある態度』及び第5条『規律の遵守』に明確に違反していますが」
アイリの声に、微かな混乱と、そして隠しきれない非難の色が混じる。
いいぞ、もっと感情を出せ。
「ああ、そうかもしれんな。だが、今日は特別に『不完全の日』なんだ。俺が決めた」
俺は、ウインクでもするようなおどけた調子で言った。
「完璧でなくても、世界はちゃんと回る。むしろ、たまにはこういう方が、飯も美味いし、楽しいかもしれんぞ?」
アイリは何も答えず、ただ、理解不能なものを見るような目で俺を見つめ返してきた。
その青い瞳の奥で、何かが激しく揺れ動いているのが、俺には分かった。
食後、俺たちは例の隔離訓練施設に移動した。
ここでも俺の「不完全さ」アピールは続く。
「よし、今日はまず、この赤いボールを、あそこの青いカゴに、右手だけで5回連続で入れてみろ。ただし、投げる時は必ず『にゃん!』と可愛らしく鳴くこと」
「……司令官。その指示には、いかなる戦術的、及び訓練的有効性も認められません。却下します」
「むぅ、そうか。ならば俺が手本を見せよう! にゃん! ……ありゃ? 外した。にゃん! ……まただ。にゃ、にゃーん!」
俺はわざとボールをあちこちに投げ散らかし、時には派手に転んでみせたり、左右の靴を間違えて履いてきたり、とにかく徹底的に「ダメな上官」を演じきった。
アイリの戸惑いは、刻一刻と増していくのが見て取れた。
その完璧に整えられた眉が、どんどん中央に寄っていく。
「……司令官は、一体、何がしたいのですか!?」
ついに、といった感じで、アイリが俺を問いただしてきた。
その声には、これまで彼女からは聞いたこともないような、明確な感情――苛立ちと、そしてほんの少しの焦燥――が混じっていた。
よし、第二段階クリアだ。
俺は、そこでふざけた態度を改め、真剣な表情で彼女に向き直った。
「君に、見せたいんだ。不完全さの中にだって、価値があるということを」
俺の声に、アイリはハッとしたように目を見開く。
「完璧主義は、確かに強力な武器になる。お前の精密な射撃も、冷静な判断力も、その賜物だろう。だが、それは同時に、お前自身を縛り付ける、重い鎖にもなっているんじゃないか? 時には不完全であることを受け入れ、許容することで、思いもよらなかった新たな可能性が生まれることだってあるんだ」
アイリは、黙って俺の言葉を聞いていた。
その表情は硬く、何かを必死に考え込んでいるようだった。
「……しかし、任務の遂行において、不完全であることは、すなわち死を意味します。それは許容できません」
「その通りだ。戦場ではな。だが、人間として生きることと、兵士として任務を遂行することは、必ずしもイコールじゃない」
俺は彼女に一歩近づき、その揺れる青い瞳を真っ直ぐに見つめた。
「君は、常に完璧な兵士である必要はないんだ。一人の、不完全な人間である白雪アイリでいていい。俺は、そう思っている」
「……私にとって、兵士であることが、人間であること、そのものですから」
アイリは、か細い声で反論した。
だが、その声には、以前のような絶対的な確信は、もう揺らいでいるように聞こえた。
「では、なぜ君は昨日、自室の鏡の前で、笑顔の練習をしていたんだ?」
俺のその言葉に、アイリの身体が凍りついた。
分かりやすいほどに、その完璧なポーカーフェイスが崩れ、動揺の色が浮かび上がる。
「……監視……して、いたのですか……?」
アイリの目に、怒りの火花にも似た、強い光が宿った。
それは、彼女が初めて俺に対して見せた、明確な敵意と言ってもいいかもしれない。
「いいや、違う。昨日の朝、訓練場へ向かう途中で、君の部屋のドアが少しだけ開いているのに気づき、中の様子が偶然見えただけだ。声をかけようかとも思ったが……邪魔をしてはいけない気がしてな」
俺は静かに、事実だけを告げた。
「あれは、兵士としての白雪アイリの行動だったのか? それとも……人間としての、白雪アイリの行動だったんじゃないのか?」
アイリの白い耳が、みるみるうちに真っ赤に染まっていくのが見えた。
恥ずかしさと、怒りと、そして……何か、言葉にできない別の感情が、彼女の中で激しく交錯しているのが、手に取るように分かった。
彼女は、何も答えられなかった。
「……明日は、君の番だ」
俺は、そこでふっと話題を変えた。これ以上追い詰めても逆効果だろう。
「今日一日、俺の『不完全の日』を見てもらったわけだが……明日は君自身に、それを体験してみてほしい。どうだ? やってみる価値はあると思うが」
アイリは、返事をしなかった。
ただ、固く唇を結んだまま、俺から視線を逸らし、訓練施設の出口へと足早に向かっていく。
その背中は、怒っているようにも、怯えているようにも、そして何かから必死に逃げようとしているようにも見えた。
だが、廊下の曲がり角で、彼女の姿が見えなくなる直前。
俺は確かに見た。
彼女が一度立ち止まり、小さく、しかし深く息を吸い込み、そして……ほんのわずかに、自分の胸に手を当てるのを。
まるで、自分でも信じられないような、感情の高ぶりに驚いているかのように。
(……少しは、響いたか)
俺は、誰に言うでもなく、そんなことを呟いていた。
道のりは、まだ遠いかもしれん。
だが、あの鉄壁の氷も、いつかは溶ける日が来る。
そんな気が、少しだけしていた。




