第10話
時刻は深夜2時を回ったところか。
メインモニターに映し出されるのは、月明かりだけが頼りの薄暗い森林エリアの映像だ。
これは、橘ミナの逆バニースーツに搭載された広角暗視カメラからのライブフィード。
木々の葉が風に擦れる音、遠くで鳴く夜行性の虫の声、そしてミナ自身の、緊張を隠しきれない浅い呼吸音だけが、司令室のスピーカーから微かに聞こえてくる。
「……」
モニターの中のミナは、オレンジ色のアクセントが闇に溶け込みそうな逆バニースーツ姿で、周囲を警戒してゆっくりと巡回している。
その顔に、昼間の訓練で見せたような能天気な笑顔は一切ない。
うさ耳型のヘッドセットがぴくりと動くたび、彼女の緊張がこちらにも伝わってくるようだ。
……当たり前か。こんな深夜に、たった一人で(他のメンバーは別のポイントを警戒している)正体不明の敵を待ち構えているのだからな。
俺は司令室の自席から、マイクのスイッチを入れた。
「橘、状況に変化は?」
努めて平静を装った俺の声に、ミナの肩がわずかに跳ねたのが分かった。
『……い、異常ありません、司令官。……私が、私がちゃんとやらなきゃ……みんなに迷惑かけちゃ……ダメだから……』
スピーカーから返ってきたミナの声は、いつものハリがなく、明らかに震えていた。
自分に言い聞かせているのか、それとも俺に訴えかけているのか。
その言葉の端々から、彼女が抱えるプレッシャーの重さが滲み出ている。
おいおい、大丈夫か、橘。
さらに続く彼女の独り言は、ほとんど吐息に近い。
その言葉は、まるで心の奥底から絞り出されたような、痛々しい響きを伴っていた。
俺が何か声をかけようとした、まさにその瞬間だった。
ザザザッ!
ミナの背後、月光も届かない深い茂みが、何の前触れもなく激しく揺れた。
次の瞬間、闇の中から黒曜石のような甲殻に覆われた異形の影が、音もなく複数体躍り出た!
全長2メートルはあろうかという狼に似たシルエットだが、顔には昆虫じみた複眼が不気味な光を湛え、多関節のしなやかな四肢の先端には、剃刀のように鋭利な爪が月光を反射している。
中級デビルズ、『ナイトクローラー』タイプだ!
モニターの中のミナが息を呑むのが分かった。
完全に意表を突かれたのだろう、その反応が一瞬、コンマ数秒だけ遅れた。
致命的な遅れだった。
一匹のナイトクローラーが、ミナの肩口目掛けて、その凶悪な爪を振り下ろす!
ギャリィィン!
鈍い金属音と共に、火花が散った。
スーツの表面に辛うじて展開されていた薄いエネルギーフィールドが、デビルズの爪を防ぎきれなかった証拠だ。
『しまっ……!』
ミナは即座に反撃態勢を取ろうとするが、その身体は次の瞬間、まるで金縛りにあったかのように硬直した。
『 私が失敗したらまた、みんなが、私を……!』
モニターに大写しになったミナの琥珀色の瞳は、かつて見たことのないほどの恐怖に見開かれ、ただ目の前のデビルズの凶悪な姿を映すばかり。
逆バニースーツのエネルギー変換効率が、恐怖によって著しく低下しているのが、スーツ各所の発光パターンの弱々しさから見て取れた。
「橘! 応答しろ! 橘!」
俺はマイクに向かって怒鳴ったが、ミナからの応答はない。
まずい!
もう一体のナイトクローラーが、硬直したミナにトドメを刺さんとばかりに、その鋭い爪を振りかぶった――その刹那!
ドォォォンッ!!
凄まじい衝撃音と共に、夜空を切り裂く一条の閃光がミナの背後から現れた。
俺が緊急遠隔操作で起動させた、指揮官用緊急展開ユニット『ナイトホーク』だ。
軽量合金製の黒い機体が、背部の高出力スラスターを最大噴射させ、ミナとデビルズの間に強引に割り込む。
「馬鹿者! なぜ動かん!」
ナイトホークの右腕に装備されたパイルバンカーが、デビルズの振り下ろされた爪をギリギリで受け止め、火花を散らす。
その衝撃でミナを突き飛ばし、危険な位置から退避させた。
だが、その一瞬の隙を突かれた。
「なにっ!?」
ナイトクローラーの群れの中から、一際俊敏な動きを見せる個体が、ナイトホークの迎撃をすり抜け、一直線に試験施設のある方向へ――!
ドガァァァァン!!
やや離れた位置にある試験施設の一部が、けたたましい爆発音と共に夜空を赤く染め上げた。
同時に、俺の司令室のコンソールと、ミナのスーツのHUDにも、耳障りなアラート音が鳴り響き、赤い警告灯が激しく点滅を始めた。
『警告! 警告! 感情増幅装置格納コンテナ、外部より強行破壊! 装置への深刻なダメージを確認!』
無機質な合成音声が、最悪の事態を告げていた。
地面にへたり込んだままのミナは、その爆炎と警告灯の明滅を、ただ呆然と見つめている。
その瞳からは、既に光が失われていた。
俺はナイトホークを操り、残りのデビルズを小型レーザーガンで牽制しつつ、忌々しげに吐き捨てた。
「クソッ……! 装置が……やられたか……!」
ミナは、声も出せずに、ただカタカタと震えているだけだった。
その姿は、もはや「バニー・フォース最強の前衛戦士」の面影など、どこにもなかった。




