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宗盛記  作者: 常磐林蔵
第3章 伊豆守、受領

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宗盛記0088 永暦二年二月

永暦二年二月如月


本来、国司が赴任して行うとしたら、在庁官人を率いての狩りだ。頼朝の富士の巻狩はその伝統を踏まえている。もちろん軍事訓練の色合いが強く、討伐などで国人を率いる国司が、その象徴として行う。でも俺、既に討伐はしちゃったし。

後、国内だけでやっても小規模すぎると思ったのだ。やるなら坂東各地の武者を引き込んで…。


はっきり言って、俺の予想はなっちゃいなかった。

坂東の主要な武士二百人余りに手紙を送って、半数位参加してくれれば御の字と思っていたのだ。今回はお試しで、さらに主目的は宴会の人集めなので、それくらい来れば十分成功だと。

招待客一人につき、選手を一人出してもらう。もちろん当人でもいいし、選手なしで観戦と宴にだけ来てくれてもよい、と書いた。

坂東の石高が三百万石余、人口が百万余位かな。未開拓で平地の少ない伊豆は安房と並んでその1%位にすぎない。いや、伊豆は坂東ではないんだが。

ちゃんとした統計が無いから、伊豆の赴任が決まった時に、民部省に頼み込んで資料を見せてもらって都への貢物から概算した値である。

武士の数は半農も含めて十万人が限度だろう。それ以上は支える食料がない。領主はあんまり小さいのを除くと千人余ってところか。ずっと大きい領主も多くいるから、これで下の方は武士五十人程度の領主だ。領地の人口が五百人いかない程度の、郷士、庄司級、伊豆の大きな領主、北条や天野位まで含めて。そのうち二割は呼んだのだ。


ところが人数を絞るために参加締め切りを二月十日に区切ったにも関わらず、二月初旬からひっきりなしの問い合わせが来て、参加申し込みが四百を超えた辺りで皆の目が血走ってきた。下野の北の端まで六十里はあるのに、なんで参加者来るの?手紙見て即決しないと無理だろう。北関東は挨拶がわりで参加はほとんど期待してなかったのに。

招待状の倍以上客が来るパーティーって、もうパニックでしかないよ?

アカン。どう考えてもオーバーキャパである。

伊東、大庭、土肥にありったけ人を出してもらうのはもちろん、とりあえず都の父上に急使を送って、すぐに手に入るだけの銅銭を送ってもらうよう手配する。馬を替えながら急げば一日二十里は進めるので、五日でつく。

基本用意した宿舎は参加予定者で埋まり、さらに足りない分は寺や神社、在庁官人や大きな農民の屋敷を借りて回った。

それでも当然観客分のキャパなんてない。河原や空き地を宿営地に整えて、天幕を用意するのが精一杯だった。本格的な農期でなくて良かった。

三嶋の各宮や沼津、北条、天野、牧之郷まで泊まれそうなところは全て押さえた。

抱えの職人達には、できる限りの増産を頼む。参加賞や土産の類である。

余ったら売ってもいいし。

あとはウチの知行国の武蔵、常陸の目代に、銭一貫文(千文)と米一石の交換を手配してくれと頼む。必ず俺が後日補完するからと。大会中は市も宿泊も食事も銭決済でいくつもりだからだ。行きは布とかを持ってきたとしても、三嶋では銭に変えて残った分は帰って精算できるようにする。もちろん三嶋でも米、布に替えられるが。ここで貨幣の便利さを広めてやる。

布の査定は時間がかかるので国衙のみ。

各所に米と銭の両替所を作り、売り値、料金は全て銭で表記させる。基本価格固定。交渉している時間を他の商売に回したほうが効率がいいと思わせれば成功だ。

銭一貫米一石の固定相場制でいいか。

固定相場制の恐ろしさは理解しているが、銭の価値の担保さえできれば銭が不足したとしても不便ではあるがそれ程のダメージはないからな。逆に引き換える米が用意できないと信用不安で取付騒ぎになる。


父上から手紙が届いた。思いつきでやるからそういうことになるとお叱りの手紙…その通りです。ただの大学生だったんで企画運営とか経験乏しいんだよ。

それはいいとして、父上が見に来ると言い出したのだ。

おい、授業参観ホントに来るの?

というか、なんか美味しい匂いを嗅ぎつけたからか。政治センスは優れてるからな。

今更宿舎の確保洒落にならないくらいキツイんですけど。まぁ、風呂、厠の揃った俺の私宅に入ることになるんだろうが。

そんなことがこちらの武士達に事前に知れたら、さらに収拾がつかなくなるので、なるべく外に漏らさないようにとお願いの手紙。


しかし父上が先に送ってくれた家司けいし達はありがたかった。大量の銅銭で兌換の体制もできた。事務仕事に慣れている盛国、家継、景家等平家の家司達は、限界を感じていた国衙の官人にとっては天の使いに見えたようだ。なんせ在庁官人と言っても、公務員試験を合格したわけでもない、ただの地方領主である。計算はもちろん、人によっては文字を読むのも怪しい。まぁ、うつけの俺が言えることではないが。

そこに手助けに来た大貴族の家政担当は公務員と高校生位の違いはあった。

しかし例外も一人いた。大庭が連れてきた鎌倉党の名主、梶原景時。まだ若い。二十二歳…通称梶原の平三へいぞう。ちなみに坂東には平三は山程いる。領地は相模一宮寒川神社の周辺で、大庭の隣の領地である。この景時がおおいに働いてくれた。特に相模の各領主とのパイプを使って、物資や輸送の手配を整えてくれたのがありがたい。こいつ、とことん行政官僚向きなんだな。しかし頭の良さを隠せない上、バカの言うことは聞きたくないと時々ぶつかっている。この性格でなまじ軍事もできるから身を滅ぼしたのか。大江広元みたいに文官で通したら違う未来もあったろうに。石田三成の先輩。まぁ、まだ若いんだ。事務能力の高いウチの家人を見て、できる人間も居るところには居るんだと理解して欲しい。

でも前世で一部の人から持ち上げられていたように、忠誠心の高い清廉潔白な人物とやらでは決してない。戦中に後の利得を考えて敵の大将見逃したりする愉快な性格してたりもする。少なくとも清廉潔白とは言えず、大軍を預けたり重要な個所をまかせたりはできないか。大庭にはあんまり頼りすぎないよう言っとこう…。


家司達の顔の広さもあって交渉が早い。一貫一石のレートは、柔軟に一銭一合に整えられた。当然そっちのほうが手間は掛かるし、端数の処理とか事務も増えるんだが。

貨幣の兌換も、伊豆、武蔵、常陸では一銭一合。残りの六ヶ国でも十文一升の体勢を整えてくれた。


俺はずっと手紙を書いていた。各地の国司目代への挨拶と説明である。

この年の坂東各地の国守は、武蔵国が知盛、常陸国が教盛叔父上、相模国源頼定殿、安房国藤原経房殿、上総国源雅賢殿、下総国藤原高佐殿、上野国藤原重家殿、下野国藤原為親殿。


比較的空いた日ができたら狩野川堤と冷川峠の工事の確認と、長岡、修善寺、伊東、宇佐美、熱海、湯河原、茅ヶ崎の宿と往復便の手配に向かった。ちゃんと温泉にも入ったが。

その際の決裁の代理は是行と祐親、景親、実平の誰かに頼んだ。四人とも蒼白になっていた。すまん。実務処理の訓練も積んでくれ。


ついでに考えていた温泉PRの準備もした。宿を用意した街のうち、茅ヶ崎を除く各温泉地で入湯すると、巻物様の専用台紙に各地の名が彫られた朱印が押して貰える。これを六つコンプリートすると、国衙か伊豆山権現で、記念のミニ瓶子と杯のセットが貰えるのだ。六方向六色使った青海波文様の中程に伊豆山権現の九曜紋が金で入った色絵陶器。長岡が茶、修善寺が黒、伊東が青、宇佐美が緑、熱海が赤、湯河原が黄でそれぞれの文字が入っている。盃は六つ色違い。都にもまずないよ。許可のため伊豆山権現に見せたら、是非うちにも作ってくれと泣きつかれた代物だ。こちらは有効期間を三年にして、リピーターを狙うことにした。各温泉地には見本も置いてきた。


冷川峠の工事は、いくつかあった難所の道幅がかなり広がっていた。どこでも馬がすれ違える位。高さは最高でも箱根の半分以下。これなら箱根より楽に馬に乗って越えられる。足場の悪い所は滑り止めの網目を入れた煉瓦とモルタルで舗装してある。

脇に植えたオオシマザクラの蕾も膨らんできた。

船は伊豆七島の漁船まで動員する大輸送計画になった。もちろん船賃は取るが。


各所で悲鳴を上げながら、なんとなく大会の体裁が整ってきた。

なんせ五百を超える招待客?と、その家人が来るのだ。旅が一般的でなく、専業の宿屋なんて七道沿いでも大きな街に数軒あればいいような時代なのに。五千…いや、万に届いたらどうしよう…。伊豆の人口約一万だぞ?


大会は予選と本選の二日に別れることになった。予選で三十から六十人位に絞り、本選で首位を決める。沼津と宇佐美、伊東の当日の水揚げは全て俺が買い取ることにした。米と肉、野菜の手配に皆走り回っている。銭の交換所も作り、市の手配もして、近隣国まで知らせた。

立ち見ではどうにもならん数になってきたので、本戦の会場になる三嶋神社の馬場の周囲に階段状の台も用意した。指定席の椅子はいつものように竹を使った。時間が無いので油抜きもせずに、半分に割って幅五寸ほどの板に紐で縛りつけ、丸竹の脚を付けただけのベンチ。文官仕事の苦手な者に頼んで大量生産した。一台に四丈の竹二本、半割四本で二十人は楽に座れる。これを四百台八千人分。後は立ち見席。他にも案内所、救護所、簡易の厠、手荷物預かり、出店エリア、留置所等、意見が出るに従って用意する。イベント準備がどれだけ大変か思い知った。


二十八日に父上が着いた。国衙、郡衙を飛び石して十四日かかったそうだ。先遣と合わせて五十人分の部屋が潰れた。しかし前乗りして来た名主みょうしゅ達の対応をしてくれているので、助かってはいる。今の所比較的近い相模、武蔵の連中が多い。父上はああ見えて、割と全方向に愛想がいいからな。連日の謁見希望は夕食会で捌いている。

もっともほとんどの時間は温泉巡りと肉と魚を楽しんでいる。料理するのは大体俺。まぁ、俺は国衙の厨の皆に醤油や味醂、鰹節(燻製)の使い方を教えなきゃいけないのでついでではある。

父上は先月の二十三日に検非違使別当に補任されたそうだ。いや、父上も今一番忙しい筈ですよね…。

二月の初めに、基盛兄上が院判官代に就任したとか。判官代は院庁の次官。院別当に次ぐナンバー2である。おめでとうございます。ウチの取り込み必死だな。滋子姫と同じ職場か。うらやまけしからん。


父上が清子からの手紙を持ってきてくれた。

会えなくて寂しいって書いてある。クフフ。


正子姉上が藤原信隆様との縁組が決まったそうだ。信隆様は三十六歳。姉上は俺と七つ違いだったから二十二歳…うーん。歳の差十四ならありか。ちなみに親隆様とは名前は近いが血縁は遠い。俺と坂東に山程居る平氏位の近さ。二百年以上前に別れた血筋。まぁ、親隆様のところよりは歳が近い。親隆様と忠子叔母上はたしか三十二歳違いだ。平安時代酷すぎる。

でも統子様くらいお美しくて賢いなら、二十歳位離れててもいいなぁ。


後は滋子姫と信子姫が新しい院に移られるのが四月に決まったとか。これは聞きたくなかった。

こういうダウンな話には、この忙しさはありがたい。


混沌の中で二月は逃げていった。

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