宗盛記0100 永暦二年七月 帰路
永暦二年七月文月
十三日夜
またも一門会議である。時忠叔父上や信隆義兄上も来ている。盆の迎え火がなんというか怖い。
天然痘…当然見たこともない病気である。
知識としてはジェンナー、種痘、皮疹、ウィルス、辺りか。空気感染するかどうかも分からないが、発疹がでるなら接触感染は間違いないだろう。経口感染もあるだろうな。
「太宰府の遣いは、直接来ましたか?」
父上に尋ねる。
「いや、継馬だそうだ」
「向こうにもののわかった人が居る様ですね」
重盛兄上が言葉を継ぐ、
「しかし悪くすれば半月位で都に届くかもしれんぞ」
父上が言う、
「教盛と宗盛は予定通り東国へ下れ。いざという時に備えてな」
「縁起でもない」
一族全員死んだ時の対策ということだ。
父上が皆に聞く。
「何か対策はあるか?」
経盛叔父上、
「既に罹ったことのあるものを雇い入れねば」
頼盛叔父上、
「前に流行ったのは何時でございましょうか」
父上、
「大きいのは大治の改元の時だな。儂が十歳になる前だった。三十五年程前になるか。近いのでは仁平の頃だ。ただ改元にもならぬような規模だったが」
基盛兄上が引き続き、
「前は仁平の二年です。九年前だな。外に出るのを禁じられたので覚えております」
「とすると罹った者もかなり少なくなりますな。どこの家でも同じことを考えるでしょうから急がねば」
と経盛叔父上、
「三郎、なにかあるか?」
父上が聞いてくる。がんばって思い出したことを話す。
「これはどの家でも効果があるので、覚えて帰ってください。都に病が出始めたらまず、家の中と外をしっかり分けて意識します」
ざっと説明していく。
ゾーニングして、感染の可能性があるものはできるだけ中に入れないこと。下人、雑仕は外に出す者と内で働く者を分けて、別に暮らさせること。買い物や納品、来客対応などはできるだけ既感染者にまかせること。
外出した者は家に帰ったら直後に手を洗い、外出する時は布を口に巻くこと。その布は毎回熱湯に浸すこと。
家の中の門に近いところに建屋を用意すること。
「もし家で患者が出てしまったら、患者はその建屋に入れて、そこに入れるものは既にかかった者だけにします。その部屋の者の厠は別に庭に穴を掘って捨て、等量の石灰を掛けます。疫鬼は酒精と熱に弱いので…」
その建屋に近寄っても良いのかと聞かれるので、それ位は問題ないと答える。
感染建屋に入ったものは、着ていた衣類を都度全て煮る。手足や体は酒精で拭く。疫鬼は手足や物に取り付いて広まるので、金で疫鬼を追い払うつもりで、ここは惜しまずに対策すべきことを説明する。加えてこれを箇条書きにしたものを後で届けることにする。先に書いたものを配ると記憶に残らないからな。酒精はこちらで提供する。
なんでそんなことを知ってんだ、と聞かれるかとも思ったが、スルーしてくれた。俺はそういう者だと、認定されてるらしい。聞かれてもどうせとぼけるし、そのこともみんなわかっている。
「豌豆瘡はおそらく冬になってもさほど減りません。気をつけておいてください」
ウィルス疾患だからなぁ。細菌感染と違って、寒くても感染率に変化がでにくいだろう。
十四日
人をやって麻布を大量買いする。一反が鯨尺で幅五寸、長さ三丈(約11.4m)だというので百反ほど買う。価格は米七石五斗。
父上に頼んで面会を取り付けてもらい、典薬頭と会う。初老の優しそうなおじいさんだ。でもこの人が虫瘤見せて時忠叔父上を脅したんだよな。おかげで助かりました。
実は割とユーモアのわかる人なのかも。
豌豆瘡について教えてもらう。患者に近づいてから病気になるまで七日から半月ほどかかること、高い熱が出て発症し、三、四日すると水疱が一気にできて一旦解熱、七日から十日ほどかけて全ての水疱が膿疱になり再び発熱、二十日ほどかけて膿疱が痂皮になって、これが全て落ちれば完治となるらしい。こうなるとうつることもないという。
死亡率は良くて二割、酷いときには半数以上が死ぬとか。治っても痂皮が酷い痘痕になるらしい。下痢や咳もありうるが、これらが酷いものはほぼ死ぬと言う話だ。感染巣は体表が多いが消化器や呼吸器感染もありうるってことか。
他には、稀に再感染もありうるが、その場合症状は極軽いものになると言う事。
そうか、種痘と同じことだからな。
しかし、老人などは稀に再感染で死ぬこともあるらしい。
「私のような若輩ものに、丁寧にお教えいただき、ありがとうございました」
「いえいえ、実は覚性入道親王様に頼まれて、空性様を診察したのは私なのです」
「あ、それは…」
いろいろヤバい。
「私には、あの病を治すことができませんでした。多分お救いできないと思っておりました。しかし完治されたという。だから私もお会いしたかったのですよ」
「あれはたまたま空性様に仏のご加護があっただけかと」
「そうですか。私としてはあなたに豌豆瘡についてなにかご存知ないか聞きたかったのですが」
「あ…では…疫鬼を払うには熱が良いとどこかで読んだ気がします。沸騰した湯で道具を洗うことで追い払えることもあると。あと酒精も嫌うと」
「酒精?」
「強い酒です。少しですがお届けします。無くなったらウチを訪ねて下さい」
丁寧に礼を言って典薬寮を出る。
仁和寺に行って、覚性法親王様と色々と相談。豌豆瘡の話をして、口を覆うことの大切さを話す。後患者の隔離。
そして買った布の真ん中に、薬師如来の種字『bai』を入れさせてもらいたいと頼む。これをマスク替わりにする。飛沫感染対策である。快諾頂いて、帰って柿渋紙に梵字を写し、厚紙に貼ってから小刀で切り抜いて型にする。
十五日
寺では盆行事だが、早々の切り上げさせてもらい、布の準備にかかる。
買った布は二枚縫い合わせて幅一尺にし、三尺毎に印をつける。三丈で十枚。全て鯨尺だ。
昨夜作った型を敷いて、布に女房、家人、雑仕総出で藍の汁を刷り込み、蒸して仕上げる。酸化した藍の葉の緑の汁が藍色に変わっていくのを見てみんな驚いている。浸し染めは勿論俺も含めて素人には難しいので、ちゃんとした藍染ではないが、ワークショップ(もちろん前世)などでやる簡略版の摺染である。隣県が藍の日本一の産地だったので、何回かやったことがある。
藍は蒅にして発酵させないと染まりが悪いが、この方法でも薄く青緑に染まる。何回か洗うと、薄い青だけが残る。
薄い色なので汚れが目立つ。これは大事なことだ。医療関連者が白衣を着るのと同じ。黒いマスクとか舐めてかかってるのだ。
布は真ん中の口と鼻に当たる所だけ別の布を縫いつけて三重にする様に指示する。
一反やって見せれば、残りは繰り返しなので、半分の五十反使って豌豆瘡がやってくる前にできるだけ準備してもらう。残りの五十反は伊豆用。
これを仁和寺で祈祷してもらい、十反分納めて、後は六波羅で使うように言う。毎日煮て洗うの必須。簡易の布マスクなんで効果は限定的だが、無いよりもマシだろう。型も写して帰って三嶋でも使うか。
あと、アルコールの在庫と五反分の布を典薬寮に届けて貰う。
時忠叔父上のところに行って、豌豆瘡の情報と対策を説明する。併せて糸子達にアルコールの作り方を教える。可燃性の注意と作り方の秘匿とかも。俺の費用持ちでどんどん作るようにと。ただし感染が始まったら収まるまでは家から決して出ないようにと言っておく。必要なら人を遣ってやりとりすればいい。
今分かっていることと対策を紙に書いてまとめる。
家の女房たちにも頼んで、できるだけ複写する。一族に配布。残りは伊豆に持って行こう。
十七日
卯の刻(6時)に出発する。今回は清子だけでなく、糸子と季子姫が送ってくれる。
後ろ髪引かれるが仕方ない。何かあったら手紙を貰えばすぐに帰ってくるからと言いおいて出発。
今回は教盛叔父上の家人も一緒なので、総勢五十人を超える。叔父上の車はウチのを使ってもらう。幹也に車の追加注文も出しておいた。
残った職人たちにも書いてまとめたものを一部渡して、其々複写させる。ウチと同様の注意をしておく。
大津で叔父上に先行してもらい、波路さんの家に向かう。一人暮らしは不安だし、こちらに未練もないので仕えさせて欲しいと頼まれて、伊豆に同行することになった。良かった。豌豆瘡が流行るとして、都に近い大津に一人で置いていくのは心配だったからだ。どうせ助けたならすぐに死んだりしてほしくない。残念ながら女房にできると言うほど夫の位が高くなかったので、半者という形になるが、実質やってもらう仕事は女房である。ただ有職なんかの分野では頼れない。別に伊豆では困らないが。大津国衙に対策の書状を贈る。波路さんの口添えもあって、複写して各部門に配布する手配ができた。
瀬田の唐橋を渡って、一宮の建部神社で休みを取った時に、近くで流刑の罪人が移送中に殺されたと言う話が耳に入った。膝を怪我して歩けなかったので荷車で運ばれていて、休憩で車を降りた所を射られたらしい。輸送の厄介事がなくなってむしろ役人達も喜んでいたとか。配流先が美濃だったと言うから流刑と言うより追放刑、元々死んでも構わないと思っていた様だ。なんなら裏で話がついていた可能性すらあるか。
それにしてもなんと手早い。美濃に入ってからだと美濃国衙と角が立つからだろうが、近江国衙の情報が筒抜けでなければできまい。
帰りは伊賀回りで進もう。
でも人を遣って、青墓宿の延寿殿に手紙を送る。波路を売った男から、八石分の証文は取り返したことと、豌豆瘡のことを報せ、ざっとした対策を手紙で教えるためだ。と言っても一族に配った注意点を同封しただけだが。後、噂に気をつけて病の話が近づいたら花街はしばらく閉じたほうがいいと。どうしても困ったら、取り返した証文の八石はそちらで使ってもいい、足りなければ言って来いとも。
途中、相馬御厨や坂東の事情など叔父上に説明しつつ進む。多分佐竹隆義が力になってくれるからと。
途中立ち寄った国衙に対策を書いた書状を配っていく。美濃、尾張、三河、遠江、駿河。
移動の空き時間を使って、手紙を書いた。平仮名を多用して、漢字にはふりがなを振った。連綿ではなく書き放ち。宛先は坂東の各国国衙と昨年の宴と三月の騎射に来てくれた領主達。他坂東でウチと付き合いのある各家。内容は豌豆瘡の情報。先月末太宰府で患者が出て、典薬頭から聞いた病気について、伊豆の対策なんかを全部書いた。
人数もあって、十一日掛けて月末の二十八日に三嶋についた。吉田から沼津までは船だ。昼過ぎに着いて早速疫病対策のいくつかの指令を出す。後は手紙を書く。対策の書状と手紙を国衙で複写させて、宴に来てくれた領主達に送る手配をする。俺に与えられた猶予はおそらくひと月程度。大宰府からの旅程から早馬に要した時間を引くと、早ければ二十日もすれば疫病が追いついてくる。
それから波路も連れて長岡まで馬を走らせて温泉に入り、三嶋に帰ってたっぷりの海の幸。皆には私邸の方に泊まって貰った。波路には私邸の家事の裁量を任せることになる。各部屋には頼んでおいた扇風機が付いている。色々驚くことばかりだったようだ。料理は非常に好評だった。
二十九日
急ぎの報告はなかったので、教盛叔父上と土肥実平、畠山重能、那須資隆を送って伊東まで同行する。叔父上の荷物があるので、伊東から船のほうが楽だと思ったのだ。江戸湾から関宿まで川を遡って少し行けば常陸である。冷川峠は馬車のままではしんどいので牛を借りて付け替える。貸牛サービス業もありだな。峠の整備も順調なようだ。何箇所か降りて貰うが、吊り上げるようにしてなんとか車を通せる程にはなっている。春にここを通ったことがある坂東の者たちは、峠の開発の進み具合に驚いている。人夫たちに困っていることはないかと聞いたが、特に問題ないとのこと。安心である。下りは牛でブレーキをかけつつ下る。伊東について又温泉。長旅の疲れが溶けていく。
八月一日
伊東祐親に命じて、対策の書状を伊東港から送る手配をする。伊東からでた船は最低限の上陸で引き返すように言った。手紙の束が船で湯河原に着くと土肥に、茅ヶ崎に着くと大庭に協力させる。武蔵につくと畠山に、下野に着くと那須に。俺の家人総動員で坂東中その他に報せを送る。
定期便まで時間があったので、皆で一緒に港を見て回る。防波堤が一丈伸びていた。塩の生産も順調らしい。叔父上たちの船を見送る。車は人に貸さず、壊れたら車輪は焼いて車軸は回収してくれと言っておく。
土肥実平達は陸路で熱海を回って帰るという。勿論対策の書状の写しは持たせた。さらに畠山重能殿と那須資隆殿が俺に臣従したいといってくれた。冷川峠と伊東港を見て心が決まったと。これは嬉しい。坂東一二の武者が俺の家人だ。小躍りする。もちろん承諾する。交名と領地の一覧は後で送るとのこと。所領安堵は畠山には目代の家継に頼んで知盛名で出してもらおう。下野は伝手が無いから俺の名だな。
再会を楽しみにしていると言って別れた。夢みたいだ。
俺はもう一日伊東で温泉。八重姫が迎えてくれたので、京土産の鶴の地紋の絹織りの反物をあげる。色は薄い桜色。祐親が恐縮しきりだった。お礼に摘んだ藤袴の花束を貰った。
三日
三嶋に帰ってハードな夏休みが終わった。藤袴は生けて飾っておいたら慎ましやかないい匂いがした。
青墓の延寿殿から、余計なお世話だと言う手紙と、尾張国衙から四石受け取ったという証書が届いていた。




