宗盛記0038 保元二年十一月
保元二年十一月霜月
寒くなってきたので、是行に頼んで届け物をしてもらう。宛先は仁和寺に入られた重仁様。
新院、今は讃岐院と呼ばれている方の元皇太子。持っていくのは蕎麦殻枕、羽布団、湯たんぽの三点セット。価格としてはたいしたものではない。湯たんぽの加飾の完成度が上がっているが、別に機能は変わらない。
「寒くなってまいりましたので、ご自愛下さい」とのみ記す。名前は書かない。かなりの綱渡りだ。最悪俺は家を追われるかもしれないなぁ。それでもこの布石は必要だと思っている。
平家があちこちで振り捨てた義理は、やがて反乱の兵力になって返ってくるだろう。それを少しでも持ち直させたい。
というか、崇徳院のウチへの恨みを、少しでも軽くしたい。
多分、お祖母様は何かをしてる。お祖母様の性格上自分が乳母であった重仁様を見捨てることはできないだろう。しかしはっきりとした形ではできないと思う。なにより、頼盛叔父上に新帝側に付くように勧めたのはお祖母様だから。
重仁様には当然監視の目はあるだろうから、見つかるのは覚悟の上だけど。
頼盛叔父上に長男誕生とか。頼太となるのかな。御祝に行く。久しぶりに牛の張子を作って持って行った。
二の卯の日に大嘗祭が行われた。派手好きの帝らしく、大規模なもので、ウチもかなり献金したらしい。
大きな儀式と言うのは失敗してはならない。貴族の存在意義はこのためにある…そんなはずはないんだが、みたいなことになっている。儀式は毎回選任された上卿が責任者となって執り行われる。上卿は出席者の臣下の最上席か次席、三席、つまりは大臣か大納言辺りが就く。だがそれは当日のことで準備は違う。
大嘗祭の斎行地は、大内裏の中央南に位置する朝堂院の前庭にあたる竜尾壇の庭と決まっている。この場所が平安京の中心である。当然準備は中務省の官が中心で行うが、内裏での行事も多く、この準備を取しきるのは蔵人所と内侍所である。
一代に一度の行事だからと蔵人の俺も駆け回った。今度の蔵人頭使えね〜。特に公光殿。女官も含め、評判だだ下がりである。
関係者は疲弊した。もちろん俺も。帰って寝たい。
豊明の五節の舞姫が美しかった。でも維子姫や章子姉上はもっと美しいと思う。密かに自慢の叔母と姉。
泉作が新たに試作の陶板を持ってきた。期待の鉄釉は、色々試した結果十分に赤くなった。
一般に絵具や塗料の明るい赤は水銀朱、丹を使う。伏見の千本鳥居みたいな色が出る。しかし高温にすると沸点の低い水銀は飛んでしまうので焼物には使えない。もちろん染料の赤は焼けて色にならない。
昔日本画の講座を聞いていて知ったのだが、溶媒に溶けて分子サイズになる染料と違って、鉱物を主とする顔料は粒が細かくなるほど色が鮮やかになる。例えばよく見る緑青は白っぽい緑だが、細かく磨った緑青は鮮やかな緑になる。弁柄も同じ。より乱反射が強くなり、分子が吸収できるエネルギーも小さくなるので反射が強くなって明るい色になるのである。
それで先月渡した鉄錆は、水簸した粉を焼いてさらに乳鉢ですりつぶして、もう一度水簸をかけた可能な限り細かいものと、それより少し粗いものを渡しておいた。今までで一番発色の良かった地の釉に合わせて焼くようにと。
それが今日の結果だ。
銅の精製の過程で出る微細な酸化鉄を使った備中高梁の吹屋のローハ弁柄、これを使った柿右衛門のような鮮やかな赤はまだ出ないが、まぁ十分に赤いと思われる程度の色。後者はほんの少し茶色がかった赤。しかし目が細かくなると水簸に一日とかかかるようになるので、そろそろかけた時間の割に彩度が上がらなくなってきた。赤の釉の開発はそろそろ終わりかな。
「今後はこれでいこうか」
「はいっ!」
いや、そんなに嬉しそうにされると、俺も嬉しくなるよ。顔がニヤけるのがわかる。
無数の試行錯誤を繰り返してくれただろう、泉作の頑張りに感謝である。
今日は鑢を渡して、鉄釉の作り方を説明しておく。鉄釉は割と高温に耐える釉薬なんで、本焼で使える。つまり呉須が手に入りにくい現状でも、下絵に使える。一色だけで使うと赤絵になる。
実は日本の陶器に複数の色がつくのは、奈良三彩など一部を除けば本来なら室町時代に入ってからのはずだ。中でも明るい赤は柿右衛門から。その辺の時間を三百年程一気に詰めてやる。これで大陸からの陶器の輸入を減らせたら、日本からの代価としての鉱物流出も減らせる。
磁器と色数を除けば大陸の陶器には割と近づいてきたかな。国産の呉須が無いのが残念。俺は鉱物とか詳しくないからなぁ。
次来るとき、釉をかける前の素焼後の小皿十枚と緑釉、鉄釉を持ってくるように言う。ちょっと遊ぼう。
釉薬の開発のついでに、おろし皿とすり鉢を頼む。どうせ親戚、関係者一同にも配ることになるので、まずは三十組位。
幹矢も荷車の納品に来た。月産三台位になるようだ。当分は俺の発注に手を取られるか。親しい大工が居れば紹介してくれと頼んで居たので、知り合いの大工を連れてきてくれた。名は梁夫。ああ、親も建築関連だな。よく分かる。
仁助も滑車を持ってきた。
早速、井戸に掛けてみたいと父上に頼む。そんなことをやっていたのかと驚かれたが、許可は貰えた。
やってることはそんなこと程度ではないが。
今までの物と取り替えて、もとからあった水桶(…というか、四角い水箱。桶はまだない)を取付けて試してみる。動滑車一つと円周比二倍の輪軸一つ。輪軸の大輪側にハンドル、小輪側に巻き上げのドラムをつけて、井戸脇に固定。途中にベアリング入の動滑車を入れたのでほぼ四分の一の力で上げられる。逆転防止のカムストッパーも付けてもらった。これは子供でも上げられると雑仕達に喜ばれた。いくつか増産を頼む。もちろん井戸以外にもクレーン、キャプスタンなんかの転用を考えている。
鉄雄からは鋸と三角定規とコンパスの納品。あとペン先改。
30°60°のものを調べる。60°の角を六つ合わせると、隙間なく合わさった。30°の角を六つ合わせると、直線になった。いい仕事をしている。他の職人が驚いている。というか作った鉄雄も驚いている。45°の方も、4枚合わせると直線になる。これも驚いている。泉作、仁助、幹也、鉄雄、圭介、梁夫に一組ずつ渡す。俺の分もある。みんなとても喜んでいる。ペン先の追加とコンパスも届いた。嬉しい。別に梁夫との共作を頼む。
少し改良したペンを試す。インクは墨を使うので、中の膠が固まるとペンへの毛管現象が詰まって墨が上がらなくなる。そのためいつも水の入った壺に入れておくが、溝自体も広めにして詰まりにくくしてみた。いい感じだ。墨の保持量が多くなって、線がかすれにくくなってきた。
三角定規で作図すると、皆の眼の色が変わった。さすが職人、これがどう影響するかすぐに悟った様だ。
つまり、相手の希望するイメージが言葉なしでも正確に作り手に伝わるのだ。一寸一分まで。しかもそれを保存できる。これは物作りの基本だと思う。
次は分度器だな。作り方を説明する。コンパスを使って、径一尺一寸四分六厘の半円を作り、三角定規で三十度ずつ目盛りの線を刻んでから、三寸の糸に一分ずつ印をつけたもので目盛りを刻んでいくと、半円が180分割できる。と図を描いて説明したが誰もよくわかっていないな。なんせ円周率を知らないから無理はない。とりあえず言ったとおり作ってもらう事にする。
修正液は膠で溶いた胡粉しかないのが残念だが、これで基本の製図道具が揃う。
建築学科の初年度の授業はひたすら製図だった。これができないと、建築士の試験にも通らない。次は三面図の概念から教えないとな。
あと別口で頼んでいたケースを受取る。手のひらくらいの大きさの金属のケースで、間にはスペーサーとして陶片が入って爪で固定している。内側も外側も蓋側にはいくつかの穴が開けてある。これもいくつか追加で注文。後は当分は鋸の増産に専念してもらう。
うちと炉を使う職人達の使う炭の自然に割れて小さくなったものを、集めて貰った。産廃である。これを小麦粉の糊と混ぜて小判型の型に入れて固める。天日で干して固めれば炭団が出来る。本来は布海苔で作った物がよく売れたらしいが、当分は試作だし手に入りやすい材料でいいか。多分デンプン系の糊なら何でもいいはず。燃やせば二酸化炭素と水だけに分解するから。コスト的にだいぶ違うようなら切り替えよう。布海苔は漆喰で使うから市にあるだろう。
これを火桶で熱したあと作ってもらったケースに入れて、二重の麻布で作った巾着に入れると、カイロの出来上がりである。寒さが厳しくなってきたので、首から掛けると大層暖かい。ポケットないからなぁ。
騎射の稽古はそこそこ進んだ。騎射では立射と違って弦を引ききらない。口元手前まで引いて放つ。その感覚が馴染んできて時々当たるようになった。景太には負けっぱなしだが。
騎乗の太刀の使い方は俺の方が上手い。馬を走らせて立てた竹を斬るのはどの高さでも失敗しなくなった。正月に襲撃された時は、よく倒せたなぁ。あれが幸運だったといまではわかる。
葡萄襲と山茶花の枝を持って姫詣で。この時期、山茶花以外の花が少ないないんだよなぁ。去年もこれだったなと思いつつ、本数が減ったことが寂しい。
襲はジャムの方が日持ちするようで、栗餡はそろそろ使えなくなってきた。ジャムに比べて糖度が足りないせいかも。次は何にするかな。
この頃はかなり寒くなった。時々雪も降る。冬至も過ぎたし、今頃は新暦なら正月近いはずだ。割と着られるものの決まりがうるさいので、防寒具が好きに作れないんだよ。変なもの着てうつけの評判高めたくないし。本当ならどてらとかコートとか用意したい。マントもだめだろうなぁ。
カイロひとつを頼りにしばらく寒さを我慢して移動し、時忠殿の屋敷に通される。火桶の火が嬉しいです。
中は蔀で光を入れるので、閉め切らない限り外気温と室温があんまり変わらない。姫達は火桶と重ね着しまくりで耐えてるんだとか。十二単はこのためにできたんだろう。
貧しい庶民は耐えられなくて死ぬ。
近況を伝えて駄弁る。
信西の評判が極めて悪いらしい。保元の乱で死んだ頼長殿の所領は全部没官(収公)となったが、その実質的な管理は全て信西のものになったとか。立場を使って一族の位をどんどん引き上げてもいるらしいが、その辺うちもだからそこは悪く言えないか。
人を苛立たせているのが、信西は極位正五位下に過ぎず、しかも僧侶だということだ。ただ今上(雅仁帝、後白河天皇)の側近の権威でのみ信西が権力をふるう。位階の枠の中にいない信西を、他の貴族は掣肘することができない。
元々の約束では、守仁親王様がご即位する準備ができるまでのつなぎの筈だった今上とその側近の専横は、一般の貴族にとっては非常に違和感の強いものだ。その上、本来俗世に関わることのない筈の僧侶が最大権力者であるという、この体制自体の歪さがより不満を高めている。
でもこの体制を作り上げたのは帝だ。あえて信西に好きにさせる根拠などなにもない。
このあとのことを知っている俺には、この不満自体が意図して作り出されたものに思えて仕方がない。
「ねぇ、なにか心配なこと、あるの?」
考え込んで黙ってしまった俺を、清子が気にしてくれる。
「ん、ごめん。仕事に関わってくると嫌だなって」
「ちゃんとお仕事してるのね。もう半年だものね」
と信子姫。
こんな時間も後何年続けられるか。
平治の乱の後は難しいかもな。
山茶花の 垣根を曲がる 道すがら
落ち葉焚く火に 心楽しむ
歌才なんてないのに追い詰められて、今回は丸々パクリです。でもこれはこの時代ではわかんないだろう。




