宗盛記0004 久寿二年二月
前にも言ったが、俺は工学部の学生だった。専攻は建築学科。それもあって割と機械系なんかは得意だ。もちろん建築は得意。
時間をかければ蒸気機関位ならなんとか作り上げることができると思う。タービンタイプなら、精度の高い回転機構の開発ができれば、後は技術の要求レベルは割と低そうだからだ。職人探しからになるが。あと製鉄、鋳造技術の向上、炉の製作や燃料の確保なんかに数年位かかるかも。
頑張れば望遠鏡、顕微鏡もいけるかな。硝子の溶融炉がハードルか。時代との違和感ハンパないからよほど欲しくならない限りまぁやらないだろうけど。
でもそう、何かをつくりあげるというのは、関連の技術レベルがその前段階まで届いている必要がある。今の俺だと色々思いついても、そのための下準備が圧倒的に不足している。
下支えの技術が育っていて、それを十分に理解していないと、概念があっても実現できない。例えば機械技術の基本になっているネジを、自作してみろと言われるとかなり悩むだろう。俺が生きている内にだとダイオード程度の半導体も作れないよな。シリコンの結晶化とか想像もできない。
それに今の俺は単なる子供、から三歩程後退して「うつけの子供」だ。いきなり思いつきを言い出しても、かわいそうな目で見られることは間違いない。
というかそんなことを言い出さなくても見られている。
床上げには六日かかった。それ以降も誰かがついて回る。
そうして少し暮らすうちに俺の致命的な欠陥がわかってきた。
今の俺は読み書きができない。貴族に必須の教養がない。
元々の三郎の記憶は「母上」と、せいぜい話し言葉で打ち止めのようだ。発音の修正と、何を言っているかの意味は概ねわかる。六の君のいまそがりまします、とか言われても大体わかるのだ。これは言語野に以前の記憶が残っているのだと思う。
しかし読み書きはさっぱりだ。俺の記憶が大量に大脳皮質に上書きされた時にその辺の記憶は大きく消去されたのかもしれん。
もちろん楷書は読めるし書ける。でも崩すとさっぱりだ。行書あたりで怪しく、草書は全く読めない。当然書けない。
21世紀の記憶だけなら、この時代に生きていくのはとても困難だろう。早めに対応せねば。
今のところまず、かな、がわからないので、当然普通のかな交じり文は読めない。
この時代、平仮名の「あ」だけでも「安・愛・阿・悪」を崩した四種類ある。いや、とりあえず渡された手習いの教本にあるのがこれだけで、もっとあるのかもしれない。俺の貰った教本にはひらがなが二百数十載っている。「より」「なり」「そうろう」なんて、複数の文字が合わさったかながあり、加えてちょっと崩れたカタカナもある…。
「州」を崩したのが「つ」、當を崩したのが「た」のような、読みが変わっているものもある。さらに、人によって崩し方の度合いが違う。例えば「於」を崩した「お」の代表的な書き方が三種類。その辺含めて大体四百位の平仮名、を覚える必要がある。つまり約五十の音に対して平均八つの文字があるのだ。音を表すにはどれを使ってもいい。その場の雰囲気とかで選ぶのだ。こんな表音文字、世界でも珍しいんじゃないか?
さらに草書から発達した仮名は続けて書く(連綿)のが当たり前。一文字ずつ書いてある(書き放ち、放ち書き)のは教本だけ。書き順なんてない。個人の好み。
救いようのないなぐり書きに見える手紙なんかが、とっても上手な文字の見本だと言われてもわけわからん。
この文字の習得だけでどれほどかかるのか。さらに、濁点が無い、半濁点も無い。句読点もない。
発音すら少し違う。か行がパ行っぽかったりする。そうしてこれを全て続けて書くのだ。
俺には漢字と仮名の区切れすらわからない。それを「美しく」書けねば、恋など論外だという。
俺は九つで、継妻(正妻の後妻)である母上の最初の息子で、あと五年もすれば元服、任官するはずだったという。なんとなくいろいろ諦められたらしい気配もあるが。
読み書きに加えて、貴族の教養として和歌が必須だ。男だから漢文も要る。
俺が読めるのは、漢書とお経だけのようだが、でもそんな書物はそもそも内容が難しい。漢文を学んだ後の高卒で良かった。ほんとそれ以前に死んでたら、この世で生きていくのはもっと困難だったろう。
楽器もできて当たり前らしい。
それに社会常識。衣服の着こなし、色、柄にも細かい規則があり、香の聞き当て位できないと、女性には相手にされないとか。全くあかんやん。
そうしてわが平家は軍事貴族。武門の家だった。貴族の教養に加えて、当然家芸としてそれなりの武を要求される。下準備の常識的な教養とかを手に入れるのにどれだけかかるのだろうか。
季節は…春先らしいがまだまだ寒い。旧暦の違和感がずっと残る。気がついてから六日ほどで床上げし、十日と少し経って、初めて庭に出た。頭の痛みもようやく軽くなってきた。二月の終わりだとか。新暦だと三月の後半か。池の周りの梅の花が盛を過ぎた感じ?
普段着は半尻という子供用の狩衣。狩衣の後身の裾が短い。狩衣というのは神主さんの…と言うと、袍なんかもそうなっちゃうか。どちらも盤領(短い詰襟)だしな。
肩の前半分と脇(前身頃と後身頃)が縫って無いのが狩衣、縫ってたら袍である(他にも違いはいっぱいある)。狩衣は元々スポーツウェアなんで、袖の所が絞れるように紐が通してある。
狩衣の後身頃は地面すれすれなんだが、半尻は動きやすいように尻が隠れる位。半尻も袖の前半分と脇が塗ってなくて、スリット状に開いてるのが特徴。下に着る単がチラ見えしてカッコいい。ここは当然色の組み合わせを楽しむ。母上や女房達が…。
袴は指貫。こっちもスポーツウェアからなんで、裾を紐で括れる様になってる。でも凝っていて地模様が織りだしてある絹織物。これまた神主さんの服にしか見えない。
髪は後でひとまとめにして括ってある。いつでも髻が結える長さにしておくのは常識。子供は角髪を結えるくらいに伸ばしておく。
それにしてもポニーテール…。
俺が寝かされていた中央の建物は寝殿という。父上と母上、俺と四郎と三の君が住む。あとは太郎と二郎の兄上の住む東の対にあたる東泉殿、客殿であり西の対代にあたる二棟廊、の三つの大きな建物がある。これらは檜皮葺。
典型的な寝殿造りだと、これをコを反時計回りに90度回した様に並べるのだが、ウチはこの三棟が全て東西に長く、さらに横に繋がっている。なんでこんなことになるのかというと、碁盤目に通りが走る洛中と違って、ウチは北側に五条通(の続き)が走るが、西側は鴨川、南は六波羅の柵内の細い道、東側は築地塀挟んで隣の敷地だからかもしれない。つまりこの造りだと北側の通りから、巨大な建物に見えるのだ。
二棟廊からは南に中門廊という建物が延びている。この建物の西側が中門、中門廊から南に屋根のある廊下、渡殿で繋がっているのが西釣殿という離れ。
二棟廊から寝殿、東泉殿の南は庭(南庭)で、庭の南半分は釣殿の下まで広がる大きな池がある。
子供は一人で中門から外に出ることは禁止。さらに外側の築地塀に囲まれた、屋敷の北の表門、南の裏門から勝手に出たら命に関わると言われた。まぁ、誘拐とか強盗とかありありなのかも。伴なしで出るのは父上、兄上でもしないとのこと。
中門の外、二棟廊の西側には侍所という、家政を司る事務所があるが、武家の家らしく、それ以外にもガードマンの詰め所である随身所、厩、馬場、弓の稽古場、車止(牛車の駐車場)、蔵、物置、井戸(複数)などが並び、敷地全てを築地塀が囲んでいる。築地塀の高さは一丈(3メートル)程はあるだろう。一番上には瓦が並んでいて、外は東山の上の方がかろうじて見える位。塀の脇には、雑舎という小屋のようなものが並んでいるので、あまり身分の高くない奉公人はそちらに住んでいるのだと思う。
雑仕女や下働きの女達は袴を履いていない。対丈(足首までの長さ)の小袖を着て、エプロンみたいな褶という腰巻きを着けているが、座ると腿まで見える。その下には何も履いてない。洗い物してるときとかガン見しない様にここでも意思の力が必要。
平清盛の屋敷としては思ったほど広くはない。それでも都会の小学校位はあるか。敷地は一辺が一町、四十丈(約120メートル)位。洛外にあるからか、ちょっと歪んだ四角形。
寝殿造りの建物は色々思っていたのと違った。まず大抵の柱が丸い。製材技術が未発達なんだろう。表面は手斧仕上げで削り跡が残る。乾燥割れに備えて内側に縦に斧目が入れてある。塗籠の角なんかに偶にある角柱は…これは槍鉋仕上げか。プロの技である。凄い。
建屋は基本長方形だ。その中で母屋というのは、建物の中央部分の柱で仕切られた部分。一段高い。母屋と離れ、の母屋とは違う用語。母屋の中でも内壁のある部分は塗籠という。
庇というのは、母屋の外側で一段低く、周りを蔀で囲われた部分でここまでが一つの建屋。塗籠以外は建物内に壁はない。天井もない一つの空間。つまり母屋と庇の二重の区画で建物ができている。母屋と庇との境界は高さも違うが、柱もこの部分に並んでいる。もちろん一番外側の蔀の所にも柱はある。
つまり建物の中央部分にちまっと壁がある、床の高さが二重になったひたすら長方形の建物。扉は南庇の東西端に二つ。観音開きの妻戸という扉がついている。ここ以外は蔀戸で、壁はない。お寺のお堂の内陣と外陣とかそんな感じ。で、あとは適当に几帳とか屏風とかのパーテーションで区切る。人が来たとか、行事だとかでその都度区切りは変わっていく。
蔀の外側は簀子縁という。ここは縁側だと思っていい。簀子と言っても、現代の隙間の空いた平板ではなくて、根太に使えそうな四寸四方の角材を切って隙間なく並べたもの。機能としては廊下兼縁になっている。建物を移動する途中、時々段差があったりする。寝殿が一番高くて、対や客殿が低い。これで建屋の格を示しているのだろう。中門楼や釣殿はさらに一段低い。バリアフリーガン無視。簀子には高欄という手すりがついている。寝殿の中央に面して階(きざはし/階段)があって庭に降りることができる。床は結構高い。寝殿なんかだと四尺位はあるだろうか。子供ならそのまま歩ける位なので確認したら、礎石なしの掘立柱だった。地面に直接柱が埋め込んである。これだと根本から水を吸って腐ってくるので、数十年に一度建て替える必要がある。
簀子の上は軒の下なのでよほど横風が強くない限り濡れずに移動できる。
母屋の中には畳を三枚並べて、四方を障子(という名の襖)で仕切られた御帳(障子帳)という空間がある。塗籠の隣。父上は仕事から帰るとそこで過ごす。書斎は組立式でわずか三畳である。哀れ。その辺の中堅サラリーマンでも六畳位はあるだろうに。
障子帳の隣には一角を高い御簾で囲った御座という区画があり、母上は日中基本そこで過ごす。三の君も割と一緒。四郎も時々中に居る。塗籠、御帳、母上の御座と並んで、俺と四郎はその南に敷いてある畳で寝る。俺は御座の内にはあまり入らない。さすがにいきなり授乳が始ったりするのはつらいのである。乳母もいるから交替でなんだが。乳母の時はガン見しそうになるし。
夜になると母上は塗籠に向かう。離れてても物音位は聞こえるので、夜中に目が覚めたりするとわかる。朝になって、
「ゆうべはおたのしみでしたね」
と、こっそり呟く。
うーん。あんまり考えないようにしよう。両親の夜の暮らしなんて、関わりたくない。でも精神は成人してるのでかなりツラい…一部が特に。子供は起たないかと思っていたが頭の方で理解しているので、そんなことはないようだ。押し殺した声と物音がつらすぎる。
プライベート空間はほとんどない。常に家人が居るし、声や物音は丸聞こえだ。庇には女房達の局がある。寝殿ではほぼないが、対や二棟廊では局に男が通うこともあるようだ。早めに慣れないと、色々困る。
庭に出られる様になってからは、俺の移動には、常に乳母子の藤原景太が従っている。俺の乳母が吉野(女房名)、その夫が平家累代の家臣藤原景家、その長男だから景太である。略しかたが酷いと思うが、俺も相手の立場による略し方によっては平三になる。平家の跡取り筋の三郎だから。父上が嫡男でなければ清三か清三郎と呼ばれた筈。時々変わった名前がつけられることもあるみたいだが。これは元服して初めて名づけられる諱に対して仮名と言う名前。時代のルールだから仕方ないね。
景太は俺と同じ九歳、満で8歳だからこれも小学生の年齢だ。俺が木から落ちたせいで、親から酷く叱られたそうだ。かなり参っている。覚えはないがホントすまん。俺に対してはかなり過保護な感じになっていて、池の近くに近寄るのも危ないですからと止めてくる。あと、巨勢秀次という十八歳の家人が付けられた。ちなみに家人は、雇い人とは違って家来とかそんな感じ。基本領地持ち。家人の中でも弓の名手らしい。当分は俺の指導、将来多分俺の家人になる。次男だから仮名は巨勢二になるかな?誰も呼ばないけど。
一度吉野に名前を聞いてみた。
「本当は家族にしか教えないんですけどね」
と言いつつ、教えてくれた。さくらと言うらしい。だから吉野か。いい名前だね、と褒めると、嬉しそうに笑っていた。昔は女性の名前は、呪われるからと親と夫しか知らなかったそうだ。なにそれ怖い。
立場が上の女房達は三つの主な建屋の庇に局を貰って住んでいる。家の者は基本女房になんでも頼む。雑仕や下人に直接命じるのは女房。でもウチは成り上がりの武家なんで、その辺割と緩いみたい。
よく見てると父上が甘い。下働きの子供とか居眠りしてると、着るものを掛けてやる位には甘い。
朝は早い。子供でも夜明けに一日が始まる。大人はもっと早い。支度をして、母から手習いの時間、その後朝餉が終わって少し休むと、吉野や他の女房に代わって手習い、これが昼前まで続く。昼頃からは武芸の稽古を一刻ほど。後は自由時間。日が暮れる前に夕餉。日が沈んだら寝る。
武芸の稽古とはつまり弓だ。本当は俺位の歳でそろそろ馬の稽古にも入るらしいが、俺はしばらくは許されないらしい。落馬してもっと馬鹿になったら困るんだろう。
稽古が始まってようやく、中門の外に出ることが許された。もちろん敷地内限定。弓は子供用の、俺の背に合わせた弓で稽古する。試しに射てみるが当たらない。概ね大きく右にそれていく。何度やってみてもまともに飛んでいかない矢にあきれられて、稽古は矢をつがえない型稽古からとなった。凹む。
「三郎様は前から下手でしたよ」
と景太に言われてなお凹む。
数日はこんな感じだったが、これでは足らん。将来はほぼ間違いなく戦に関わる事になるのだ。逆に精神は二十歳過ぎの俺に、子供感覚で遊んでいるのはツラい。
俺は前の人生では小学校から大学まで剣道をやっていた。掛けた時間の割には強くはなかった。高校の個人戦では県大会で中の上か上の下位。子供の頃からやっているとこの辺が普通。最高で準々決勝止まりだ。それもあって刀の稽古もしたいと願ったが、あんまり刀は重視されていないようだ。秀次が言うには
「馬に乗れる武士は、戦でも太刀で戦うことはあまりありません。戦以外では伴のものが戦います。とりあえず素振りしておいて、馬に乗れるようになってから、太刀打ちの稽古をしましょう」
とのこと。
もちろん納得しなかった。
自由時間は勝手に使っていいわけだからと、弓の稽古が終わったら、屋敷の敷地内を走る。大体四半刻(三十分)ほど。初日は体がついて行かず早足程度だったが…。
後で耳に入って来たが、ついに気が触れたと思われていたそうだ。そもそも非常時以外人が走ることなんてない。これまでろくに走ったことのない景太泣きそう。凹む。
終わったら柔軟と体操。これもかなり噂になっていたらしい。凹む。
次いで柔道の受け身。古畳を貰ってきて使う。柔道は中学高校と体育で取った程度。でも受け身くらいは覚えてる。前回り受け身と横受け身。これの評判が一番悪かった。最初下人が指さして笑っていた。そこまで変か。景太はもう付き合わずに離れて見てる。凹む。
それでようやく素振りである。もちろん素振りは大事だ。まずは日に百振りから。適当に切って削った木の枝をゆっくり目に振る。一日十振りずつ増やしていって三月かけて千振りまで増やそう。これくらいは剣道やっているなら多かれ少なかれみんなやっているよな。前の人生ではとりあえず半時間ほどかけてた。
素振りは、体に、というか小脳に効率いい動きを覚えさせ、筋肉の連動の効率を高め、必要な筋力を付けていくためだ。
ここで始めてわかったことだが、どうやら身体記憶は前の俺から伝わっていないようだ。振る毎にイメージと動きの違和感が凄い。
それに加えて、弓場の横に四尺程の杭を立てて、上半分に筵を巻いて藁縄で雑に縛る。正面と袈裟斬り、逆袈裟。うるさいのでなかなか気を使うが、中門の外だし家が広いので苦情はでないと思う。出ないといいなぁ。出てたらしい。凹む。
素振りだけで実際に当てないと、刃が止まったときの力加減がわからないのだ。打ち込み器とか無いしな。ゆくゆくは横木をつけたり、吊るした木を打つ稽古も入れたい。とりあえず、景太にも木刀まがいを持たせ、切り返し。本当は掛かり稽古や地稽古がしたいが、それには防具がいる。当面は無理っぽい。最後に日本剣道型を一通り。これは昇段試験の項目なんで有段者は誰でも覚えている。十の形まで。景太に付き合ってもらう。
午後の遊び時間は概ねこれに当てる。
子供のすることじゃないと思うし、前世の俺は子供の頃は遊んでばかりだった。
でも戦に出るとなると、体がついて行かないと死ぬ。そして負けるとゆくゆく一族が滅ぶとなるとそうも言ってられないのだ。ゲーム機とかアニメとか暇つぶしもないし。
指揮官は直接戦っちゃダメ?そういう時代じゃなさそうなんだよ。
焦燥感に衝き動かされるように、体を動かす。そりゃぁ、負けると死ぬとわかってれば気合の入り方も違う。
でも景太は不満そう。付き合わせてすまんなぁ。
たまに四郎が遊んでほしそうにするので、その時はできるだけ付き合う。半刻位なら鍛錬は後に回せばいいし。
まだ四つの四郎との遊びは、主に鬼ごっこ。南庭の庇の前で範囲を決めて、とことこ走る四郎に合わせて、俺と景太はハンデとして三升(約5リットル)程の小さな叺(藁で編んだ袋)に土を入れて、縫い付けた縄で背負う。重さは四貫(約15kg)程。当然こちらもヨロヨロ走る。
遊びのストップダッシュやボディコントロールは、非常時にも役立つと思っているし、四郎は割と熱をだしたりしやすいそうなので、その辺の体質改善も図れる。なんせ我家の期待の大将軍候補だ。
四郎がもうちょっと大きくなって、お付きの人数が増えるたら警泥とか達磨さんが転んだとかいろいろ教え込もう。
ウチの三の君は、母上の最初の女の子だ。前妻との間に姉二人が居るんだが、もう出仕しているそうで、頭を打ってからまだ会ったことはない。
三の君は一月に生まれたばかりの赤ん坊だった。手足がぷにぷにしている。夜はよく泣く。でもかわいい。生理的遠視でまだ良く見えてないみたいだが、動くものを目が追っている。こっち見て笑うとそれだけで魅了される。きっと美人になるだろう。
生まれたての赤ん坊がいる。それもあって、頭を打って寝ている間、俺は母屋の外の庇で寝かされていたらしい。
(この時代の)白粉は(たぶん)赤子に良くないから、できるだけ口に入れたり触れさせたりしないように、と、母上に念を押しておく。できれば使わないでほしいとも。多分鉛白だ、即急に代用品を考えないと、母上の肌が荒れてしまう。というか間違いなく健康を損なう。
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清盛は悩んでいた。元々体の弱かった帝の体調が、最近特によろしくないと言う噂が耳に入ってくる。しかし関白の藤原忠実様が、人の出入りを著しく制限するので、詳しい様子がはっきりわからないのだ。当今が倒れられたとして、平家がお支えしている重仁親王が践祚なされれば問題はないのだが、今は忠道、忠実の親子が仲違いしていて何を言い出すかわからない。
「お顔の色が優れませんが、政のことをお考えですか?」
後添いの時子が聞く。目がハッキリしてやや大きめなのは流行りの顔ではないが、整った顔立ちでいい女だと思う。細かな気遣いもできる。締まった顔立ちは儂の好みだ。藤原の娘はたいていふくよかすぎる。これも流行りではないが胸の豊かなのもいい。以前の同僚の平時信殿の娘で向こうの家柄も殿上人である。
しかし初めての子である三郎が先日頭を打って死にかけた。気がついたあともなにやら様子がおかしいと聞く。そちらも悩ましい。そろそろ元服の準備にかかる頃だと言うに。
「三郎は、読み書きができなくなったそうだな。他にもいろいろ奇矯の振る舞いがあるとか」
「それは…」
時子が少し涙ぐむ。それもなかなかそそるがさすがに息子一人の将来を考えると悩ましい。
「頭に病があるとすると、寺に入れる位しかないか。引き取ってくれる寺を探さないとな」
「殿…もう少し様子を。母親の贔屓目としても、受け答え等からは頭がおかしいとは思えませぬ」
「そうか…(本当に贔屓目だけでないと善いのだが)」
「それと、時々不思議なことを言います。 先日も、白粉は赤子に良くないとか…」
「その辺りも、頭を打ったせいでないと良いのだがな」
思わずため息が漏れる。
「そんなことは…とりあえず気をつけておりますが」
時子がまた涙ぐむ。
夫婦の心配は尽きないようだ。
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ツラツラと三郎が目新しく思ったことを。今回説明回です。流し読みしてもらっても大丈夫。
この小説は一人視点FPSみたいな進め方をするつもりですが、三郎以外の視点の時は
++
が入ります。もちろん三郎の知らないことが多いです。
清盛の屋敷については、
Wikipediaの『寝殿造り』の付属の図を参考にしています。太田清六さんかなぁ。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/47/G050-rha.png