宗盛記0114 応保二年三月 慟哭
応保二年三月弥生
桜がそろそろまばらになり始めた。
今月も市が始まった。午前は上西門院に出仕して、経盛叔父上と打ち合わせ、午後は市開きである。五十一の廛の申請者の顔ぶれはほぼ固定しているが、それぞれのテナントは結構入れ替わりがある。今月は豆八は居ない。国家写宗近を買った刀屋は続けて店を出している。ここは刀や薙刀、鎧や兜なんかの兵具を扱う店のまとめをして店の申請をしている。売り物を保管する簡単な小屋組もしてあり割としっかりした店だ。昔からの常連の商人はできるだけ同じ場所を取りたがる。この辺の交渉だけで、ショバ代を払っても五十一の廛の代表の店主は、それなりの利鞘があるようだ。
俺に袖の下を送ろうとする者も居るが額の大きいものは断る。下にも断らせる。ちょっとした差し入れ程度はうるさく言わない。俺も貰う。店側のメンツや安心もあるのだ。
実は兵力を常置している俺の収支は赤字である。でも家としてはその辺軽く無視できるほど銭の交換所が利を出してくれている。儲けの構造は作った。うまうま。やってることはかなり黒い。
そこそこあったらしい刃傷沙汰など当然のように無くなった。武器を持って暴れたりすると俺の家人に斬られるから。怪しげなのは市に入っても来ない。
居丈高に威張る貴族の家人なんかも追い払う。そもそも五位までの貴族は俺の名前だけで引っ込むし、皇家か公卿でもなければ父上の名前で引っ込む。貴族はそもそも情報が行き渡っているので、ウチと争う気がなければ揉め事を起こさない。治安が劇的に良くなって、下役も商人も大喜びである。客もかなり増えた。ずっと居てくださいと言われるがそれはちょっと無理だろうなぁ。
代わりに巷所の私設市の治安が悪化し、客も減ったらしい。ウチから人を出すことでそれも回復してきた様だ。おかげで銭の売り上げがかなりあがっている。
時々刀屋で試し切りしておひねりを貰いつつ、後は店をひやかして回る。そろそろ醸造部門を出店するかなぁ、とか考えつつ、旬の野菜や果物、唐菓子なんかを買っていく。
そんなのんびりした日は五日も持たなかった。
五日
その日の市も終わりに近づき、そろそろ閉門も近い頃、六波羅から急使が飛び込んできた。
宇治にでかけていた基盛兄上が襲撃され重傷。
市司佑の橘良通に後を任せて急いで基盛兄上の屋敷に向かう。父上や重盛兄上、経盛叔父上と頼盛叔父上も既に集まっていた。
宇治の橋を渡っている最中に、数人の男に弓を射掛けられ、兄上が腿を射られて落馬したとのことだ。護衛の者も二人死んだ。
犯人は取り逃がしたという。更に悪いことに、鏃に毒が塗ってあったらしく、直ぐに矢は抜いたが毒が回ってかなり容態が悪い。戦なら敵味方から総スカンを喰らう所業だ。祈祷の僧を呼んで祈らせているが意識も戻らない。
毒はトリカブトのものかもしれないという。
怒りで脳の血管が脈打っているのが分かる。
平家の子供に生まれた以上、誘拐や暗殺はありうるものと頭では分かっていたものの、家族がそういう目に遭うとは、考えていなかった。
基盛兄上の伴の家人達が、矢を持ち帰っており、それをもとに調べが始まっているが、物証はそれだけらしい。射手の人相は顔半分を隠していて不明。全員が真っ黒な直垂と袴、胴丸と兜を身に着けて目だけしか出していなかったとしかわからない。
実際、都の治安はそれほど良いものではない。野党の類はしばしば近国の武士だったりもする。とはいえ、平治の乱で最大の勢力となった平家を狙う勢力は、多くはないと考えられていた。
「基盛兄上が宇治に行くと知っていた者は?」
と聞くと、皆がぎょっとした顔でこちらを見てくる。
重盛兄上が
「基盛の家の者を疑っているのか?」
と聞く。
「当然です。兄上を害するつもりがなくても外に漏らすこともあります。家人、雑仕、出入りの者まで調べましょう」
と言うと苦々しい顔で父上が頷いた。
一通り調べたら犯行に使われた矢も貰えないかと頼む。市の矢を扱って居る店や職人に尋ねれば何かわかるかもしれない。
「基盛が襲われたと世に知らせるつもりか?」
と父上が聞く。確かにこのまま伏せてしまうのも手かもしれない。とりあえず体面を守ることはできる。しかしそうすると、犯人捜しが一層困難になる。
「あえて拡めるつもりはありませんが、隠す必要も無いのでは?これは明らかにウチに戦を挑まれたのですから、二度とこんなことが起こらない様に総力を挙げて徹底して滅ぼし尽くすべきかと」
叔父上達が知らない人を見るような目で見ているが、それはいい。これをそのままにすれば今後再犯を試みる者が出てくるかもしれない。
「例え犯行の証拠がなくても」「何かしらの」はっきりした見せしめが必要なのだ。
「お前がやるのか?」
「役向きも低く、失職しても罪に問われても影響の少ない俺が一番向いているかと」
この件の調査は主に父上が検非違使を使って調べ、犯人がある程度絞り込めたら俺が手勢で始末をつけるということになった。
とはいえ、当面は見舞い以外には祈るしかできない。行子義姉上のお腹の子に障りがあってはと思うのだが、こうなると義姉上を励ますことしかできない。トリカブトの解毒法なんて知らない。
俺は大庭景親に手紙を書いて、兵を補うことにした。
六日
上西門院への出仕は物忌のためと言うことで、お休みを頂く。
市では矢を扱っている店全てに頼んで、わかりそうなことを教えてもらう。
矢羽は隼の「手羽のナタ」。断面の太さから「開き」を使っているという。
鳥の翼や尾の羽根は左右対称ではない。羽の軸に対して広い方と狭いほうがあり、広いほうが開きだ。狭い方は櫂方と言う。ある程度の幅にしたら外側は切り落とすので、幅の広い開きの側が厚くて強い矢羽になる。手羽のナタ、も翼の先端の風切の後の羽で、要するに割といい羽だ。貴族の使う尾白鷲の尾羽なんぞという超高級品ではないが、実用中心でそれなりの目利きができて財も持ったものが用意したと予想できる。なんせこれでも普通の矢羽の十倍程の値はするのだ。
矢柄の長さは普通なので身長は中背、五尺五寸前後か。やや太めの矢柄なので腕力はあるのだろう。ほぼ間違いなく武士だ。
材は普通の矢竹で矧ぎ糸は黒。これだけではほとんど特定できない。
鏃には特徴があった。種類は普通の尖り矢だが、若干幅が広い。毒を乗せるためか雑な鑢目が入れてある。これは犯人周辺の加工だろう。
俺が見てわかるのはこの程度だが、商人たちは幅と形、中子の仕上げから大和鍛冶の物だと断言した。
その日の夜に父上に報告する。大和周辺で兄上と因縁があり、そこそこ財力もある武士…というので浮かんできたのが源親治、大和でも紀州との国境近く、五条に近い宇野の領主である。大和源氏⋯河内源氏同様摂津源氏の流れを汲む。保元の乱で讃岐院に味方し、上京するところを基盛兄上に見つかって戦いの末捕らえられた。興福寺と敵対していることにより、当時の帝、今の新院の命で許され、領地に帰された。
今では五十近いという。もちろん解官されたが、源為義親子が斬られたのに親治は許されている。親治の父親が対馬守、下野権守で大和に大きな領地もあり、この所領を醍醐寺に献上して収税権を確保しているのでそこそこに豊からしい。
まずはこいつの周りに人をやって調べさせることになった。
もちろんこれ以外にもウチに反感を持つ武士は数多く居るだろう。近くだけでも河内源氏はもちろん、近江源氏、美濃源氏なんかの保元、平治の乱の負け組は当然潜在的な敵だ。さらに言うなら坂東や九国にはより源氏に近い敵対勢力が居るが、遠すぎるし、ウチももちろんすべてを敵にするつもりはない。取り込めるものはどんどん取り込んでいくべきだ。ただ、ウチの基幹である宋との貿易関連や知行国絡みの利害関係から、敵に回る勢力はどうしてもでてくる。誰かを味方にすると、それだけで敵も増えるのだ。もちろん俺にも当てはまる。そうしてこの時代の地方武士は土地の豪族で大抵極端な脳筋、いっそヤクザに近い。
反感を持つくらいならいいが、明確に攻撃してきたものを許す訳にはいかない。
市の商人のうち、松脂を扱っている商人を探す。松脂は弓の弦を固めるのに使うからそれなりの需要はあるのだ。商人に頼んで、できるだけ生の松脂を集めてもらう。松脂はほっておくと脂分が抜けて固くなるので、採ったらすぐに水に浸して集めるのだ。これで揮発成分がだいぶ残るはずだ。もちろん市場価格より高く買うし、商人にも利ざやを約束する。今後定期的に買うからと話すと喜んで乗ってきた。下準備の一つ。
泉作に頼んで径六寸ほどの半球形の焼き物を作って貰う。実用品なんで規格さえ揃っていればいい。あと紐通しの穴の付いた取っ手を両側に付けてもらう。下準備の一つ。
鉄雄に頼んで、鉄の削りかす、鉄枌を用意してもらう。下準備の一つ。
細々とした手配をこなしながら、兄上の見舞い、上西門院への出仕と忙しい。今月も市を閉じて後処理。
自分に医学の専門知識がないのが恨めしい。
十日余り苦しんだ後、三月十七日の夜、一度だけ意識を取り戻したあと、基盛兄上は逝った。まだ二十四歳だった。
「…家の者を⋯頼む…」
それだけ話すのが精一杯だった。
身近な人の死ははじめてのことだ。
俺達兄弟姉妹はその夜泣き続けた。中でも重盛兄上は酷く憔悴していた。章子姉上のすすり泣きの声がずっと続いていた。
翌日になって基盛兄上の祈祷僧の宗範という阿闍梨が、義姉上の前で、
「本人の業が深くて、私の手には負えませんでした」
と言った。言いやがった。その瞬間飛び出した俺の手は坊主の襟を掴んで締め上げていた。
「なんと言った?もう一度言ってみろ」
蒼白になって震えだした坊主を見ても止める気になれない。このままこいつを締め殺そうと思った。
経盛叔父上、頼盛叔父上が全力で引き剝がしにかからなければどうなっていたかわからない。俺の手には引きちぎった僧衣の襟が残っていた。
涙雨の降る中行われた葬儀と、初七日の法事だけには出させてもらえたが、十日ほど謹慎を命じられた。
その間ずっと、犯人をどう殺すかを考え続けた。




