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歌姫さんに仕事手伝ってもらった

朝もやがレンの村を包む中、俺は果樹園のアルジェリンの木の下に立っていた。朝露に濡れた葉が朝日に輝き、手のひらほどもある大きな実が枝に揺れている。隣には、エリルがいた。昨夜の夏祭りでの出会いから一夜明け、彼女は「農作業を手伝いたい」と言い出して、ここまでついてきた。


「これが、アルジェリンの木ですか?」


エリルが実を見上げて呟いた。その声に、俺は梯子を木のそばに立て掛けながら答えた。


「ああ、村の特産品なんだ。この実から香り高い精油を採るんだよ。実は、俺の名前の由来でもあるんだ」


彼女の視線が俺に注がれる。俺は少し照れながら説明を続けた。


「両親が俺のために品種改良を重ねて作り出した柑橘なんだ。丈夫で、甘い香りの実をつける木に育つようにって想いを込めて。だから、この木は俺にとって特別なんだ」


エリルは目を丸くして、感動したように息を飲んだ。その表情には、何か懐かしさを感じているような色が混じっている気がした。


「ご両親の愛情が詰まった木なんですね……」


「品質がよくてね、毎年王室にも献上品として出してるんだ。村の誇りでもあるよ」


俺が誇らしげに語ると、エリルは柔らかな微笑みを浮かべた。吟遊詩人にしては意外なほど素朴な反応で、昨夜の湖畔での魅惑的な雰囲気とはまた違った一面が見えた。彼女が「手伝わせてください」と強く主張したのも、こういう暮らしに憧れがあるからなのかもしれない。


「私、引退したら、こういう暮らしがしたいんです」


エリルが作業を見守る真剣な眼差しでそう言った時、俺は少し驚いて聞き返した。


「引退、ですか?」


「ええ。旅を続けるのも悪くないけれど……こうして実のなる木々に囲まれて、大切な人と暮らす。それって、すごく幸せな気持ちになれると思うんです」


その言葉に、俺は何か懐かしいような、温かいような感覚を覚えた。エリルの横顔が朝日に照らされて柔らかく見えて、胸が少し締め付けられる。彼女の言う「大切な人」が誰を指すのか、考えそうになって慌てて目を逸らした。


「エルさんは……いつも兄妹仲がいいんですね」


突然、エリルが話題を変えた。俺は自然に答えた。


「ああ、幼い頃から一緒だからな」


「でも……それは、永遠には続かないかもしれませんね」


「え?」


「いえ……兄妹は、いつか別々の道を歩むものですから」


エリルの言葉に、俺は何か引っかかるものを感じた。彼女の瞳に、ほんの一瞬、意図的な光が宿った気がした。昨夜のプロポーズを思い出し、背筋が少し寒くなる。でも、考える間もなく、エリルが梯子を指さして言った。


「じゃあ、あの枝の実を採ってみますね」


彼女が梯子を上り始めた。優雅で、まるで舞うように軽やかな仕草だ。だが、足場の悪い場所に手を伸ばそうとした瞬間、バランスを崩して梯子が揺れた。


「危ない!」


咄嗟に手を伸ばすと、エリルが梯子から落ちて俺にぶつかってきた。彼女の体が俺の胸に倒れ込み、俺は反射的に両腕で支えた。一瞬、抱き合っているような形になって、甘い香りが鼻をくすぐる。アルジェリンの香りとは違う、彼女自身の匂いだった。


「ご、ごめんなさい……!」


エリルの声が震えていた。近くで見る彼女の横顔が妙に色っぽくて、俺は慌てて目を逸らそうとした。


「大丈夫か? 怪我はないか?」


「だ、大丈夫です……ただ……」


彼女の耳まで赤くなっていて、俺の心臓がドクドク鳴る。その時、果樹園の入り口から聞き慣れた声が響いた。


「兄さーん! お昼ごはんできたよー!」


エルの声だった。俺が振り返ると、エルがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。彼女の笑顔が一瞬凍りつき、目が大きく見開かれる。俺とエリルが絡み合うように見えたんだろう。エルの手が握り潰され、りんご飴の袋が地面に落ちた。彼女の瞳に、嫉妬の色が濃く滲んだ。


「エル、待て、これは……」


俺が慌ててエリルから手を離すと、彼女は梯子から降りて立ち直った。エリルは小さく咳払いして、平静を装うように言った。


「エルさん……ですね。私、ちょっと失礼しました」


エルの視線が俺とエリルを交互に見て、唇が微かに震えた。彼女は無理に笑顔を作り、低い声で呟いた。


「兄さん、お昼できたから……早く来てね。私、先に戻ってる」


その声に、普段の明るさがなくて、俺の胸が締め付けられた。エルの瞳に嫉妬の影が残り、妹なのにこんな表情を見せるなんて初めてだった。彼女はくるりと背を向けて、足早に果樹園を去った。


「お前、わざとじゃないよな?」


俺はエリルを振り返り、少し苛立った口調で言った。すると、エリルの目が一瞬揺れ、次の瞬間、彼女の瞳から静かに涙が溢れ出した。自然に、まるで我慢していたものが溢れるように、頬を伝う涙が朝日に光った。


「私……そんなつもり、なかったんです……」


彼女の声は小さく、震えていて、泣き声というよりは切なさが滲む呟きだった。目を伏せ、唇を噛む姿に、わざとらしさなんて感じられなかった。俺の胸が締め付けられ、さっきの苛立ちが一気に薄れる。


「おい、エリル、大丈夫か? そんなに気にすることないって……」


俺が手を伸ばしかけると、エリルは首を振って涙を拭った。その仕草があまりにも自然で、俺は彼女が本気で落ち込んでいるんだと信じてしまった。


「アルさん、私、明日にはこの村を立たないといけないです。これから神聖ネオアリストラスト帝国の首都に向かう予定なんです。アルさん、お返事いただけますか?」


俺は言葉に詰まった。彼女の瞳が朝日に濡れて輝き、真剣な色を帯びている。俺が何か言う前に、彼女は続けた。


「この旅を最後に、私は引退するつもりです。引退したあとは、この村でアルジェリンをアルさんと一緒に育てたいです」


その言葉に、俺の胸がざわついた。引退? アルジェリンを一緒に? 昨夜の湖畔でのプロポーズが頭をよぎり、彼女の涙に濡れた声が耳に残る。朝日に照らされた果樹園で、エリルの後ろ姿が木々の間に溶けていくのを見送りながら、俺はただ立ち尽くしていた。不思議な切なさと、エルの嫉妬に揺れた瞳が絡み合って、何とも言えない気持ちが胸に広がっていた。でも、エリルの涙を見た後、彼女を疑う気はなぜか薄れていた。

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