宗盛記0023 保元元年閏九月
保元元年閏九月。
物心ついてから、つまり樹から落ちてから初めての閏月。九月が二回あるなんてお得…かな。
閏月は、春分、夏至、秋分、冬至が、二月、五月、八月、十一月に必ずなるように調整するために入れられる。この計算ができるというのが凄い。相当高度な天文計算の技術もあるのだ。ごく一部に。暦は陰陽寮の管轄。この時代は陰陽師が暦を作っている。それらしく色々注釈がついているらしい。
高島易断暦みたいなものかな?ちなみに元服前の俺は貰ってない。
柿の木から落ちたときに、元の三郎はどうなったのかと考えることがある。その時にそれまでの三郎が死んで、今の俺は単に空いてた死体に憑依した死霊みたいなものかと考えたこともあるが、それにしては結構発音も単語も違う言葉がすんなりと入ってきた。母上も初めから母だと思ったし、父上や兄弟も最初は分からなかったがすぐに馴染んだ。
転生時に仏様が出てきてチュートリアルをしてくれる、とかいうこともなかったので、本当のことは分からないが、今のところ三郎の記憶がほとんど飛んだ代わりに、前世の俺の記憶を思い出したのだと思うことにしている。一族を生かすことへの強烈な執着も、三郎のものだと考えるとしっくりくるのだ。
一族がどうでもいいなら、父上が死んだ途端に頼朝に降伏すれば、少なくとも俺と家族くらいは殺されずにすむかもしれん。
でもできそうにない。それがわかるからクソしんどい稽古を続けていられる。結局根本で俺を動かしているのは、元の三郎の魂ではないかと思うことがある。
約束の外出に先立って、俺に家人が増えた。
山田小三郎是行。
二十八歳。父上の家人からの異動で官位は無いが、領地はある。父親は庄司で正六位上、元右近将監。れっきとした官人だそうだ。先の乱で左肩に怪我をして、弓が引けなくなったのもあって、俺の近習をやってくれるという。ありがたい。
「是行殿…是行はどこの出なんだ?」
こんなガキがタメ口なのはこっちのほうが抵抗があるが、必要なことなのだ。スマン。
「伊勢の山田というところに家伝の領地を持っております」
「神宮の近くの?」
「いえ、北の、鈴鹿の近くにも山田という村がありまして」
「鈴鹿…というと椿神社の近くとか?」
「おお、ご存知ですか。椿神社は氏神様になります」
伊勢一宮だ。かなり広い。
「いつか行ってみたいな」
「是非に」
鈴鹿…サーキットってでそうになった。関西圏は建物見学でよく旅行していたので…もちろん前世だが…大きな寺社の大体の位置はわかる。
十八日。保元新令が宣じられた。荘園と宗教勢力の規制。新たに荘園を立てることと、荘園の周辺の公田を取り込むことの禁止。寺社の横暴の規制に寺社が行事の寄進の名目で荘園を拡げることの禁止。
名君と言われた後三条帝の政策のパクリらしいが、かなり的を得た法令だと思う。公田の荘園化こそが、貴族から武士への権力の移行の根幹なのだとわかっているらしい。
でももう遅いのだ。
いい加減な統治で地方へのフィードバックを考えずに税収の確保にのみ専念した公家(の国司)は、やがて赴任すらしなくなり、税の徴収を田堵負名と言われる地方有力者に委託して、代わりにその領地化を追認してきた。
摂関期後半から院政期に入って、貴族に十分な知行を与えることが困難になった朝廷…というより摂関家は、知行国制度と言うものを生み出した。国司の推薦権を個人に与え、国司からの上納を収入としたのだ。この体制になると、国司は自分の利益の他に知行国主の利益も確保しないといけない。低年齢の少年国司や権門家司の国司が表れ、地方への還元はより少なく、収奪は一層苛烈になった。
領地の所有権と収入を確立するために、負名達は領地の名目上の所有を荘園という形で貴族や寺社に委託し、これが全国津々浦々まで浸透してしまった。それどころか、奈良時代以前に開拓されて公領だった土地すら、私領化されていく。畿内の国など公領が2割を切る所も出てきた。
負名達は自分の領地を守るための武力闘争を通じてほぼ武士化した。摂関期、院政期を通じてそれが加速した。
今や無数の武士こそが土地の統治者であり、朝廷はそれを承認する機関なのだ。
実のところ、その点では権門(荘園主である貴族や寺社)と、公領の唯一の所有者である帝の間ですら、利害対立がある。
今回の信西の政策も、こころよく思っていない権門は多いはずだ。
地方の武士にとっては、自分たちこそが生産力と武力を直接握っている。なのに収奪と介入だけしてくる都なんぞは、可能ならなくしてしまいたいものになっている。
二十二日、経盛叔父上が常陸介就任。守から介への異動は一見降格に見えるが、常陸は親王任国なので、常陸守は名目上の職で親王全体の財源にすぎない。常陸介が国庁行政のトップである。他に親王任国は上野、上総。後世有名どころで織田上総介(自称)や吉良上野介なんてのが居るが、上総守や常陸守なんてのは武士ではいない。よくわかっていない刀鍛冶なんかではいるんだが。
頼盛叔父上が七年前からの前任、その前は家盛叔父上が前任なので、常陸は平家の坂東における拠点となる。平国香以来の武門平氏の故地でもある。
安芸守の後任は頼盛叔父上が交替で就任。常陸介は頼盛叔父上から経盛叔父上、安芸守は父上、経盛叔父上、頼盛叔父上と移ることになった。
頼盛叔父上は継室(正妻の後妻)である御祖母様の息子なので今の平家のナンバー2なのだ。ただし今後は重盛兄上が父上の後継となる。
もちろん安芸は平家が離しません。
月の末になって紅葉の色が少しずつ赤に変わる頃、漸く外出の許可が出た。と言っても時忠殿の所まで。伴は是行、秀次、景太と、全員連れて行くこととされた。まぁ、十の子供なんだから仕方ない。
その日の朝、母上と吉野の目の色が変わっていた。怖ろしい張り切りぶりに、泣きそうになった。
まずは髪型から。美豆良に結うとか言い出したので、断固拒否。
美豆良というのは埴輪がやっている髪型。ツインテールの束を輪にして耳元で結ぶ。
「母上、吉野、童殿上ではないのです。すぐそこの叔父上の家に行くだけなのですよ!」
「あらそう?せっかくだから美豆良にしてみない?一度見てみたかったのよ」
「どうしてもと言うなら、今日は行けないと使いを出します」
普段の俺は髪を後ろで括った、垂髪、という髪型だ。ポニーテールともいう。宴や宮参りの時などは左右で結って垂らしている。二筋垂髪という。恐ろしいことに、ツインテールなのである。これは、貴族の子供の正装が美豆良という訳のわからないしきたりによる。
今日も二筋垂髪は我慢した。だが埴輪のコスプレなんぞしたくはない。ツインテでもMPがゴリゴリ削られていくというのに。さらにそれを六の君に見られるとかまっぴらだ。一生ネタにされて笑われそうだ。
着物は上が白の童直衣、襲は紅。下が茶の括り袴。ここまで決まるまでに何度も着替えさせられて半刻を費やした。
「あの子達にうちの三郎を自慢しないと」
達?達ってなんだよ?
東に開いた総門とは逆の、五条未(五条の延長に繋がる道)の西門から柵を出る。六波羅の柵の内側を、五条未の道が走っていて、うちと六波羅蜜寺が柵の北の端になっている。だから五条通りを進む葬列は、橋を渡ったあとは柵内に入らずうちの北側を回って、六道珍皇寺の北側を通って東山に向かうらしい。まぁ、葬列でなくても庶民は北側に迂回させるらしいが。
ちなみに戦の後、六条未(六条の延長に繋がる道)までだった六波羅の領域は、南にどんどん拡がっているそうだ。
柵を出てすぐに鴨川で、そこに架かる五条の橋を渡って二町も進むと時忠殿の屋敷だった。四町程か。五町というのは、母上の御帳から時忠殿の屋敷の六の君の部屋までの距離かもしれない。まさに近くのコンビニ感覚。
大人が全力で走れば一分ちょっと位の距離を「馬で遠出」してきた俺の立場って…
六の君訪問、2回に別れます。
第一章は翌年二月の元服までとなります。
紙の博物館として、三郎の知識の元になっているのは
https://kamihaku.com/
https://www.echizenwashi.jp/facility/museum/
の二箇所。
オススメですので近くに行かれた際は覗いてみて下さい。コスパいいです。




