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第20話

 昨日のアイリの「0.7秒の遅延」と、任務後に見せた微かな動揺。

 それがどうにも気にかかり、俺は翌日、JDF基地内の一角にあるデータ分析室のドアを叩いた。


 この部屋は、バニー・フォース隊員たちのバイタルデータや逆バニースーツの稼働状況を24時間体制でモニタリングし、分析評価を行うための心臓部だ。

 

 室内には無数のサーバーラックが立ち並び、冷却ファンの低い唸りが常に響いている。

 壁一面に設置された大型スクリーンには、複雑なグラフや数値が絶え間なく表示され、部屋全体が青白い光に包まれていた。


「あら、あなたがここに来るなんて珍しいわね。何か気になることでも?」

 

 部屋の主、紫藤マドカ博士は、回転椅子をこちらに向け、白衣のポケットから取り出した怪しげな色の栄養バーを齧りながら言った。

 その口調はいつも通り軽いが、眼鏡の奥の瞳は鋭く、俺の考えを見透かしているかのようだ。


 俺は腕を組み、早速本題を切り出した。

 

「昨日のアイリのデータだが……何か気になる点はあったか?」

「アイリちゃんねぇ……」


 マドカは栄養バーを飲み込むと、手元のコンソールを数回タップした。

 大型スクリーンに表示されていた全隊員の活動ログから、アイリの個人データがピックアップされ、拡大表示される。

 

「丁度私も気になっていたところよ。このデータにちょっと注目してくれないかしら」


 マドカはレーザーポインターで、スクリーンに映し出された波形グラフの一部分を指し示した。

 それは、アイリの逆バニースーツのエネルギー出力と、彼女自身のバイタルサインの変動を示したものだった。


「これは、ここ一ヶ月間の彼女のスーツのエネルギー出力変動グラフ。そしてこっちが、比較対象としてのミナちゃんとカレンちゃんのデータ」

 

 スクリーンには三つの波形グラフが並んで表示された。

 

 ミナとカレンのグラフが、戦闘時と平常時で多少の上下動はあれど、比較的滑らかで安定した曲線を描いているのに対し、アイリのグラフだけは、まるで心電図の異常波形のように、細かく、そして急激なスパイク状の上下動を繰り返していた。

 

 さらに、全体的な傾向として、グラフの平均値がここ数週間で明らかに低下してきているのが見て取れた。


「……これは、確かに異常だな」


 俺は眉を寄せた。


「特にこの急激な出力低下と、回復の遅さは一体なんだ?」

「逆バニースーツは、知っての通り、装着者の感情エネルギーを物理的なパワーに変換する装置よ。平たく言えば、感情の解放度とエネルギー出力は、ほぼ正比例の関係にあるの」


 マドカは眼鏡の位置を指で押し上げながら説明する。

 

「ミナちゃんやカレンちゃんは、良くも悪くも感情表現が豊かで、それがスーツの出力安定に繋がっている。特にミナちゃんは、羞恥心だろうが恐怖心だろうが、感情の振れ幅そのものが大きいから、瞬間的な最大出力はチームでもトップクラスね。カレンちゃんは、常に穏やかで安定した精神状態を保っているから、出力は低いけれど非常に安定しているわ」

 

 そこまで言うと、マドカは再びアイリのデータにポインターを当てた。

 

「問題は、アイリちゃんよ。彼女の場合、極端なまでの感情抑制が、逆にスーツのエネルギー変換プロセスに深刻なノイズを生じさせている。感情を無理やり押さえ込むことで、変換されるべきエネルギーそのものが歪んでしまい、結果として出力不安定と効率低下を引き起こしているの。それだけじゃないわ。この状態は、彼女自身の精神と肉体にも、相当な負荷をかけているはずよ」


「どういうことだ?」


 俺の声に、焦りの色が混じる。

 

「簡単に言えば、彼女の体と心が、内部で常に喧嘩しているような状態なの。押さえ込もうとする意志と、それでも漏れ出そうとする感情エネルギーが衝突し、不協和音を奏でている。その軋轢が、彼女のバイタルにも悪影響を及ぼしているのよ」


 マドカはさらに詳細な生体データを表示させる。

 そこには、アイリの自律神経系の異常な数値や、睡眠の質の低下を示すデータなどが、無慈悲に映し出されていた。

 

「このままでは……彼女の心か身体のどちらかが、あるいは両方が、限界を迎えて壊れてしまってもおかしくないわ」


 マドカの言葉は、データ分析室の冷たい空気に重く響いた。


 その時だった。


 シュッ、という軽い音と共に、データ分析室の自動ドアが開き、当のアイリが入室してきた。

 彼女はいつものように無表情で、その手には数枚の報告書が握られている。


 だが、今日の彼女は、どこか顔色が優れないように見えた。

 目の下にかすかな隈があり、完璧に整えられた銀白色の髪も、心なしか艶を失っているようだ。


「司令官、昨日の作戦行動に関する報告書を提出しに来ました」

 

 アイリは淡々とした口調でそう言うと、俺に報告書を渡す。

 その立ち振る舞いは、寸分の隙もなく完璧だ。


 だが、マドカから聞いたばかりの情報を念頭に置いて彼女の様子を改めて観察すると、その完璧すぎるほどの外面の下に、まるで薄氷を踏むような、危うい何かが隠されているような気がしてならなかった。


 俺は、努めて普段通りの声で問いかけた。

 

「最近の調子はどうだ?  何か変わったことはないか?」

「完璧です。何の問題もありません、司令官」

 

 即答だった。

 一切の迷いも、感情の揺らぎも見せない、完璧な返答。


 ……だが、その「完璧」という言葉が、今の俺には、ひどく空虚で、そして痛々しく聞こえた。


 アイリが一礼して部屋を退出していく。

 その背中を見送りながら、俺は重いため息を禁じ得なかった。

 

 彼女が立ち去った後、マドカ博士が深刻な表情で俺に告げた。

 

「彼女のパーソナルファイルに、いくつか気になる記述があるのを見つけたわ」


 マドカはコンソールを操作し、極めて高度なセキュリティロックが施されたJDFのデータベースにアクセスしていく。

 やがて、スクリーンに表示されたのは、アイリの経歴――その一部は黒塗りで隠されていたが、読み取れる部分だけでも十分に衝撃的な内容だった。

 

 彼女は、幼い頃から軍の特別育成プログラム下に置かれ、あらゆる感情を排除し、ただ命令にのみ忠実に従う「完璧な兵士」として、徹底的な教育と訓練を施されてきたというのだ。

 

 まるで、人間を部品のように扱うかのような、非人道的な育成計画。


「……こんなことが、許されていいのか」


 俺は思わず呟いていた。


「今のJDF上層部がどこまで関与しているかは不明だけど、少なくとも、彼女がそういう特殊な環境で育ってきたのは間違いないわね」


 マドカは静かに言った。


「そして、その『完璧な兵士』という呪縛が、今も彼女を苦しめている。このままでは、彼女は……本当に、壊れてしまうかもしれない」

 

 マドカのその言葉は、まるで宣告のように、俺の胸に重く突き刺さった。

 俺は、ただ重い沈黙で応じることしかできなかった。

 

 窓の外の、どこまでも広がる青空が、今はやけに遠く、そして冷たく感じられた。


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