宗盛記0102 永暦二年九月 人痘
永暦二年九月長月
一日
足踏み脱穀機、唐臼、唐箕を三嶋に用意して、先発の貢納用に使っていいことにする。今年は有料のつもりだったが、非常時なので無料サービス継続である。農家にも無理を言ってるしな。
引き続き、梁真に隔離小屋の増築を頼む。
隔離していた商人が、熱がさがったから出せと騒いでいるらしい。無視しろと命じる。暴れるようなら矢で脅してもいい。こちらの命令に従わず建物から出てくるようなら射殺せと。
人権思想なんてものはこの時代には無い。
病気について典薬頭殿に聞いておいて良かった。
二日
例の商人の身体に発疹が出たとか。膚色より少し白い豆粒状の膨らみができているらしい。熱も再び上がっているようだ。大部屋に移動させる。
荷は布だというので、所持品も含め全て釜で煮させる。もちろん費用の分は没収である。
多分、破れた水疱からの組織液が直接の感染源だと思うが、飛沫感染もありうる。空気感染もあるかもしれないのだ。発症したということはどこかで感染者の体液と接触している。最悪なのは宿だ。布団の使いまわしなんかで患者を量産しているかもしれない。
領内に手洗い、うがい励行の触れをだす。これはちょっと遅れた。さらにそれまで習慣のなかったことなので、多くがよくわかってない様だ。国衙では直接指導して、できるだけ広めるようには言ったのだが。
なかなか思う様にはできない。
四日
患者の商人の発疹の中央が凝血し始めたそうだ。
狂ったように叫んでいたのが、発熱もあって病気を自覚したらしく大人しくなったとか。決して逃がすなと厳命する。検非違使所は三嶋、沼津に集中。伊東に患者が出た場合は祐親に任せる。
二人目の患者が見つかる。同じく沼津。主人の命で伝令に来たという。
体調の申告もあったし、本人も希望したので普通に個室に隔離。
それからは少しずつ、患者が見つかった。
隔離部屋、個室で水疱が出たら大部屋に移す方針は維持。
七日
一人目の商人が死んだ。発熱によるものらしい。というか、食事もほとんど食べていなかったという。
消化管感染か脱水の線もあるか。
薪を惜しまずに死体は焼き尽くさせた。
庶民の火葬は珍しい。普通は死体を焼き尽くす薪が用意できないからだ。これを官費で用意する等、無駄遣いが過ぎると言われているかもしれない。だが豌豆瘡が蔓延することに比べれば小さな費用だと割り切る。
聞き取っていた在所の国衙に手紙を書いた。感染が落ち着いたら報せる手筈を整える。
夜。
今、俺の目の前に、患者の商人から集めさせた瘡蓋がある。アルコールに漬けてあるから、感染性はない…はずなんだが、手がガタガタ震える。
作ってもらったピンセット、小刀、柄付き針を消毒し、ピンセットで取り出した瘡蓋を小刀で細かく刻む。柄付き針で左の上腕を軽く刺して、血玉が出るのを確認する。三分四方位の範囲に三かける三の九つの針傷を作った。ピンセットを持つ手がブルブル震える。時間の感覚が無くなっていく中、瘡蓋の欠片を、九つの血玉の上に置いた。
瘡蓋の上で笑う小さな鬼が見えたような気がした。
八日
三嶋の街中で、地元の者が発症した。やはり検疫漏れがあるか。十日ほど前、相模からの知人を泊めたという。もう逆方向からの流入があるのか。
その旅人は出国済。もちろん出かけて指揮をとる。
自宅で看病したいと家族に泣きつかれるが強制隔離。というか寄って来ないで⋯。
排泄物の管理もできない街中の民家に置いておけば、どれほどの被害がでるか。家族も問答無用で全員隔離である。矢を持った武士で取り囲んでこちらに近寄らせない。でもできるだけ穏やかに。病で働けない分は国衙で補填すると布告する。噂が拡がると申告するものが減るからだ。
ここで俺が感染してたらどうなるかとふと思う。まぁ、おとなしく隔離されるしか無いよな。
病原性微生物の観念がなく、病気を神罰か妖怪の類だと思っている人々に、感染対策の徹底など望むべくもない。官衙の者たちの願いによって、三嶋神社他、四宮までに使いを出して祈祷を依頼する。こんなことにリソース使いたくないって気もするけど、ただでさえあたらしい施策を打ち出してるのだ。暴動でも起こされたら、色々終わる。民心の安定のための必要経費と割り切る。
今の所封じ込めはできているが、このまま増え続けると特に看護の既感染者の人手が尽きる。ホント祈りたい気分。いよいよとなったら国境封鎖しかないか。
十日
沼津から貢納の船を送り出す。今年は秋分が月初めで例年より早くて焦ったが、冬越しの分まで供出してもらってなんとか必要な量はかき集めることができた。田所の者達には申し訳ないが、再度徴税に向かってもらう。二度目の徴税の分を供出して貰った農家に返していかないといけない。そういった所には来年度の軽い減税も約束してある。
来年全く知らない人が国司になってたら、俺は口だけの詐欺師である。父上に泣きつくしかない。
ワタの実ができはじめた。栽培を任せていた農家に摘んでもらい、綿くりして実と綿を分ける。植えたワタは八割程育って早いものは実をつけた。初年度にしてはまずまずかな。
小さな実が割れて、中からモコモコと綿が溢れてくる。
水疱の体液吸収に使うつもりだった綿は、そのままではあまり水分を吸わなかった。そうか、脱脂綿だ。脱脂しないといけないのだ。試しに煮て乾かしてみたが、まだ吸水が弱い。石灰石を砕いて焼いた生石灰から採った水酸化カルシウム(多分)と煮てみる。これがかなり成績が良かった。薄くついていた色も取れて、脱脂綿っぽくなった。その名の通り、脱脂すれば良かったのか…。伊豆限定だが、木灰から作るより手軽。
冷川峠にも、長岡の温泉にさえも行けなくなった。
気分転換に前から考えていた弓の設計をしている。
俺は定期的に隔離施設に患者を見に行った。もちろん可能な限り感染管理はしたが。生成りの麻布で看護用の単と直垂と切袴を作った。女性用には直垂の替りに小袖。
患者用にも生成りの小袖。
実はこの頃の葬式の格好に近い⋯縁起でもないと、極めて評判が悪い。が、これで押し通す。
これらは熱の下がっている時には着換えさせて煮た。
患者は増え続け、大部屋が埋まりそうになってきた。水疱が出て診断が確定した者は、三人に一人は死ぬ。特に二度目に発熱して水疱が膿んだ頃がヤバい。どうやら消化管にも肺にも水疱ができている者がいるようで、血混じりの下痢や、呼吸が喘鳴状態になったものはほとんど死んだ。体力のない子供もほとんどは死んでいく。水飴を与えても、だ。
この時代は、全然平安じゃなかった。
十三日は芋名月。例年なら都では宴だろう。
夜、満ちる直前の月が上がる。それを楽しむ余裕は無い。
十四日
腕の針跡は、小さな腫れ以外は変化がない。あれから七日が経った。どうやら発症しなかった。
ほぼ満月の月が登る。
そうして俺の前に、新たな瘡蓋がある。まずはアルカリだろう。今回は瘡蓋を灰汁に浸してみた。灰汁にしたのは都でもできるから。アルコールより格段に危険だ。消毒薬ではない。半分うなされたようになりながら、刻んだそれを九つの針傷の上に置いた。
ここで俺が死んだらどうなるか…少なくとも重盛兄上か基盛兄上、知盛か五郎が平家をなんとかしてくれるはずだ。坂東の反平家は少しはマシになるはずだ。清子は泣くだろう。母上も泣くだろう。なんでこんなことやってるんだ俺。
二十日
都から使者が来た。二十歳すぎ。藤原某という六位、右馬大允だという。ちゃんと聞き取れなかったが、どうでもいいので聞き返す気にもなれなかった。
成功で就任可能な職だ。定員二十人だが実数は五、六十人いたんじゃないか。
都からすれば使い捨てか。
とはいえ見かけ歓待しないわけにはいかない。俺の私邸に案内する。十二畳の部屋を使ってもらう。伴のものには北側の六畳を当てる。感染流行地から八人も連れてきやがった。干物と芋を食わせておく。
今月の四日、元号が応保と変わったらしい。原因は豌豆瘡。疫病による改元というのはそれなりにあるらしい。
この報せを都から各国に送っているのだ。都から十六日掛かったという。歩いてきても着くぞ、それは。
発症の確率はもう低いが、こいつらの世話はできるだけ俺がする。物忌で皆家に帰していると言い訳する。内心では来んなよこの野郎、と思っている。
今回の感染は酷いらしい。都では至る所に死体が遺され、片付けが追いつかなくなってきているとか。
その都から各地に報せが行ったのだ。ゴートゥトラブル。怖気を奮う無知。改元の報せとかクソつまらん理由でだ。
七道の一道毎に、馬と一人の使者と書状で十分だろう?
俺の手拭い(マスク)に気がついて、都でも流行っております、信心は大事ですなと嘲笑うように言う。
お前もしろよ。
腸が煮えくり返りそうになって下を向く。手拭いで口元の表情が隠れているのが幸いだ。こんな素敵なメリットもあるのか。
幸い発症者も出ず、一日居て、やはりここは何もないですな、と言って次の相模に向かって行った。塩を撒かせた。
部屋にはアルコールを噴霧した。
死ぬものも居るが、生き残るものも居る。
二度目の発熱を終えて、瘡蓋が落ちきるまでのものは、外には出られないが、他の者の面倒を見れば日当を出すと知らせたので、少し雰囲気がマシになった。
ワタは順調に実をつけている。
貢納の残りを集めに行ったものが戻ってきだした。収穫は例年並みとか。沼津三嶋の東海道より南では患者は出ていないようだ。
清子から連絡が無い。必要ないから連絡しないのだと分かってはいる。多分送ってきたら文句を言うだろう。
でも報せがないとどんどん不安になる。
なんとかして伊豆を守りたいと言う気持ちと、飛んで帰って皆の無事を確認したいと言う気持ちで引き裂かれそうになる。
二十七日
前回から約半月が経った。
俺がやろうとしているのは、もちろん種痘だ。ただし牛痘ではない。牛痘の牛は結局見つからなかった。だから残る方法は、人痘だ。これは我が国でも牛痘以前に少例行われたことがあるらしい。江戸時代の話だったか。要はウィルスを体内に取り込んで、免疫をつけるやり方だ。問題はその方法を俺がよく覚えていないこと。痂皮を粉にして吸い込む、とかそんなんだったかな。呼吸器ダイレクトとかないか。さすがに記憶違いかな。それに免疫ができたかどうか確かめる手段も知らない。抗体価の計り方なんて全くわからない。二十一世紀の知識のうち、俺の知っているのは欠片に引っ付いた埃程度のものだ。
アルコールと灰汁は試した。これはウィルスの死体を体にいれて免疫を付けるための方法だ。生物の手前の様なウィルスの場合、死体と言っていいのかどうかもわからんが。
熱湯を試さなかったのは、タンパク質が変性していたら抗原として不適だと思ったから。今度は酢で処理したもの。これで良いのか。
どうする宗盛、である。
酸、アルカリは病原体に劇的に効くときも、全く効かない時もある。弱毒化されるわけでもないから、せいぜい数を減らす位の効果しかないかも。
外れてたら感染し、良くて二割位死ぬ。ロシアンルーレットよりちょっとヤバい。
じゃあなんでこんな事をやっているのか。天然痘はこれからもきっと何度も起こる。その度に家に籠もって、病の流行りが過ぎるのを待っていることは、多分俺には出来ない。そんな弱点を残しておけない。なら、体力のある今のうちに、免疫を作っておくべきではないのか。患者の痂皮が、望めば手に入れられるなんて、今位しかない。
なんか、頭のおかしいことを言っている様な気もする。生き残っても、痘痕だらけだと、清子に申し訳ないな。
でもここで死ねば、少なくとも俺のせいで一族が滅ぶことは無くなる。
二の腕の針跡は三つ目、三度目でも震えが止まらない。刻んだ瘡蓋を針傷の上に、置いた。
二十九日
俺は発熱した。




