宗盛記0009 久寿二年七月
かなりの部分説明回です。
詳しい方は読み飛ばしOK
七月文月は盆の月。
都はまだまだ熱波に包まれている。
四郎がなにか教えてとねだるので、手習いの反故紙で紙飛行機を折ってやる。
「兄上、これはなんというものですか?」
「紙ひ…紙鳥だ」
飛ばしてみせると目の色が変わった。
「私も私も!」
自分でも見まねで折ってみるがうまく飛ばない。上向きか下向きに曲がって落ちるのだ。
紙飛行機は全体の重心と翼面の揚力中心の位置が釣り合っていないとそうなる。他にも薄すぎて構造がしっかりしていないとよれて翼端に乱流ができて飛ばない。
四郎の折ったものの前側を折幅を変えて重ね折りして調整すると真っ直ぐ飛ぶようになった。
景太がやりたそうにしているので、こっちにも教えてやると、秀次まで乗ってきた。
誰が一番飛ぶかで競う。まぁ、理屈を知っている俺が当然強い。翼端曲げて微調整とかできるしな。イカ飛行機意外と飛ぶし。
母上と女房達が驚いて見ていた。
次の日、朝目が覚めると、母上がこっそり飛ばしているのを見てしまった。嬉しそう。
寝たふり。
一族が六波羅蜜寺で盆の供養を行う。正式には盂蘭盆会。盆は寺でやるもので、家では供物とか会食とかしかやることはない。宮中でもやる。日にちは七月十五日限定。当然ほぼ満月。中秋の名月の一ヶ月前は盆なのだ。仏説盂蘭盆経というお経が原典なのだが、これがインドから伝わったかどうかは怪しいらしい。でもまぁ、それ言っちゃうと大乗仏教自体怪しいしなぁ。少なくともお釈迦様は他の仏のことを語らなかった。
まぁ、盆もこれだけ流行ったら死者の皆さんもそういうもんだと思っているだろうし。
ウチで最近亡くなったのはお祖父様。二年前のことだ。小正月の日に亡くなったらしい。正四位上。公卿目前だった。
次に危なかったのが俺で、あの世の一歩手前だった。新盆を出さずに済んだとみんな喜んでいる。
ちょっと変になって帰ってきたが、なんとか許容範囲に収まっているらしい。
一族が集まって、池殿以外の叔父上達と顔合わせがあった。長男は父上。
次男でお祖母様の子である家盛様は、六年前に亡くなったそうだ。池殿の同母兄にあたる。
三男は経盛叔父上。同じ平三郎繋がりで親近感が湧く。歌と楽器が得意とか。雅な方である。三十二歳。
四男は教盛叔父上。六波羅エリアは柵で区切られているが、このエリアの総門の近くに館があるので門脇殿と呼ばれているらしい。総門、牟礼にもあったなぁ。鍛えてる感じで武士っぽい。二十八歳。
五男の池殿、頼盛叔父上を挟んで、六男の忠度叔父上が居るらしいが、会っていない。俺の中では一番有名な叔父であるが、なんとまだ十二歳らしい。俺の三つ上。熊野で暮らしているとか。前に聞いた有名な歌人とは経盛様のことだった。まだ会っていない忠度様を除いて、みんなちょっとずつ父上と似ている。白河法皇御落胤説は…無いな。
後もう一人、母方の叔父なんだが…平時忠様。母上の弟、六の君の兄。二十六歳。頭の切れそうな人物に見えた。ついでに見た目が割と派手。盆の日に赤と黄色の莟菊の狩衣はどうなんだろう。
「こちらの麦湯はよく冷えておりますな」
「ああ、それは三郎がな…」
聞こえてきた会話にぎくっとする。振り返ると、値踏みする目が俺を見ていた。
平清盛、つまり父上が四十辺りでかなりの出世を遂げているが、これはお祖父様の平忠盛の働きによる。まだ摂関家の警備員の長辺りの立ち位置であったお祖父様は、瀬戸内海の海賊退治を通じて降った武士を家人とし、その功績で越前守になって、そこで宋との貿易の旨味を知った。当時、というか今でもらしいが、越前は正規ルートを外れて宋船が訪れ私貿易の取引が盛んだった。これと瀬戸内を押さえた祖父は、太宰府から少しずつ貿易の権利を削り取り、肥前に神埼荘という荘園も持って武家では考えられないほど裕福になった。で、それを積極的に献金した。父方のお祖母様の件もその辺りに繋がっている。
金と兵を握った家、その嫡男が父上だったのだ。
他に並び立つ軍事貴族は、河内源氏。金はそれほどないが兵力はある。そういう家だ。元々、天皇の息子が臣下になった家を源氏という。稀に孫の時もある。光源氏が源氏なのは帝の息子だからだ。その父帝の名前をとって、清和源氏、村上源氏、などと複数の源氏がいる。清和源氏の嫡流は本来摂津源氏で、これは多田銀山を支配して金回りが良い。有名な人物が源頼光。酒呑童子を退治した伝説の武人だ。河内源氏はその分家。しかしながら、百数十年の内に、前九年の役、後三年の役で力をつけて、今や源氏の宗家扱いされる程である。坂東や九国(九州)にも基盤を持つ。問題はヤクザ気質で一族内の結束が弱く、揉め事を起こしがちで、親子兄弟でいがみ合うことも多い。
これに対して、桓武平氏のうち、最も出世した武家の伊勢平氏がうち。
ちなみに平氏は天皇の孫が臣籍に降った時によくつけられる氏。
桓武平氏には高望系というのがあって、早くから坂東全域に広がった。ウチは平将門と対立した叔父の国香の子孫。
軍事的な功績もここ数代のものだが、兵事の基本は金。金で官位を手に入れ、さらに豊かに強力になりつつある。
まぁ、選択を間違えると滅んじゃうのは俺の中での史実。
母上や時忠叔父上、六の君ちゃんとこは、同じ桓武平氏の遠い親戚である高棟系。こっちはれっきとした累代の公家である堂上平氏。でも藤原の世であんまり偉くはなれない。
家が別れたのは三百年位前かな。
盆行事があってから八日後の二十三日、今上の帝が亡くなった。十七歳。諡号は近衛天皇。
平安時代の末期に院政期、という時代がある。ぶっちゃけうろ覚えな俺のイメージだと、白河上皇から後白河上皇(たいてい出家して法皇になった)の時代のことだ。後鳥羽天皇以後も院政を引くが鎌倉時代になっちゃってるので院政期には入らない(ことが多い)。摂関政治の終わりから鎌倉時代の始まりまでと考えてもいい。
摂関期、それまでの平安時代は藤原北家のやりたい放題だった。帝を脅したり退位させたり。当然皇家は不本意だった。でも母親や嫁は藤原家からだし…。
その中で珍しく藤原氏の母でなかったため摂関家から冷遇された後三条天皇が即位した。冷遇したのは十円玉の平等院鳳凰堂を建てた頼通。後三条の帝は名君だったらしい。当然藤原氏の力は抑えられた。
それを継いで即位したのが息子の白河天皇(後の上皇、法皇)。周りの圧力で弟に継がされそうになった皇位を自分の血統にして権力を維持したくて、八歳の子供を天皇につけた。堀河天皇。が、これが割と早死し、仕方がないからその孫を天皇にした。鳥羽天皇。白河上皇本人はとても長生きした。
で、天皇の代がかわるたびに外戚はリセットされることを実感する。まぁ、外戚は概ね藤原家なんだが、兄弟、親子の間で微妙に権力が行き来した。上皇はそのまま権力を保つ。これが続いたせいで藤原家が弱くなって、上皇が強くなった。
官僚を無視し、自分の好みだけで人事を決めがちな天皇家の親政は、以前よりさらにクソだった。この時代から、今までなんとか持ってきた律令制の根元が修復不能に崩れていく。
白河上皇の孫は鳥羽天皇、即位したとき五歳だった。
幼い天皇を立てるほうが権力を維持できると知った白河上皇は、成人して二十歳になった鳥羽天皇を退位させて、曾孫で鳥羽帝の子供である新院(崇徳天皇)を五歳で即位させた。後妻の祇園女御にメロメロだったからだという。祇園女御の猶子の待賢門院の子供である今の新院(俺の中では崇徳院)を帝位につけた。
待賢門院には白河法皇の手がついていたという噂すら拡がった。祇園女御との関係を考えるとバカバカしい噂だが。
鳥羽上皇はその事を根に持った。
ちなみに祇園女御の妹が父上の母親、つまり俺の父方の祖母にあたる。女御は天皇の妻の位なので、祇園女御は宣旨を受けていないナンチャッテ女御である。妹も白河法皇のお手がついていたという噂すらあるので、それが本当だと父上は白河法皇の落胤ということになる。
まぁ、言わせておいても損にはならん…と言うのが父上の弁。その縁で父上は祇園女御の猶子になっている。猶子は養子のダウングレードで、子供として扱われるが基本相続関係はない。契約関係。実質的には後見人。
ウチもズブズブの情実人事の中で生きている。
白河法皇が死んで、鳥羽上皇が天皇家のトップ、家長に立つと、早速白河法皇の側近を朝廷から追い出した上、崇徳天皇を退位させて、鳥羽上皇の後妻の美福門院との息子である崇徳帝の、弟の近衛天皇を即位させた。つまり先妻の子を退位させて後妻の子を位に着けた。近衛帝は三歳だった。
さらに根の暗いことに、近衛帝はそれまで崇徳帝の養子ということになっていたのに、践祚の時にはなぜか弟扱いに戻っていた。践祚の際には先帝の同意が必要なので、殆ど詐欺である。これで崇徳帝に院政の道はなくなった。
もちろん崇徳上皇も根に持った。
戦争が起こるためには、二つ以上の勢力の対立が必要だ。皇家はこんなふうに内部にいろんな恨みを重ねていたが、さらに凋落しつつあった藤原家宗家も混沌としていた。
白河院政当時の藤原北家の当主は、関白藤原忠実。この人は白河法皇に遠ざけられたが、鳥羽院政で復活した。嫡男は忠通。この人も関白になった。忠通の弟に頼長がいて、これは左大臣になった。父親の忠実はこっちを可愛がった。
忠通は長く子供がいなかったので、弟の頼長を養子にしたが、中年になって実子ができた。当然そちらに跡を継がせたくなって、頼長との養子縁組を解消した。頼長は怒って父親の忠実に訴えた。忠実は代替わりして隠居していたが、藤原氏の長老として、忠通を廃嫡して頼長を跡継ぎにすると言い出した。忠道は既に関白になっているのに。藤原氏の拠点の東三条殿も、忠通を追い出して頼長に与えた。家長としてはかなりのクズである。
頼長は養女を近衛天皇に入内させて皇后にしたが、忠通の方も養女を入内させて中宮にした。皇后も中宮も天皇の第一夫人、言ってみれば正妻であるからややこしい。そして病弱な近衛天皇には子供がいなかった。この兄弟の仲は既に修復不能になっていた。
この状況で近衛天皇が死んだ。これが二十三日。
二十四日
雅仁親王、践祚。後の後白河天皇である。
跡継ぎは崇徳上皇の長男で美福門院の養子でもある重仁親王様と考えられていたが、美福門院の同じく養子の守仁親王を天皇にするために、その父親であるというよくわからん理由で、雅仁親王(後白河天皇)が、即位する事になった。
もちろん権力を握り続けたい美福門院のエゴである。
美福門院は、早く死んだ鳥羽上皇の先妻の待賢門院が大嫌いだったが、自分の男の子(近衛天皇)は死んじゃったので仕方なく、だっただろう。
この人は後に玉藻の前のモデルとなる。
ちなみに重仁親王も守仁親王も評判は良かった。
この皇嗣変更のバックは藤原忠通。自分の娘を崇徳院の中宮としていたが、崇徳院が別の娘に重仁親王を産ませたため恨みに思い、守仁親王擁立に決めた。こいつも割とクズで、典型的な藤原貴族である。
これに反対する弟の頼長は、知識はあって小理屈を吐くので人望がなかった。
結果今まで皇位に相応しくないとハブられ、歌舞音曲に遊び暮らしていたダメ皇子の雅仁親王(後白河天皇)が、棚ぼた式に即位する。
二回に渡って弟に皇位を持っていかれ、自分の皇統でなくなって院政も敷けなくなった崇徳上皇はブチ切れ寸前である。
この手の殆ど嫌がらせに近い策をとってしまう鳥羽上皇という人は、為政者として本当にダメな人だと思う。
このことが結局天皇家による政権支配を失わせ、平安時代を終わらせる原因となった。
この人も幼児の頃から即位してるんで、まともではない。院政の最大の弊害は、帝位に就く人材を育てられないことかも知れない。
皇位継承でもめて大喪の礼は八月の一日。猛暑期に八日間ほっておかれた近衛天皇の御遺体は、火葬になった。
なかなか凄かったらしい。その悲惨さは想像に余りある。
結局、崇徳上皇と藤原忠実、頼長、後白河天皇と藤原忠通が手を組むことになった。そう、受験日本史でおなじみ、
いい頃始まる保元の乱
の下拵えが整った。
こういった辺りが、俺が聞いた話と前世の知識から組み立てた最近の情勢だった。
兄上達や秀次からも聴いたが、話の半分位は叔母上からだった。六ちゃんナイス。
名前とか細かい所は色々怪しかったけど、十歳でこれだけ情報を集めてこられるのって、素晴らしい才能だと思う。
語った後のドヤ顔がなんとも可愛いのだ。