宗盛記0019 保元元年五月、六月
保元元年五月皐月
雨が多い。
残念ながら保元の乱がいつ始まるかはわからない。そこまで覚えていない。が、鳥羽の法皇様がお隠れになれば、この微妙な緊張は戦を呼ぶだろう。
父上は連日帰りが遅くなった。俺はといえば、母上が三の君と四の君にかかりっきりなので、読み書きの手習いは減った。代わりに外からの先生による有職故実とかが増えた。祭の日の所作とか、服装規定とか覚えろという。
六の君が来なくなった。和歌の手習いも終わりになった。裳着も確かに理由だろうが、世情不穏な外に出したくない、という思いもあるのかなと思う。
正直、姫の持ち込んでくる噂話が聞けないのは痛い。秀次を除いて、大人達はそういう話は俺に聞かせようとはしない。
それでなくても姫からは元気をもらっていたことに気づく。
木の枠に貰った端切れの布を張って、簀を作る。
最初は反古紙を煮て使ってみた。欲しいものはできなかった。できたのは質の悪い紙。
そうか…むしろもっと悪くていいんだ。
集めた木片や藁なんかを、平な石に乗せて木槌で叩く。叩解という。とりあえず三千回ずつ。これを灰を水に溶かして放置した上澄みで煮る。ドロドロになったら火から下ろして布で漉す。水を足して何度も漉す。これを繰り返した後、酢と赤紫蘇の絞り汁を少し入れた水に入れる。赤い。またドロドロに煮る。色が落ちてくる。酢の臭いはするから紫蘇の中のアントシアニンが熱で分解されたのだ。火を止めて、水で薄めて、漉す。これも秀次に買ってきて貰ったネリ(トロロアオイの粘液)を入れて薄い懸濁液を作って簀に流し込む。パルプ紙作りである。ただし簀は揺すらない。そのまま乾かしておいた。これを量を変えながら繰り返す。厚みの異なる各種の紙ができた。
それぞれの材料で一通りできたら次のテストに移ろう。
稽古に新しいものを入れる。秀次に鏃を外して鏑矢の鏑の前方に真綿を詰めて何重にも布で包んで縛った矢を射てもらい、俺が躱す。目に直撃しなければ、大きな怪我はしないだろうが、一応手持ちの盾も用意した。盾の表面にも布を重ね貼りしている。どちらかというと鏑の保護のため。最初は怖いので、五段(54m)程離れる。
「いいよ。射て」
と声を掛けたが躊躇っている。
「これだけ離れれば大丈夫」
漸く決心したのだろうか、弓を引いて、放つ。
ビュォウ!ガンッ!
盾に衝撃。これは。思っていた以上に激しいな。1秒かかってない?時速200km位と書いてあったが、もっと早いんじゃないか。
「大丈夫。続けて」
よく見れば見える。が、ちょっとでも目を離したら見失うだろう。音にも助けられている。この避け方ができるのは相手が一人の時だけかな。
とりあえず十本射てもらう。
二本避けそこなった。かなり痛い。急所はなんとしても避けないと悶絶しそう。
終わった途端、秀次がへたり込む。
秀次の消耗は俺より遥かに激しかったようだ。
保元元年六月水無月。
馬で時忠殿の屋敷に、というのは許されなかった。が、伴の者付きなら六波羅内の馬での移動は許された。馬を走らせるのは禁止。
六波羅の内には、六波羅蜜寺がある。六道珍皇寺は五条北で柵外。外からくるものは、門で許可をもらってから六波羅に入ってくるので、垣の内は外ほど汚くない。死体もまず見ない。たまに嫌がらせで柵内に犬の死体や手足が投げ込まれたりすることはあるらしいが。
池殿は六波羅蜜寺の南側にあった。ウチよりでかい。ホントに大きな池があるんだそうだ。六波羅では六波羅蜜寺に次いで古い建物なんで、造成時の土盛とか少なかったとかじゃないよな。
それなら洪水とマラリア怖いなぁ。外からは築地塀しか見えないけど。
そのまま街を廻る。池殿の西に教盛叔父上の屋敷。ここは通称が無い。南に進むと経盛叔父上の屋敷、門脇殿。その横に広場があって、東側に総門、巨大な冠木門が建ててある。東に向かって軍を出撃するための門だとわかる。そこからは区画が狭くなって家人の館が続く。
ちなみに家人は父上や叔父上達と臣従関係にある家臣。基本地方領主や官人である。名簿を捧げて必要に応じて動員されたり技能で奉仕したりする代わりに、官位を推薦してもらったり、大きな敵や権門から土地を護ってもらえたりする。給金はあったりなかったり。割とヤクザ風のシステム。
単純に給金と労働を交換する雑色(男)や雑仕(女)の様な雇人や、金銭的に大きな金額で長期の制約を持つ、緩やかな隷属民に近い下人とは違う。
ウチのような武家貴族も、より上級の皇族や摂関家の家人となることは多い。ただし、帝や院に対しては元よりの臣下なので臣従しても家人とは言わない。源頼光の四天王とかが家人で、頼光自体も摂関家の家人であった。
馬で進みながら見ていると、どの家にも人の出入りがあり、どことなく緊張感がある。
屋敷に居てもほんの少しずつ、戦の匂いがする。運び込まれる米を載せた車。取り出された武具の数々。厩には増えた馬。顔を知らない侍…。
ある日庭に出たところで父上に呼び止められた。
「三郎、なにか感じているか」
「戦が近いのですね?」
「気になることは?」
「最近は米の搬入も一段落のようですが、松明などは用意がお済みでしょうか」
「夜戦があると思うのか?」
「むしろ仕掛けるのが良いのではと。投げ込むことを考えて柄の長い物を多めに」
「他には?」
「強弓の将がいると聞きました。節を抜いた太竹を一面に連ねた物を、前後で斜めに交差させ、中には石と土と水を入れればいかに強い弓でも通らないと思います」
ざっと地面に図を書く。竹は////というのと\\\\というのを作ってX状に交差させて立てる。大盾の様に後には脚を付けて支える。粉粒体の衝撃吸収。こうすれば多分銃弾でも通らない。
「鍬や円匙(スコップ)なんかもあったほうがいいかな」
「そうか」
「前方で会敵したら少し後でこれを立て、少しずつ詰めれば圧力をかけられます。負傷者の収容もできるかと」
「ふむ」
「後、怪我を負ったときは酒精をかけると傷口が膿にくいようです。酒精は用意してあります」
「どちらが勝つと思う?」
「父上がついたほうかと」
「あいわかった」
奥に入ってしまわれた。
御霊会も今年は盛り上がらない。一族で集まることもない。都中が息を潜めている感じ。
ちょうど俺が生まれた年。父上は祇園社に願文と田楽を納めるため、芸人とその護衛として郎党を送った。
なんでそんな事になったのか、祇園の神人に武器の所持を咎められて諍いになり、郎党の放った矢が宝殿の蔀に当たったらしい。怪我人も出た。祇園社と争うつもりなどなかった父上は、平謝りで郎党七人を検非違使に引き渡したが、祇園社の本寺である比叡山の大衆はこれを騒ぎ立てて、お祖父様と父上の流罪を強訴した。力を付けて重用されていく武家に対する反発もあったのだろう。鳥羽院はこれを認めず、兵をやって守らせた。
この時公卿のうちでは下手人の処罰だけで良いと意見がまとまりかけたが、父上の責任を最後まで主張したのが藤原頼長殿。
結局鳥羽院の裁定でウチへの罰金刑となったが、その結果に不満をもった比叡山の大衆に、非協力的だった天台座主の坊が襲われている。
これをなだめるためにウチは荘園を比叡山に寄進した。
この件があってから、ウチと頼長殿の間には微妙に距離ができた。
この辺は恨みの籠もった母上からの情報。話す時の表情や抑揚が六の君に似てるなぁ。流石は姉妹。
ということはウチは歴史通り帝側か。
結局その帝によって滅ぶ…のは回避しないとなぁ。
道を確認しておく。外に出たことのない俺は、この時代の道を知らない。秀次に都近辺の地図を手に入れて貰って三人で検討する。途中ではぐれた場合も想定しておかないと。
地図と言っても丸の中に地名があって、後は道が線として描いてあるだけのもの。でもまぁ、この辺の地形はグー◯ルマップで何回も見ている。
道以外の所も通れると思うだろうが、平地はたいてい農地だ。そうでなければ湿地だったり藪だったり。なんらかの障害があると思っていい。
山地で道以外は少なくとも馬では通れない。バイトで山地測量を何度かやったからわかるが、藪漕ぎは山道の数倍できかない位しんどい。
もし父上が敗北した場合、そのまま六波羅が攻められる確率は高い。白川から来るとすると当然六波羅で一番北側にあるウチが標的となる。脱出は家の南の裏門からだな。六波羅の東側の総門が最初に封鎖されるだろうが、軍勢に対しては柵なんてすぐに破られる。これも南の七条側に抜けるしかない。
どうせ清水寺と阿弥陀ヶ峰の間の1号線ルート(仮称)は最初に封鎖されるだろうし、粟田口から一切経谷を抜ける山中越も無理だろう。伏見から回り込んでも逢坂の関も厳しく検問されるだろうから、山科は諦めて六波羅の南側の柵を破ってそのまま南に落ちるしかないか。
奈良街道で伏見と巨椋池の間を抜けて宇治、そこから国境を進んで奈良、大和街道通って伊賀、伊勢に落ちる。伊勢神宮の近くには景経の実家もあるしな。
興福寺の僧兵の動きが気になるが、自分の地盤だと思っている奈良側はむしろ抜けやすいかもしれない。
六波羅の南側の方、柵がボロくなっている辺りを調べておく。掛矢をひとつガメておいて、近くに隠しておく。後は金だが、これは母上に頼るしかないかな。
それでも三十日には夏越に向かう。今年は祇園社までだと言う。十町程。護衛が五十騎程。物々しい。
それが戦の前に六波羅の門外に出た最後だった。




