表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/37

第22話

 大規模作戦が開始された日の朝。

 アイリは、バニー・フォースの主力メンバーから外され、ハヤトと共に、JDF基地の隅にある隔離訓練施設へと向かっていた。


 通常の喧騒から切り離された、やけに静かで、そしてどこか息の詰まるような場所だった。


 案内されたのは、カウンセリングルームと訓練施設を足して2で割ったような、奇妙な一室。

 大きな窓があり、そこからは、まさに出撃準備を整え、隊列を組んで空へと飛び立っていくバニー・フォースの輸送機と、それを援護する戦闘機部隊の姿が、まるで遠い世界の出来事のように見えた。


 あの中に、ミナやカレンもいるのだろう。


「……みんな、無事に帰ってきますように」

 

 アイリの唇から、ほとんど聞き取れないほどかすかな声で、そんな言葉が漏れた。

 それは、彼女自身も意識しないうちに、心の奥底から自然と湧き出たものだったのかもしれない。


「ああ、二人なら大丈夫だ。信じて待っていよう」


 いつの間にか彼女の隣に立っていたハヤトが、同じように窓の外を見つめながら、静かに言った。

 それから、アイリに向き直る。

 

「さて、『特別訓練』を始めようか」


 その声には、いつもの指揮官としての厳しさとは少し違う、何か……得体の知れない、しかし逃れられない圧力を感じさせた。


 アイリはハヤトを見返した。

 彼の灰色の瞳は、真っ直ぐに彼女を見据えている。


 その瞳の奥に、彼女は自分自身の疑念と、そしてほんの少しの恐れが映り込んでいるのを見た。

 

「……司令官は、私を切り捨てないのですか?  機能不全に陥った、不良品の兵器を」

 

 彼女の言葉は、自然と冷たく、突き放すような響きを帯びていた。

 それが、今の彼女が自分を守るための、唯一の方法だったからだ。

 

「君は兵器じゃない。白雪アイリという、一人の人間だ」


 ハヤトは、ただシンプルに、そう答えた。

 その言葉の重さが、彼女にはまだ正確には理解できなかった。


 その日から始まった「特別訓練」とやらは、彼女のこれまでの戦闘経験とは全く異なる、理解不能なものだった。


 ハヤトはそれを「感情解放トレーニング」と名付けたが、内容は、およそ非論理的で、非効率的で、そして何よりも……彼女にとっては不快なものであった。


「まずは基本からだ。今、何を感じている?  それをありのまま、言葉にしてみてほしい」

 

 ハヤトは、部屋の中央に置かれたソファにアイリを座らせ、穏やかな口調でそう問いかけてきた。

 

「……特に何も感じていません。この訓練に対する、任務遂行上の必要性を現時点では認識できていない、という事実を除けば」


 アイリは、可能な限り無感情に、そして防衛的に応じた。

 

「そうか。だが、これも任務だ。君の逆バニースーツの性能を100%……いや、120%引き出すための、最も重要な任務だと私は考えている」

 

 ハヤトは、別の角度からアプローチしてきた。

 逆バニースーツの性能。

 それは、彼女が唯一、彼の言葉に耳を傾けるだけの理由を与えてくれた。


 それから数日間、ハヤトは様々な試みを行った。


 ある時は、ぬいぐるみや積み木といった、まるで幼児向けの玩具のようなものを使ったロールプレイ。


「これは君の弟だと思って、優しく話しかけてみろ」

「この積み木で、君が『安心できる場所』を作ってみろ」


 ……馬鹿げている、としか彼女には思えなかった。


 またある時は、大型モニターに、次から次へと脈絡のない映像を映し出した。

 子犬や子猫がじゃれ合う愛らしい映像、家族の温かい食卓を描いたドラマの断片、美しい自然風景、そして逆に、デビルズによる無慈悲な破壊の記録映像や、戦場で傷つき倒れる兵士たちの姿……。


 時には、ただソファに座り、「今日の気分は、10段階で言うとどれくらいだ?」「最近、何か夢を見たか?」などと、とりとめのない質問を投げかけてくるだけの日もあった。


 だが、アイリの反応は、常に同じだった。

 

「適切です」

「不適切と判断します」

「効率的です」

「それは非効率的な問いです」


 彼女の口から出るのは、そんな無機質で、まるでAIの応答のような言葉ばかり。

 彼女の心は、分厚い氷の壁で完璧に覆われ、ハヤトのどんな揺さぶりにも、びくともしないはずだった。


 そう、彼女自身も、そう信じ込もうとしていた。


 訓練の合間、息抜きと称してハヤトが淹れたインスタントコーヒーを飲んでいる時だった。

 突然、施設の通信機が起動し、懐かしい、そして今は少しだけ……彼女の胸をざわつかせる声が響いてきた。

 

『やっほー!  アイリちゃーん!  聞こえるー?  こちら前線、作戦はちょー順調だよー!  でもねー、やっぱりアイリちゃんがいないと、スナイパー支援が手薄で、ちょっとだけ心細いかもー?  なんちゃって!』

 

 ミナの声だった。

 いつものように底抜けに明るく、そして少しだけ甘えるような響き。

 

 その、あまりにも屈託のない声を聞いた瞬間、アイリの表情筋が、ほんのわずかに、本当にほんのわずかにだが、緩んだのをハヤトは見逃さなかった。


 彼女の口角が、ミリ単位で持ち上がったのかもしれない。


「……仲間は、君を必要としている。君が完璧だからではない。君が、白雪アイリだからだ。だからこそ、君が本来の力を発揮できるようになることが、チームにとって最も重要なことなんだ」

 

 ハヤトのその言葉は、不思議と、彼女の心の壁の、ほんの一部分だけを、そっと溶かしていくような気がした。


 その夜、割り当てられた隔離施設の自室に戻ったアイリは、JDF支給の簡素な寝間着に着替えた後、洗面台の鏡の前に立った。

 

 そこに映っているのは、相変わらず無表情な、白雪アイリの顔。

 冷たく、感情の読めない、まるで能面のような顔。


 彼女は、その顔をじっと見つめた。


 そして……意識的に、ほんの少しだけ、眉を寄せ、口角を上げてみた。


 鏡の中の彼女は、ひどくぎこちない、まるで出来の悪いアンドロイドのような、不自然な笑顔を浮かべていた。

 それは、お世辞にも「笑顔」とは呼べない代物だった。


「……これが……『感情』……?」


 彼女の唇から、自分でも驚くほど小さな、そして戸惑いに満ちた呟きが漏れた。


 その言葉の響きに、彼女は、まるで初めて未知の言語に触れたかのように、大きく瞳を見開いていた。

 何かが、彼女の中で、音を立てて変わり始めている。


 その予感が、彼女の胸を、これまで感じたことのない、奇妙な感覚で満たしていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ