第12話
あの忌々しい査問会から数日が経過した。
だが、橘ミナの心の傷は、俺が思っていた以上に深いようだった。
バニー・フォース専用訓練場。
今日も今日とて、俺は隊員たちの訓練を監督しているわけだが……。
ドシャッ! という鈍い音と共に、ミナが基本的な障害物回避訓練で、いとも簡単にバランスを崩してマットに倒れ込んだ。
これで今日、何度目だろうか。
以前の彼女なら、軽々と飛び越えていたはずの低いハードルだ。
「すみません……司令官。ちょっと、今日は……体調が悪くて……」
ミナは力なく起き上がり、額の汗を拭うふりをして俯いた。
その声には覇気がなく、無理に作った笑顔は痛々しいほどに引きつっている。
顔色も、数日前からずっと優れないままだ。
◇
休憩時間。
訓練場の片隅で一人、壁に寄りかかって項垂れているミナに、そっと近づく影があった。
早乙女カレンだ。
彼女の手には、特製の水筒が握られていた。
「ミナちゃん、本当に大丈夫? 無理してない? あのね、これ、私が作った特製栄養ドリンクなの。よかったら、飲んでみて?」
カレンが差し出した水筒からは、ほんのり甘酸っぱい、優しい香りが漂ってくる。
中身はきっと、見た目も可愛らしいピンク色をしているのだろう。
ミナは一瞬、カレンの顔を見て、何かを言いかけた。
その琥珀色の瞳が揺れ、助けを求めるような光が宿ったように見えた。
だが、それも束の間。
彼女はすぐに首を弱々しく横に振り、また無理に笑顔を貼り付けた。
「ううん、大丈夫だよ、カレンちゃん。いつもありがとうね。でも……心配しないで」
その言葉は、明らかに本心ではなかった。
誰の目にも、ミナが深刻なスランプ――いや、それ以上の何かを抱えていることは明らかだった。
カレンはそれ以上何も言えず、ただ心配そうにミナの顔を見つめている。
優しい彼女のことだ、きっと胸を痛めているのだろう。
◇
訓練終了後、俺は自分の執務室で報告書の山と格闘していた。
司令室とは別に与えられたこの部屋は、手狭だが外部の喧騒から隔離されていて、一人で思考を巡らせるには都合がいい。
コンコン、と控えめなノックの音。
「司令官、失礼します」
入ってきたのは、白雪アイリだった。
彼女の銀白色の長髪が、部屋の簡素な照明を反射してキラリと光る。
「橘ミナの件です」
アイリは開口一番、本題を切り出した。
その声はいつも通り冷静だが、どこか普段よりも硬い響きを含んでいる。
「データ上、彼女の戦闘能力は平常時の40%以下にまで低下しています。反応速度、判断力、エネルギー変換効率、全ての数値において著しい悪化が見られます。このまま放置すれば、次の実戦任務において、彼女自身のみならず、部隊全体が致命的な危険に晒される可能性が極めて高いと判断します。司令官として、何らかの具体的な対策を講じるべきです」
彼女の青い瞳が、真っ直ぐに俺を見据えている。
その視線は、まるで全てを見透かしているかのようだ。
俺は回る椅子を窓の方へ向け、夕焼けに染まるJDF基地の広大な敷地を見下ろした。
燃えるような茜色の空の下、訓練を終えた隊員たちが三々五々、宿舎エリアへと帰っていくのが見える。
その中に、ひときわ小さく、力なく歩くオレンジ色の後ろ姿があった。
橘ミナだ。
他の隊員たちと会話を交わすでもなく、一人、夕闇に溶け込むように消えていく。
「……分かっている」
俺は短く答えた。
アイリの言うことはもっともだ。
指揮官として、部下の不調を見過ごすことはできない。
だが、どうすればいい?
あの査問会でのミナの姿、そして今日の訓練での様子……彼女が抱える問題は、単なる技術的なスランプや体調不良などではない。
もっと根深い、心の奥底の問題だ。
(橘……お前は一体、何をそんなに抱え込んでいるんだ……? 俺にできることは、何かあるのか……?)
夕焼けの最後の残光が、執務室の壁を赤黒く染め上げる。
俺は、意を決した。
このままでは、ミナは本当に壊れてしまうかもしれない。
そして、それはバニー・フォースという、このイカれた寄せ集め部隊の崩壊にも繋がりかねない。
やるしかない、か。
たとえそれが、俺の最も苦手とすることだとしても。
俺は立ち上がり、制服の襟を正した。
◇
夕闇が完全に基地を覆い尽くそうとする頃、俺は橘ミナの住む部屋のドアの前に立っていた。
深呼吸を一つ。
コン、コン。
ドアをノックする乾いた音が、夕食時を過ぎて静まり返った廊下に、やけに大きく響いた。
返事はない。
だが、俺はもう一度、今度は少し強く、ドアを叩いた。
中から、何か物音が聞こえたような気がした。




