王国一の歌姫にデートに誘われた
レンの村――俺たちの村は、300年前に勇者レンが生まれた場所として知られている。伝承では、彼が魔王を倒して世界に平和をもたらした英雄だとされている。そんな村で育った俺、ただの村人アルは、もう成人して、今夜は夏祭りの賑わいの中にいた。弓を手に柑橘類の果樹園を守ったり、丘で下草を刈るなどの日々も慣れたけど、今日はそんな役目も忘れて、妹のエルと一緒に祭りを楽しんでいた。
橙色の提灯が木々の間に揺れ、花火が夜空を彩る中、俺とエルは広場の屋台を回っていた。彼女は手にりんご飴を持って、黒いさらさらした長い髪を風に揺らし、俺に笑いかけた。
「兄さん、ほら、食べてみてよ。私が選んだんだから、おいしいよ」
その笑顔があまりに無邪気で、俺はつい頬が緩む。エルは癒しの魔法が得意で、村のみんなに慕われているけど、こうやって二人で過ごす時間は特別だ。俺は一口かじって、わざと大げさに頷いた。
「うまい。なぁエル、俺たちこんなに幸せでいいのかなぁ。」
「へへへ、いいに決まっているじゃん。ね、ちょっと湖畔の方にいこうよ」
湖畔は今頃、恋人たちの語らいの場になっているに違いない。
なんでって、この夏祭りでは定番だからだ。
勇者レンと聖女イリスもそこで夫婦のちぎりを誓ったという言い伝えがある。それにあやかりたい恋人たちは多い。
「なんだお前、お兄ちゃんと結婚したいのか?」
「うん」
「え? からかうなよ?」
「からかってないよ? でも私達は兄弟だから、どのみちずっと一緒だけどね?」
エルは俺をそういって真剣な眼差しで見つめてきた。
いいんだろうか? こんなに可愛らしい妹の誘惑に耐えられる兄がいるというのか?
いや、俺たちは拾われた孤児だ、だからワンちゃん兄弟じゃないかもしれない。
エルは顔を赤くして目をそらしたけど、口元は隠しきれず笑っていた。気まずいわけじゃない。市場で買い物をしたり、花火を見上げたり――そんな何気ない瞬間が、俺にとっても宝物だった。
その時、広場の中央から透き通った歌声が響いてきた。柔らかくて、どこか切ない旋律。群衆がざわつき始め、俺とエルもそっちに目をやった。提灯の光の下に立つのは、ふわふわ、くるくるとした天然パーマの栗色の髪とやさしい瞳を持った女性。華奢な体に薄いマントを羽織った吟遊詩人だった。彼女は小さな竪琴を手に、静かに歌い始めた。
「私はエリル、旅の吟遊詩人です。エリルといえば、亡国の最後の女帝エリル。そう私の芸名は彼女からとりました。今日は、女帝エリルの悲恋の物語を贈ります」
その名に胸が少しざわついたけど、俺は気にせず聞き入った。彼女の声が響き、歌が始まった。
「女帝エリルは、勇者レンを愛した。
彼の剣に守られ、彼の笑顔に癒され、
心の全てを捧げたけれど、
レンはある日、忽然と姿を消した。
300年の時を超え、どこかへ旅立ったことを彼女は知ることもなく。
残されたエリルは、ペンダントを握り、
彼の名を呼び続けた。
けれど、声は届かず、
彼女は悲嘆に暮れ、
孤独の中で命を終えた……」
歌詞が胸に刺さる。切なくて、重くて、でもどこか懐かしい。知らないはずの物語なのに、なぜか目が離せなかった。エルの方を見ると、彼女もじっと聞き入っていて、その丸い目が少し潤んでいるように見えた。
「……兄さん、この歌、なんか悲しいね」
エルの声は小さくて、震えていた。俺はうなずきながら、言葉を探した。
「ああ、悲しいな。レンがいなくなった理由、誰も知らないんだろうな。女帝が可哀想だ」
でも、それだけじゃなかった。歌を聞いていると、胸の奥で何かざわざわする。知らないはずなのに、知ってるような……そんな変な気持ちが湧いてくる。エルも同じなのか、彼女の手が俺の袖をそっと握っていた。
歌が終わり、村人たちが拍手を送る中、エリルは竪琴を置いて俺の方に近づいてきた。え? なんかずっと俺を見ている? 彼女は穏やかな笑みを浮かべたまま、どんどん俺の方に歩いてくる。そしてエリルは俺達に優雅に一礼をすると、話しかけてきた。
「あなたがアルさんですね。弓の腕が立つと聞きました。レンの村にふさわしい人だ。それになんか言い伝えの勇者レンとおんなじように銀髪で美しい青い透き通るような瞳ですね。ひょっとして剣の達人だったりして?」
俺は少し警戒しながら答えた。
「農地を守るくらいならな。俺になんの用?」
エリルは小さく笑い、俺の顔をじっと見つめた。その瞳が近づくにつれ、心臓が少し速く鳴り始めた。彼女は人懐っこい笑みを浮かべながら、距離をグイグイとつめてくる。
「用っていうか、縁を感じたんです。あの歌を聞いて、どう思いました?」
王国一と呼ばれる歌姫がすぐそばにいる。エリルは美しいだけでなくとても愛らしい笑顔でたずねてくる。距離が近い。いい香りがする。これは香水?
「……悲しい話だなって。それだけだ」
彼女は一瞬黙って俺を見つめ、それから柔らかな声で言った。
「ねえ、アルさん。今夜、私と一緒に祭りを回りませんか? ふふ、デートのお誘いです」
その言葉に、俺は一瞬固まった。デート? 突然何だよ。隣でエルの気配がピリッと変わるのが分かった。彼女は黙って俺の袖を握ったまま、目をそらした。
「兄さん、行ってくるなら行ってくれば? 私はもう少し露店回ってくるから」
エルの声は平気そうに聞こえたけど、少し硬かった。俺は慌てて首を振った。
「いや、待てよ、エル。お前と一緒にいるつもりだったし……」
でも、エリルが甘く笑って遮った。彼女は俺の肩にそっと手を置き、目を覗き込むように囁いた。
「そのぉ、すこしだけ、後でお兄さんと二人きりで話したいことはあります、でもそれは後で構いませんから」
エリルの声は妙に魅惑的で、頭が一瞬ぼんやりした。エルの手が俺の袖から離れる。
「いいよ、兄さん。私、平気だから。楽しんできてねっ」
エルが強がっているのが俺にはすぐわかる。
その背中を見ながら、俺の胸にモヤモヤが広がった。エルはいつもそばにいてくれる存在だ。でも、今の彼女の表情が、いつもと違って見えた。言いたいことがあるのに、言えないに間違いなかった。
エリルは俺の手を引き、祭りの喧騒を抜けて村はずれの湖畔へと連れて行った。月光が湖面に映り、花火の残響が遠くから聞こえる。二人きりの静かな場所で、彼女は俺の隣に立った。栗色のやわらかい髪の毛が風に揺れ、やわらかい大人の雰囲気をした瞳が俺を捉える。その美しさと何でもゆるしてくれそうな温かい雰囲気に、俺は完全に気がゆるんでしまった。
「こうしているとね。私は本当に悲恋の女帝エリルになった気持ちになるの。あなたはレンにそっくりね。わたしの持ち歌の主人公、女帝エリルの気持ちが分かる気がするわ。私も、あなたを見た瞬間、心が動いたの」
彼女の声は甘く、まるで魔法みたいに俺の心を揺さぶる。俺は少し後ずさりながら言った。
「お前、急に何だよ。俺のこと知らないだろ?」
エリルは俺の手を両手で包み、湖面に映る月を見ながら囁いた。
「知らないなんてことないわ。あなたを見た瞬間、心が決まったもの。アルさん、あなたこそ私の運命の人よ。レンの村で出会ったのも、きっと偶然じゃない」
胸がざわついて、頭が混乱した。でも、どこかで警鐘が鳴っていた。おかしい。こんな魅力的な女が、俺みたいな村の弓使いに急にこんな近づくなんて。エルの寂しそうな背中がちらつきながら、俺は声を絞り出した。精一杯の抵抗。エルを悲しませたくない。でもエリルは魅力的だ。
「王国一の歌姫がただの村人の俺に?」
エリルの笑顔がすこし悲しげになる。だが、すぐにまた柔らかく戻った。彼女は俺の顔に近づき、湖畔の風に髪をふわふわとなびかせながら言った。
なんて、やさしい雰囲気の女性なんだろうか? 彼女の香水は柑橘類系で、いつも果樹園にいる俺は、なつかしさも感じて、だから警戒心がいやでもとけてしまう。
「アルさん、私と結婚してほしい。私は旅に出ることが多くて、もう二度とあなたに会えないかもしれない。いきなりプロポーズなんて軽い女って思うかもしれない。でも、本気よ」
その言葉に、俺は目を丸くした。結婚? 何だよ、これ。月光が彼女の瞳を照らし、その視線に吸い込まれそうになりながら、俺はただ立ち尽くしていた。