第14話
ミナの魂の叫びが、薄暗い部屋の淀んだ空気に溶けて消えていく。
俺は、しばし言葉もなく立ち尽くしていた。
彼女のあまりにも痛切な告白は、まるで鈍器で殴られたかのような衝撃を俺の胸にもたらした。
太陽のような笑顔の裏に、これほどの闇と孤独を隠していたというのか。
俺は、指揮官でありながら、部下のそんな悲痛なサインにすら気づけなかったというのか。
不甲斐なさと、そして……不思議なほどの既視感が、俺の心を同時に揺さぶっていた。
やがて、俺は静かに口を開いた。
声が、自分でも驚くほどかすれていた。
「……お前が、なぜそこまで無謀なまでに前に出ようとしていたのか……なぜ、常に笑顔を絶やさないようにしていたのか……その理由が、少し、分かった気がする」
俺は、ミナから視線を外し、固く閉ざされたカーテンの隙間からかろうじて見える、窓の外の闇に目を向けた。
夕日は完全に沈みきり、基地の灯りすら届かないこの部屋は、まるで世界の底に取り残されたかのように、深い夜の闇に支配され始めていた。
この暗さが、今の俺たちの心の色なのかもしれない。
「必要とされたい……か。その気持ちは……ああ、痛いほど分かる」
吐き出した言葉には、自分でも驚くほど、普段は押し殺しているはずの感情が滲んでいた。
それは、苦々しさであり、共感であり、そして……遠い過去の自分自身への、やり場のない怒りのようなものだった。
俺は再びミナに向き直り、ゆっくりと、まるで自分自身に言い聞かせるかのように、話し始めた。
こんな話をするのは、一体いつ以来だろうか。
いや、誰かにこんな内面を吐露すること自体、初めてなのかもしれない。
「俺も……ずっと怖かったんだ、橘」
ミナが、涙で濡れた顔をゆっくりと上げた。
その琥珀色の瞳が、驚きと戸惑いの色を浮かべて、俺をじっと見つめている。
「……俺の両親は、デビルズに殺された。まだ、俺が本当に幼い頃だ。目の前で、いとも簡単に……。あの時の無力感と絶望、そして何よりも強烈な恐怖は、今でも鮮明に覚えている」
声が、震えそうになるのを必死でこらえる。
「あの日からずっとだ。二度と誰も失いたくない。自分の手の届く範囲にいる人間を、今度こそ守りきれなかったらどうしようという、言いようのない恐怖。それが、常に俺の心の奥底にこびりついて離れない」
俺は、無意識のうちに強く拳を握りしめていた。
爪が食い込みそうなほどの力で。
「だから……俺は、『完璧な軍人』という仮面を被ることにしたんだ」
ミナの瞳が、さらに大きく見開かれるのが分かった。
「感情を殺し、弱さを見せず、常に冷静沈着で、いかなる状況でも最適な判断を下せる、鉄の司令官。部下にも、上官にも、そして何よりも自分自身にも、そうあることを強いてきた。それが、俺が自分自身と、そしていつか守るべき誰かを守るための、唯一の方法だと……本気で、そう信じていたんだ」
ミナは、もう泣いてはいなかった。
ただ、食い入るように俺の顔を見つめ、俺の言葉の一言一句を聞き漏らすまいとしているかのように、真剣な表情を浮かべていた。
その瞳の奥に、ほんのかすかな、共感にも似た光が揺らめいているように見えたのは、俺の気のせいだろうか。
俺は、ふっと自嘲気味な笑みを漏らした。
「だが……結局のところ、それも虚像だったのかもしれんな。お前と同じだ、橘。恐怖から目を逸らし、自分を守るための……ただの、見苦しい強がりに過ぎなかったのかもしれない」
初めて部下に見せた、俺自身の弱さ。
その言葉が、この重苦しい部屋の闇に吸い込まれていく。
ミナの心に、今、何が響いているのだろうか。
俺のこの告白が、彼女にとって、そして俺自身にとって、一体どんな意味を持つことになるのか。
それはまだ、誰にも分からない。
だが、何かが、ほんの少しだけ、変わり始めている。
そんな予感が、俺の胸を締め付けていた。
◇
俺の、おそらく生まれて初めて他人に晒したであろう弱音と後悔の入り混じった告白。
それを聞いた橘ミナは、大きく見開かれた琥珀色の瞳で、しばし俺の顔を凝視していた。
その瞳は、驚きと、信じられないという戸惑いと、そして……ほんのわずかな、何かを理解したかのような色を複雑に映し出していた。
「……し、司令官も……怖かった……んですか……? その……ずっと……?」
ようやく絞り出したような彼女の声は、まだ少し震えていたが、先程までの絶望的な響きは消えていた。
俺は、静かに頷いた。
嘘も誤魔化しも、今のこの状況では何の意味もなさない。
「ああ。今でも、怖いさ。部下を死なせること、守るべきものを自分の手で守りきれないこと……その恐怖とは、おそらく俺が軍服を脱ぐ日まで、毎日戦い続けることになるだろう」
それは、紛れもない本心だった。
その言葉を聞いたミナの瞳から、再び涙が静かに流れ落ちた。
だが、それは先程までの、心をえぐるような激しい嗚咽とは明らかに違っていた。
まるで、凍てついていた何かが、そっと溶け出すかのように、穏やかで、どこか温かい涙だった。
彼女の強張っていた肩の力が、ふっと抜けるのが分かった。
「……そっか……。司令官も……同じ、だったんですね……」
ミナは、小さく、本当に小さく微笑んだ。
それは、俺が今まで一度も見たことのない種類の笑顔だった。
訓練中に見せる太陽のような、しかしどこか無理をしているような笑顔でも、査問会で見せた痛々しい自嘲の笑みでもない。
ほんの少しだけ寂しげで、でも、心の底から湧き出てきたような、優しくて、温かい……本当の笑顔。
まるで、分厚い仮面の下から、ようやく素顔が覗いたかのような、そんな印象だった。
その、あまりにも不意打ちで、あまりにも無防備な笑顔を見て、俺の口元も、ほんのわずかだが、自然と緩んだような気がした。
「……ああ。そう、かもしれんな」
俺は、それだけを答えるのが精一杯だった。
部屋には、しばしの沈黙が流れた。
だが、それは決して気まずいものではなかった。
むしろ、互いの剥き出しになった心の痛みを、言葉もなく理解し合い、そっと共有しているかのような、不思議なほど穏やかで、満たされた沈黙だった。
窓の外の夜の静けさが、部屋の中まで染み込んでくるようだ。
さっきまで感じていた淀んだ空気も、いつの間にか少しだけ澄んでいるように感じられた。
やがて、ミナが顔を上げた。
涙の跡が残る頬のまま、彼女は俺の目を真っ直ぐに見つめてきた。
その瞳には、もう先程までの絶望の色はなく、代わりに、雨上がりの虹のような、かすかな光が宿っていた。
「私たちって……なんだか、似てますね、司令官」
彼女は、ふふっ、と小さく息を漏らすように笑った。
その言葉を、俺は否定しなかった。
いや、できなかった。
彼女の言葉は、的確に俺たちの本質を射抜いていたからだ。
俺はただ、静かに、彼女のその言葉を受け止めた。
それで十分な気がした。
完璧ではない人間同士。
弱さを抱え、それでも必死にもがいている、ただの人間同士。
そんな当たり前の事実に、俺たちは今、ようやく気づけたのかもしれない。
夜の静寂が、俺たち二人を優しく包み込んでいる。
この瞬間、俺と橘ミナの間には、上官と部下という関係を超えた、何か確かな絆のようなものが生まれたような気がした。
それはまだ、とても脆く、形のないものかもしれない。
だが、ミナの表情に灯った、あの消え入りそうなほどにかすかな希望の光は、きっと、本物だ。
そして、その光を、俺は……守りたいと、強く思った。
◇
翌朝、俺は始業時刻よりずいぶんと早く目が覚めてしまった。
昨夜の橘ミナとの一件が、どうにも頭から離れなかったからだ。
彼女のあの涙と、そして最後に見た、ほんのわずかな希望の光。
あれは本物だったのか、それとも……。
気付けば、俺の足は自然とバニー・フォース専用訓練場へと向かっていた。
まだ昇り始めたばかりの朝日が、巨大なドーム型訓練場の天窓から斜めに差し込み、床の一部を淡い金色に染めている。ひんやりとした早朝の空気が心地よい。
訓練場には、まだ誰もいないはずだった。
だが、その中央で、黙々と動く小さな影があった。
見間違えるはずもない。
オレンジ色の髪をポニーテールにした――いや、今は下ろしているのか、肩のあたりでサラサラと揺れている――橘ミナだった。
彼女は逆バニースーツではなく、JDF支給のシンプルなグレーのトレーニングウェアに身を包み、まるで儀式のように、一つ一つの動作を確かめるように、体幹を鍛える地味なエクササイズや、俊敏性を高めるためのステップワークを繰り返していた。
そこに、以前のような派手さや、誰かにアピールするような無駄な動きは一切なかった。
ただひたすらに、自分の身体と向き合い、感覚を研ぎ澄まそうとしているかのような、静かで、しかし強い集中力が感じられた。
その顔つきも、いつもの底抜けな明るさとは違う。
どこか吹っ切れたような、それでいて深く物事を見据えているような、落ち着いた決意に満ちた表情をしていた。
俺が近づいていくのに気づいたのだろう、ミナがふっと動きを止め、こちらを向いた。
朝日を背にした彼女のシルエットは、なぜだかいつもより少しだけ、大きく見えた。
「あ……司令官。おはようございます」
ミナは少し驚いたような顔をしたが、すぐに駆け寄ってきた。
その頬はうっすらと汗で濡れていて、少しだけ息が上がっている。
「昨日は……その、色々……すみませんでした。弱いところ、見せちゃって……」
そう言って、彼女は少し照れたように、ぽりぽりと頭をかいた。
その仕草は、年相応の少女らしく、どこか微笑ましい。
「気にするな」
俺は短く、できるだけ普段通りの声で答えた。
「誰にだって、そういう時はある」
実際、俺自身がそうだったのだから、何も言える立場ではない。
ミナは、ふぅ、と一つ小さな深呼吸をした。
そして、まるで自分自身に言い聞かせるように、しかし真っ直ぐに俺の目を見据えて、はっきりとした声で言った。
「私、決めました」
その声には、もう昨夜のような震えはなかった。
「もう、隠しません。怖いものは怖いし、自信がないのも本当です。でも……それでも、私は戦いたい。バニー・フォースの一員として、司令官や、アイリちゃんや、カレンちゃんと一緒に。だから……本当の私で、戦います」
その言葉一つ一つに、揺るぎない意志が込められていた。
まるで、生まれ変わったかのような、清々しいほどの決意。
俺は、ミナのその力強い琥珀色の瞳をじっと見つめ返した。
そこにはもう、恐怖に怯える臆病な少女の姿はなかった。
あるのは、自分の弱さを受け入れた上で、それでも前に進もうとする、一人の戦士の覚悟だけだ。
俺は静かに頷いた。
言葉は、多くは必要なかった。
「……ああ。お前の本当の戦いは、きっとこれからだ、橘」
朝日が、訓練場の床に反射し、ミナの全身を柔らかく照らし出している。
その光の中で立つ彼女の姿は、以前よりもずっと強く、そして……不思議なほどに、美しく見えた。
俺は、彼女のその確かな成長を、この胸に強く刻み込んだ。
バニー・フォースは、そして橘ミナは、ここから本当に変わるのかもしれない。
そんな確信にも似た予感が、朝の清々しい空気と共に、俺の心を満たしていくのだった。




