第22話
大規模作戦が開始された日の朝。
アイリは、バニー・フォースの主力メンバーから外され、ハヤトと共に、JDF基地の隅にある隔離訓練施設へと向かっていた。
通常の喧騒から切り離された、やけに静かで、そしてどこか息の詰まるような場所だった。
案内されたのは、カウンセリングルームと訓練施設を足して2で割ったような、奇妙な一室。
大きな窓があり、そこからは、まさに出撃準備を整え、隊列を組んで空へと飛び立っていくバニー・フォースの輸送機と、それを援護する戦闘機部隊の姿が、まるで遠い世界の出来事のように見えた。
あの中に、ミナやカレンもいるのだろう。
「……みんな、無事に帰ってきますように」
アイリの唇から、ほとんど聞き取れないほどかすかな声で、そんな言葉が漏れた。
それは、彼女自身も意識しないうちに、心の奥底から自然と湧き出たものだったのかもしれない。
「ああ、二人なら大丈夫だ。信じて待っていよう」
いつの間にか彼女の隣に立っていたハヤトが、同じように窓の外を見つめながら、静かに言った。
それから、アイリに向き直る。
「さて、『特別訓練』を始めようか」
その声には、いつもの指揮官としての厳しさとは少し違う、何か……得体の知れない、しかし逃れられない圧力を感じさせた。
アイリはハヤトを見返した。
彼の灰色の瞳は、真っ直ぐに彼女を見据えている。
その瞳の奥に、彼女は自分自身の疑念と、そしてほんの少しの恐れが映り込んでいるのを見た。
「……司令官は、私を切り捨てないのですか? 機能不全に陥った、不良品の兵器を」
彼女の言葉は、自然と冷たく、突き放すような響きを帯びていた。
それが、今の彼女が自分を守るための、唯一の方法だったからだ。
「君は兵器じゃない。白雪アイリという、一人の人間だ」
ハヤトは、ただシンプルに、そう答えた。
その言葉の重さが、彼女にはまだ正確には理解できなかった。
その日から始まった「特別訓練」とやらは、彼女のこれまでの戦闘経験とは全く異なる、理解不能なものだった。
ハヤトはそれを「感情解放トレーニング」と名付けたが、内容は、およそ非論理的で、非効率的で、そして何よりも……彼女にとっては不快なものであった。
「まずは基本からだ。今、何を感じている? それをありのまま、言葉にしてみてほしい」
ハヤトは、部屋の中央に置かれたソファにアイリを座らせ、穏やかな口調でそう問いかけてきた。
「……特に何も感じていません。この訓練に対する、任務遂行上の必要性を現時点では認識できていない、という事実を除けば」
アイリは、可能な限り無感情に、そして防衛的に応じた。
「そうか。だが、これも任務だ。君の逆バニースーツの性能を100%……いや、120%引き出すための、最も重要な任務だと私は考えている」
ハヤトは、別の角度からアプローチしてきた。
逆バニースーツの性能。
それは、彼女が唯一、彼の言葉に耳を傾けるだけの理由を与えてくれた。
それから数日間、ハヤトは様々な試みを行った。
ある時は、ぬいぐるみや積み木といった、まるで幼児向けの玩具のようなものを使ったロールプレイ。
「これは君の弟だと思って、優しく話しかけてみろ」
「この積み木で、君が『安心できる場所』を作ってみろ」
……馬鹿げている、としか彼女には思えなかった。
またある時は、大型モニターに、次から次へと脈絡のない映像を映し出した。
子犬や子猫がじゃれ合う愛らしい映像、家族の温かい食卓を描いたドラマの断片、美しい自然風景、そして逆に、デビルズによる無慈悲な破壊の記録映像や、戦場で傷つき倒れる兵士たちの姿……。
時には、ただソファに座り、「今日の気分は、10段階で言うとどれくらいだ?」「最近、何か夢を見たか?」などと、とりとめのない質問を投げかけてくるだけの日もあった。
だが、アイリの反応は、常に同じだった。
「適切です」
「不適切と判断します」
「効率的です」
「それは非効率的な問いです」
彼女の口から出るのは、そんな無機質で、まるでAIの応答のような言葉ばかり。
彼女の心は、分厚い氷の壁で完璧に覆われ、ハヤトのどんな揺さぶりにも、びくともしないはずだった。
そう、彼女自身も、そう信じ込もうとしていた。
訓練の合間、息抜きと称してハヤトが淹れたインスタントコーヒーを飲んでいる時だった。
突然、施設の通信機が起動し、懐かしい、そして今は少しだけ……彼女の胸をざわつかせる声が響いてきた。
『やっほー! アイリちゃーん! 聞こえるー? こちら前線、作戦はちょー順調だよー! でもねー、やっぱりアイリちゃんがいないと、スナイパー支援が手薄で、ちょっとだけ心細いかもー? なんちゃって!』
ミナの声だった。
いつものように底抜けに明るく、そして少しだけ甘えるような響き。
その、あまりにも屈託のない声を聞いた瞬間、アイリの表情筋が、ほんのわずかに、本当にほんのわずかにだが、緩んだのをハヤトは見逃さなかった。
彼女の口角が、ミリ単位で持ち上がったのかもしれない。
「……仲間は、君を必要としている。君が完璧だからではない。君が、白雪アイリだからだ。だからこそ、君が本来の力を発揮できるようになることが、チームにとって最も重要なことなんだ」
ハヤトのその言葉は、不思議と、彼女の心の壁の、ほんの一部分だけを、そっと溶かしていくような気がした。
その夜、割り当てられた隔離施設の自室に戻ったアイリは、JDF支給の簡素な寝間着に着替えた後、洗面台の鏡の前に立った。
そこに映っているのは、相変わらず無表情な、白雪アイリの顔。
冷たく、感情の読めない、まるで能面のような顔。
彼女は、その顔をじっと見つめた。
そして……意識的に、ほんの少しだけ、眉を寄せ、口角を上げてみた。
鏡の中の彼女は、ひどくぎこちない、まるで出来の悪いアンドロイドのような、不自然な笑顔を浮かべていた。
それは、お世辞にも「笑顔」とは呼べない代物だった。
「……これが……『感情』……?」
彼女の唇から、自分でも驚くほど小さな、そして戸惑いに満ちた呟きが漏れた。
その言葉の響きに、彼女は、まるで初めて未知の言語に触れたかのように、大きく瞳を見開いていた。
何かが、彼女の中で、音を立てて変わり始めている。
その予感が、彼女の胸を、これまで感じたことのない、奇妙な感覚で満たしていった。




