涙の理由
回廊から中庭に出て、食堂側の一角へ移動する。
こちらなら人通りは減っていくし、植え込みから視線もある程度は隠せるだろう。
生垣の近くに置かれているベンチに令嬢たちを座らせる。
短い移動の間に、泣いていた令嬢は少し落ち着いたようだった。
「すみません……。お二人とも、ご迷惑をおかけして……」
微かに赤くなった鼻を鳴らしながら、彼女はメリッサ・ルース子爵令嬢だと名乗った。
てっきり令嬢二人は知り合いなものと思っていたが、どうやら違ったらしい。
フォレット侯爵令嬢によると、ルース子爵令嬢の具合が悪そうに見えたので声をかけたのだという。
……一体それで、どうやったら『婚約破棄されかけている』なんて話を聞き出せるんだろうかと疑問が湧いたが、やはり彼女には人を従わせてしまう何かがあるようだった。
「ルース子爵令嬢の婚約者といえば、ボーウェン子爵家のご令息よね?」
「はい……。私の婚約者……まだ今のところは、ですが。名前はアランといいます」
「ふーん。アラン、アラン・ボーウェンねぇ……。特に悪い噂なんかは聞いたことがないけど。むしろあなたたち、親の決めた婚約者同士のわりに、かなり仲が良いと評判よ。それが急に婚約破棄なんて、一体何があったのかしら?」
フォレット侯爵令嬢は名前を聞くなり、スラスラと口を動かした。
繊細な話題にぶっこんでいくものだから、俺は気が気ではない。
けれどきっと、ルース子爵令嬢は誰かに話したかったのだろう。
視線を上げて、彼女はポツポツと思い返すように言葉を紡いだ。
「昨日の放課後、アランから呼び出されたんです。ちょうど、この中庭でした……。彼は一目見ただけでもすごく辛そうで、心配したのですが……。しばらく口ごもってから、私とは結婚できないかもしれない、婚約破棄になるかもしれないから、心の準備をしておいてくれと……そう言って、私の前から去っていきました」
沈痛な彼女の面持ちから、驚きと悲しみが伝わってくる。
その隣で静かに聞いているフォレット侯爵令嬢が、整った眉根をギュッと寄せたのが見えた。
「っ……私、ショックで、信じられなくて……。家に帰っても、そういった話は届いていなくて……。白昼夢でも見たんじゃないかと思い込もうとしたんです。今日も学園に来れば、いつも通りアランに会えるんじゃないかと……。だけど彼はいなくて……やっぱり、夢じゃなかったんです」
突き付けられた現実に、酷く打ちのめされているのだろう。
彼女は再び目に涙を溢れさせた。
「先ほどおっしゃっていただいたように、私たち、親の決めた婚約でしたけど……仲は悪くなかったはずなんです。少なくとも私は、彼のことを心から愛しています。卒業した後の話だって、二人で楽しみだと言い合っていたくらいです。それなのに……。すみません、だから彼の中で何があったのか、私にもわからないんです……。事情があるのか、それとも、心変わりしたのか……っ」
言い終えると、ルース子爵令嬢は嗚咽を漏らしながら顔を覆ってしまった。
痛ましいが、俺が慰めの言葉をかけるのも違う気がする。
フォレット侯爵令嬢が何か優しい言葉をかけてくれるものと思っていたのだが、予想は裏切られる。
「聞いていれば、そのアランという婚約者は随分と卑怯な物言いをするのね」
静かに話を聞き終えた彼女は、開口一番にそう言い放った。
予想した言葉ではなかったものの、確かに俺もぼんやりとそのような印象は受けた。
けれどその意味がわからないのか、ルース子爵令嬢は泣き顔を上げ不思議そうな表情を浮かべている。
「だって、そうでしょう? その婚約者とやらは、自分を愛してくれていると知っている貴女に対して『婚約破棄をするかもしれない』と仄めかしたのよ。傷つくことなんてわかりきっているのに、断言もせず、理由も説明せず……後ろめたいくせに、罪悪感を減らすためにその話をしたとしか思えないわ。ねぇ、それってとっても卑怯なことだと思わない?」
そう言って、彼女は肩をすくめる。
流石に、俺はそこまで思っていたわけではない。
けれどこうして言語化されると、なるほど随分と自分勝手で嫌な男に聞こえるものだ。
そうした指摘に対して、ルース子爵令嬢は目を丸くした。
「そんな……! アランはそんな酷い人じゃありません。辛いですが……私のためを思って、言ってくれたはずです」
「あら、そういうところは通じ合っているのね。ごめんなさい。そう信じているのなら、私の言葉は侮辱的だったわよね」
彼女としては悪気なく、思ったことを言っただけらしい。
あっさりと謝罪するフォレット侯爵令嬢に、俺もルース子爵令嬢も驚いてしまった。
確かに、その婚約者なりに『突然知らされるよりは』という想いからの行動だったのかもしれない。
ただ実際のところ、こうして伝えられた当人はショックを受けて悲しんでいるわけで。
……難しいことだ。
ともあれ、俺がどう思ったところで真相は闇の中である。
実際、ルース子爵令嬢は理由がわからなくて苦しんでいるというより、婚約破棄になる可能性について悲しんでいるのだろう。
そんな彼女は、他人に話したことで少しだけ気持ちの整理ができたらしい。
「安易に婚約破棄、なんて言い出さない人だもの……。きっと何か、やむにやまれぬ事情があるのかも……?」
混乱を脱したら、不信よりも心配が勝るようだ。
真っ赤に目を腫らしたルース子爵令嬢に対して、フォレット侯爵令嬢が「気になるわね」と頷いた。
「おしどりカップルが、婚約破棄の危機。一体、裏にはどんな理由があるのかしら? 確定でないのなら、回避する方法はあるの? 気になる、気になるわ……!」
彼女の中で、何らかのスイッチが入ったらしい。
がばっとルース子爵令嬢の手を握ると、彼女は弾む声で言った。
「その事情とやらを突き止めるわよ! 私が力になるわ! 貴女、今の婚約者と結婚したいんでしょう!?」
「はっ、はい!!」
勢いに押されたように、ルース子爵令嬢も頷く。
しかし、俺はその後に続いた呟きを聞き逃さなかった。
「あはっ、随分と面白そうじゃない。楽しいことは大歓迎よ」
彼女の深紅の瞳が輝いたように見えたのは、気のせいじゃないだろう。
ぞくりとするものを感じながら、やはり彼女は『変わり者』なのだと実感した。
話が一区切りついたところで予鈴が鳴り、皆で空を見上げる。
……結局、俺は深刻な話を立ち聞きしただけになってしまった。
「ルース子爵令嬢、今聞いた話は誰にも漏らさないことを誓います」
「いえっ、そこまでしていただくほどのことでは……!」
胸に手を当てる俺に対して、ルース子爵令嬢は慌てたようにぶんぶんと両手を振った。
それから、ハンカチを洗って返すだの捨て置いてくれだの新しいものをだのじゃあこのままで、などと短い問答を繰り返す。
……結局、気が済まないということでハンカチは洗って返してもらうことになった。
そして次の授業まで時間がないことを思い出し、慌てて踵を返そうとしたところで凛とした声に引き留められる。
「ちょっと。私はエミリア・フォレットよ。フォレット侯爵家。貴方の名前は?」
知っています、とは流石に言えなかった。
そういえば名乗るタイミングを掴み損ねていたと、今更ながら思い至る。
「騎士科、ラティマー伯爵家のヒューバートと申します」
「そう、ヒューバートね。覚えておくわ」
彼女の口元が、蠱惑的に弧を描く。
果たして、これでよかったのだろうか。
このときの俺には判断しかねた。
***
「で、何があったんだ?」
一人でさっさと退散した友人は、俺の顔を見るなりそう言った。
あんまり瞳を輝かせているので、その頭を無言でチョップする。
ぼやいているが、小言を言いたいのはこっちの方だ。
いくらなんでも、声をかけられたのに姿をくらますのはやり過ぎだろう。
「お前も聞いてただろ、ハンカチを貸しただけだよ」
「またまたぁ~」
そんな風に言われても、約束したのだからそれ以上話すことはない。
どうせ、あとは洗ったハンカチを受け取るだけなのだ。
友人はフォレット侯爵令嬢のことも聞きたがったが、それこそ今後関わることはないだろう。
「……お前、ぽやっとしてるとこあるんだから気をつけろよ?」
「は……? 何言ってるんだ。お前よりは十分しっかりしてるよ」
何事か忠告めいて言われるが、まるで心当たりがない。
というか、コイツにだけは言われる筋合いはない。
「あーもー、ヒューバートはこれだから。しょーがねーなー。こんな調子だからほっとけねぇんだよなー」
などと肩をすくめるものだから、いつもの軽口だと流すことにした。