第13話
二度目のノックの後、数秒の沈黙。
諦めて立ち去ろうかと思った矢先、ドアの向こうから、くぐもった、聞き慣れないほど弱々しい声が聞こえてきた。
『……だれ……ですか……?』
「俺だ。真田だ」
さらに数秒。
何かを迷っているような、あるいは、返事をする気力すら失っているような間があった後、
『……ドア……ロック、してません……から……』
と、蚊の鳴くような声が返ってきた。
俺はゆっくりとドアノブを回し、重い金属製のドアを押し開けた。
途端に、淀んだ、生暖かい空気が俺の顔を撫でた。
換気を怠っているのだろう、部屋の中は薄暗く、カーテンも固く閉め切られていて、まるで時間が止まってしまったかのような閉塞感に満ちている。
ここは本当に、あの太陽みたいに明るい橘ミナの部屋なのか?
目を凝らすと、部屋の奥、簡素なベッドの端に、小さな影がうずくまっているのが見えた。
間違いなく、ミナだ。
彼女は、背中を丸め、力なくベッドに腰掛けていた。
艶やかだったはずのオレンジ色のツインテールは、今は解かれることもなく、ぐったりと肩にかかっている。
顔は俯いていて、その表情は長い前髪に隠れて読み取れない。
「橘、入るぞ」
俺は努めて普段通りの声でそう告げ、一歩、部屋の中に足を踏み入れた。
革靴の踵が、硬い床をコツリと叩く音が、やけに大きく響いた気がした。
俺の気配に気づいたのだろう、ミナがゆっくりと顔を上げた。
その瞬間、俺は思わず息を呑みそうになった。
そこにいたのは、俺の知っている橘ミナではなかったからだ。
琥珀色の瞳は光を失い、目の下には深い隈が刻まれ、頬はこけている。
そして何より、その唇に浮かんでいたのは――笑顔だった。
だがそれは、あまりにも力なく、歪で、見ているこちらの胸が締め付けられるような、自嘲に満ちた痛々しい笑顔だった。
「……ふふっ」
乾いた笑い声が、彼女の唇から漏れた。
「し、司令官……わざわざ、こんな……役立たずの私の部屋まで……お越しくださったんですねぇ……? 何か……ご用ですか……?」
その声には、明らかに棘があった。
普段の彼女からは想像もつかないような、冷たく、投げやりな響き。
まるで、自分自身を傷つけることで、何かから必死に守ろうとしているかのように。
俺は、ミナの正面に数歩進み、彼女の前に立った。
どう声をかけるべきか、正直迷った。
だが、ここで当たり障りのない慰めの言葉をかけたところで、今の彼女には届かないだろう。
「任務の件は、もう気にするな。誰にでも失敗はある。重要なのは、その失敗から何を学び、次にどう活かすかだ」
俺は、指揮官として、上官として、最も「正論」と思われる言葉を選んだ。
努めて事務的な、感情を排した口調で。
それが、今の俺にできる最大限の配慮のつもりだった。
だが、その言葉は、最悪の形で彼女の心の琴線に触れてしまったらしい。
俺の言葉を聞いた瞬間、ミナの表情が凍りついた。
無理に浮かべていた自嘲の笑みが消え、代わりに、信じられないものを見るような、絶望と、そしてほんの少しの怒りが混じったような複雑な色が、彼女の瞳に宿った。
「……次……?」
ミナの声が、震えた。
「次なんて……あるんですか……? 私みたいな……もう……お荷物だって、みんなにバレちゃった人間に……そんなもの、あるわけないじゃないですか……!」
次の瞬間だった。
ミナの大きな瞳から、堰を切ったように、大粒の涙がぽろぽろと溢れ落ち始めた。それは、まるでダムが決壊したかのような、止めどない涙だった。
俺は、ただ言葉を失い、その場に立ち尽くすしかなかった。
俺の言葉が、最後の引き金になったのだろう。
それまでか細い糸一本でかろうじて繋ぎ止められていた何かが、プツリと切れたように、ミナの瞳から涙が止めどなく溢れ出した。それはもう、嗚咽というよりは、魂そのものが泣き叫んでいるかのような、悲痛な響きを伴っていた。
「う……うわあああああん……!」
ミナは小さな子供のように声を上げて泣きじゃくりながら、ベッドの上で膝を抱え、その間に顔をうずめてしまった。
訓練服に包まれた背中が、小刻みに、そして激しく震えている。
「私……わたし……ずっと、ずっと……怖かったんです……っ!」
絞り出すような、途切れ途切れの声。
「本当は……デビルズも、戦うのも……死んじゃうかもしれないのも……ぜ、全部……怖い……! でも……怖いなんて、言えなかった……! ぜったいに、言っちゃダメだって……!」
部屋の淀んだ空気が、彼女の絶望でさらに重く、息苦しくなっていくのを感じた。
俺は、ただ黙って、その言葉にならない叫びに耳を傾けることしかできない。
どんな慰めの言葉も、今の彼女には届かないだろう。
それどころか、かえって彼女を傷つけるだけかもしれない。
「弱音なんて吐いたら……ダメな子だって、思われたら……っ! そしたら、みんな……みんな私を、見捨てるから……! 必要と、されなくなっちゃうから……!」
顔を上げたミナの瞳は、涙と絶望でぐしゃぐしゃだった。
「お荷物だって……また、昔みたいに……言われるんだ……! それだけは……それだけは、イヤだったの……!」
(お荷物……?)
その言葉が、俺の胸に重く突き刺さった。
ミナは、さらに声を詰まらせながら、まるで悪夢を追体験するかのように、幼い頃の記憶を語り始めた。
「……うちは、パパもママも、すごく優秀だった。だから……出来の悪い私は、いつも……『ミナはトロいね』『本当に手のかかる子』『うちのお荷物だ』って……言われ、て……」
ひっく、ひっくとしゃくりあげながら、彼女は言葉を続ける。
「だから、私は頑張った……! 運動も、勉強も、誰よりも……誰よりも頑張って、『できる子』になろうとした……! 『役に立つ子』だって、思われたかった……! そしたら、きっと……きっと、パパもママも、私のこと、見てくれる……褒めてくれる……見捨てないでいてくれるって……!」
それは、あまりにも痛々しい告白だった。
彼女のあの底抜けの明るさも、無謀なまでの積極性も、その全てが、たった一つの「見捨てられたくない」という切実な願いから来ていたというのか。
「だから……だから、笑顔でいなきゃって……! いつも元気なフリをしなきゃって……! そしたら、司令官も、アイリちゃんも、カレンちゃんも……みんな、私のこと必要としてくれる……私の居場所が、ここにあるって……そう、思ってたのに……!」
そこまで言うと、ミナは再び激しく泣きじゃくり、言葉を続けることができなくなったようだった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
ようやく少しだけ嗚咽が収まったミナは、涙で濡れた顔をゆっくりと上げ、虚ろな目で俺を見つめた。
「……でも、もう……もうダメみたい……。私、やっぱり……役立たず、なんだ……。みんなの、お荷物、なんだ……」
その表情には、もはや何の感情も浮かんでいなかった。あるのはただ、底なしの絶望だけ。
まるで、魂が抜け落ちてしまった人形のようだ。
俺の知っている、あの太陽のような橘ミナの姿は、そこにはどこにもなかった。
俺は、彼女のその悲痛な告白と、魂の抜け殻のような姿を前にして、ただ立ち尽くす。
彼女の心の奥底にこれほどの闇が潜んでいたとは、想像すらしていなかった。
いや、薄々気づいていたのかもしれない。
彼女の不自然なまでの明るさの裏にある、何かを。
だが俺は、それを見て見ぬフリをしてきただけだ。
指揮官として、部下の内面にもっと早く踏み込むべきだったのかもしれない。
俺の表情に、何か変化があったのだろうか。
ミナの虚ろだった瞳が、ほんの少しだけ、揺れたような気がした。
それは、もしかしたら、ほんの僅かな、救いを求める光だったのかもしれない。




