第19話
都市の喧騒を遥か下に見下ろす、高層ビルの屋上。
吹き抜ける風が、白雪アイリの逆バニースーツの素肌に直接触れ、わずかな抵抗感と温度変化を伝えていた。
不快、とまでは彼女は認識しない。
お世辞にも集中力を高める要素とは言えない、という事実をただデータとして処理するだけだ。
感情が表情に出ることは、まずない。
ただ、彼女の白い耳だけが、その不快指数を示すかのように、ほんの少しだけ、血の気を取り戻したかのように赤みを帯びていた。それもまた、彼女にとっては計測不能な誤差の範囲内ではあったが。
愛用の対デビルズ用狙撃ライフル『スノーウルフ』のバイポッドをコンクリートの床に固定し、最終的な弾道計算を脳内で完了させる。
湿度、風向、風速……全てのパラメータは入力済み。
誤差は0.003%以内に収束している。
問題は、ないはずだった。
『ターゲット、推定5分後にポイント・ガンマへ到達する。準備はいいか?』
ヘッドセットに装着された通信機から、指揮官である真田ハヤトの冷静な声が響く。
アイリはスコープから一度目を離し、感情の乗らない平坦な声で応答した。
「完璧です」
左手首に装着されたバイタルモニターの数値は安定を示している。
心拍数60、血圧120/80、ストレスレベル0.2。
全て正常値。
……少なくとも、機械が計測可能な範囲においては。
再びスコープを覗き込み、ターゲットの予想侵入経路に照準を固定する。
だが、そのレンズの奥、彼女の青い瞳のさらに奥深くで、ほんの微かなノイズのようなものが思考を掠めていた。
前回の作戦――あの、0.2秒の判断遅延。
許容範囲内の誤差ではあった。
だが、白雪アイリという完璧主義者にとっては、その記録に刻まれた、許しがたい染みであった。
それが、まだ彼女の精神を、チリチリと刺激し続けている。
『ねえねえ、アイリちゃん、もしかして緊張してるー? 大丈夫? 深呼吸、深呼吸だよっ!』
突如、橘ミナの底抜けに明るい声が、通信に割り込んできた。
この状況でそのテンションを維持できる彼女の精神構造は、アイリには理解不能な領域だ。
思考の妨げになるノイズ、と彼女は判断した。
「不必要な私語は控えてください、橘ミナ。あなたの過剰な感情発露は、周囲のオペレーションに悪影響を及ぼす可能性があります」
即座に、そして可能な限り感情を排して応じる。
だが、その瞬間、彼女のバイタルモニターの心拍数が、一瞬だけ「62」という数値を表示したのを、彼女自身は見逃さなかった。
……計算外の反応だ。
その時、スコープの視野の端に、予測通りの影が捉えられた。
ターゲット出現。
コウモリのようなシルエットを持ち、複数の赤いセンサーを点滅させながら高速で飛行する、全長1メートルほどの機械生命体――デビルズの小型偵察機『ナイトフライヤー』タイプ。
アイリは呼吸を止め、指先に全神経を集中させ、完璧な狙撃態勢を取る。
風、距離、ターゲットの移動速度、全て計算通り。誤差なし。
――引き金を、引く、まさにその直前。
「!!」
視界の右端に、赤い色が、ふわりと現れた。
赤いワンピース。
小さな手には、頼りなげに風船が握られている。
民間人の、幼い少女。
なぜ、こんな場所に。
母親とはぐれたのだろうか、その少女は、まるで吸い寄せられるように、ターゲットの飛行予測進路の真下へと、ふらふらと歩み出てしまったのだ。
「民間人、射線上に出現。座標デルタ・ツー・セブン」
アイリは冷静に、事実のみを報告した。
だが、その声には、ほんのわずかな、彼女自身も気づかぬほどの緊張が混じっていた。
これは……予測されていなかった事態。
『なにっ!? ターゲットの撃破よりも民間人の安全を最優先だ!』
ハヤトの切羽詰まった声。
当然の指示だ。
だが、アイリの脳内コンピュータは、既に結論を弾き出していた。
遅い。
このタイミングで射撃を中止すれば、ターゲットは確実に少女の上空を通過し、最悪の場合、少女を巻き込んで墜落、あるいは、ターゲットが少女を感知して攻撃行動に移る可能性すら存在する。
かといって、このまま撃てば、破片や衝撃波が少女に被害を及ぼすリスクが、無視できない確率で存在する。
瞬時に数万通りのシミュレーションを脳内で繰り返すが、最適解が見つからない。
論理的思考では、これ以上の解は導き出せない。
必要なのは、感情的な……あるいは直感的な判断?
そんな非論理的なものを、この私が?
一瞬、ほんの一瞬だけ、スノーウルフを握る彼女の白い手が、カタ、と微かに震えた。
これまで経験したことのない、判断の揺らぎ。
完璧であるはずの自分が、迷っている……?
コンマ数秒の葛藤。
それは、彼女にとっては永遠にも感じられる時間だった。
――最終的に、彼女は引き金を引いた。
発射された対デビルズ用徹甲弾は、寸分の狂いもなくナイトフライヤーのコアを貫き、ターゲットは空中で音もなく爆散する。
計算通り、破片は少女から大きく逸れた方向へ飛散した。
「ターゲット排除完了。民間人に被害なし、と予測されます」
アイリは平静を装い、報告する。
だが、彼女の耳は、自分でも自覚できるほど真っ赤に染まっていた。
バイタルモニターの心拍数は、一時的に75まで上昇し、警報音が鳴る寸前だった。
異常値だ。
『……よくやった、民間人に被害はない。そのまま警戒を続行してくれ』
ハヤトの声には、明らかに安堵の色が混じっていた。
任務は完了した。
結果だけを見れば、成功と言えるだろう。
だが、白雪アイリの「完璧な記録」には、また一つ、許容しがたい汚点が加わった。
あの民間人の少女の出現から、射撃実行まで、0.7秒。
前回の0.2秒を遥かに上回る、致命的な遅延。
高層ビルの屋上から、帰投準備をしながら見下ろす都市の風景は、いつもと同じはずなのに、どこか歪んで見える。
彼女の内面では、計算外の事態に、そしてそれに完璧に対応できなかった自分自身に対する、激しい自己嫌悪の嵐が、音もなく吹き荒れていた。
完璧でなければ、私に価値はない。
その強迫観念が、また一段と、彼女の心を冷たく締め付けていくのを、彼女はただ静かに感じていた。




