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引越しは桜と共に

 観光バスの車窓からは、冬から春への移り変わりを感じさせる、(もや)で薄く滲んだ山々が見える。

 楽しみにしていた家族旅行に、幸彦(ゆきひこ)は心を躍らせていた。

「ママ、牧場にも行くんだよね」

 幸彦が言うと、隣に座っている母は、優しく微笑んだ。

「もちろんよ。幸彦は、動物が好きだから、きっと楽しいわよ」

「馬にも乗りたいなぁ」

「本物の馬は結構大きいぞ。幸彦は、怖いって泣くんじゃないか?」

 通路を挟んだ座席に座っている父が、いたずらっぽく片目をつぶってみせた。

「僕、そんなに泣き虫じゃないよ。今度、三年生になるんだもん」

 言って、幸彦は唇を尖らせた。

「そうだな、幸彦は、顔はママに似て優しいけど、強い子だもんな」

 父が言った次の瞬間、大きな衝撃音と共に、幸彦は空中へ投げ出されたかのような感覚を覚えた。

 

 ふと目を開けた幸彦の目に映ったのは、真っ白な見覚えのない天井だった。

 幸彦は、自分がベッドに寝かされているのは分かったものの、身体のあちこちが痛くて思うように動けない上に、透明な管を幾つも付けられているのを見て、ひどく不安な気持ちになった。

 周囲では、白や緑色の服を着た人々が、何か言い合いながら忙しく動き回っている。

 明らかに異常事態だということが、幸彦にも分かった。

「ママ……パパ……!」

 幸彦は、思わず両親を呼んだ。

「先生、意識が戻りました!」

 彼の声を聞いた白衣の女性――看護師が、そう言って医師を呼んだ。

「パパとママは? ここはどこ?」

 傍に屈んで顔を覗き込んできた男性医師に、幸彦は必死に尋ねた。

「ここは、病院だよ。君は、乗っていたバスが事故に遭って怪我をしたけど、大したことはないから大丈夫だ。パパとママは……今、治療を受けているよ」

 医師が、落ち着いた声で答えた。

 結論から言えば、彼の言葉は嘘だった。

 幸彦たちが乗っていた観光バスは、カーブを曲がり損ねた速度超過の大型トラックと正面衝突し、多数の死傷者が出ていた。

 咄嗟に我が子を庇った両親の身体が緩衝材になり、幸彦は奇跡的に数か所の打ち身程度で済んだ。

 しかし、それと引き換えに両親は帰らぬ人となったのだ。

 あの医師は、意識が戻ったばかりの子供へ、即座に真実を伝えるのが忍びなかったのだろう。


 十歳にも満たない子供の幸彦にできることなど何もなく、周囲の大人たちが様々な処理を行ってくれた。

 泣きもせず大人しくしている幸彦を見た大人たちは、彼に対し、しっかりしているとか気丈だとか噂したが、本人は、突然のことに感情が追い付いていないだけだった。

 一方で、保護者を失った幸彦の処遇をどうするべきか、大人たちは困惑していた。

 父方の祖父母も母方の祖父母も既に亡く、幸彦は天涯孤独の身と思われた。

 そのような中、父方の祖父の従兄弟(いとこ)だという男性が現れ、幸彦は、彼の元へ引き取られることになった。

 会ったこともない遠縁の老夫婦に引き取られると同時に、転校を余儀なくされた幸彦は、先のことを考える度に不安に苛まれた。

 少ない荷物と共に引っ越してきた幸彦を、遠縁の男性と、その妻は優しく迎えた。

 幸彦には、かつて夫婦の息子が使っていたという部屋が宛てがわれた。成人した息子は現在、仕事の為に外国で生活しているらしい。

 よく掃除されているのが分かる室内には、幸彦の為に用意したのであろう真新しいベッドや勉強机などが置かれている。

(わし)らのことは、爺ちゃん、婆ちゃんと呼んでくれていいぞ」

「息子の小さい頃を思い出すわぁ。必要なものがあれば、遠慮せずに言ってね」

 見知らぬ人や場所に緊張を隠せないでいる幸彦に、老夫婦は代わる代わる声をかけた。

 彼らの気遣いに、幸彦は両親に通じるものを感じた。

 そこへ、隣の家に住んでいるという女性が尋ねてきた。

 親類から大量の果物が送られてきた為、お裾分けを持ってきたのだという。

 幸彦は、何とはなしに老夫婦の後ろから来訪者を眺めていた。

 ふと彼は、女性のスカートの裾を握りしめている、幼稚園児と思しき可愛らしい女の子の姿に気付いた。

「おや、聖奈(せな)ちゃんも来たのかい」

「おとなりの、おじいちゃんとおばあちゃん、こんにちは」

 老夫婦に声をかけられた女の子――聖奈(せな)が、可愛い声で答えた。

「おにいちゃん、だぁれ?」

 幸彦の姿に気付いた聖奈に突然声をかけられ、彼は戸惑った。

「この子は幸彦(ゆきひこ)、今日から、うちで暮らすことになったんだ。よろしくな」

 「爺ちゃん」が言うと、聖奈が目を輝かせた。

「わたし、『せな』。こんど、いちねんせいになるんだよ」

 聖奈は得意げに言って、小さな手を差し出した。幸彦は、その手をおずおずと握った。

「僕は、幸彦。三年生になるんだ」

「じゃあ、いっしょに、がっこうにいけるね!」

 そうだ、誰も自分のことなど知らない学校へ行くしかないのだ――幸彦は、一瞬暗い気持ちになったものの、聖奈の無邪気な笑顔に、少しではあるが心が和らぐのを感じた。

 幸彦の保護者となった老夫婦と隣りの一家は、もともと親しく付き合っていた間柄らしく、彼らの交流に、幸彦も自然と加わっていった。

 老夫婦は幸彦のことを孫のように扱ったが、聖奈も、彼を兄のように慕った。

 幸彦も、素直で愛らしい聖奈に懐かれるのは嬉しかったし、彼女と一緒に過ごしている時は、寂しさを忘れていられた。

 やがて新学期が始まり、幸彦も近くの小学校に通うことになった。

 転校生として、なかなかクラスメートたちに馴染めず、幸彦は、朝が来るたびに憂鬱な気分になった。

 しかし、隣の家の聖奈が、一緒に学校へ行こうと毎朝迎えに来る。

 彼女をがっかりさせたくないという理由で、辛抱して学校に通っているうち、夏休みが近付く頃には、幸彦にも、休み時間に話したり遊んだりする間柄の友人ができていた。

 両親を失った悲しみが完全に拭い去られることはなかったものの、周囲の人々の温かさもあって、幸彦は徐々にではあるが、置かれた環境に適応していった。


「もう、桜が散り始めたのか。そういえば、ここに来たのも、これくらいの季節だったな」

 幸彦は、二十年近く住んだ自室で荷造りをしている。

 ふと見上げた窓の外には、青く晴れた空を背景に、どこからか風で運ばれてきた桜の花弁が、ちらほらと舞っていた。

 月日が流れ、背丈も伸びて、すれ違った女性の多くが振り返るような青年になった幸彦と、幼い頃からの愛らしさはそのままに美しく成長した聖奈は、誰が見ても似合いの二人だった。

 いつしか幸彦と聖奈が互いを「異性」として意識するようになっていたのは、ごく自然なことと言えよう。

 一足先に大学を卒業して社会人になった幸彦は、聖奈に「君が大学を卒業したらプロポーズしたい」と告げた。

 聖奈は二つ返事で承諾し、それぞれの家族からも祝福を受けた。

 そして今日は、幸彦と聖奈が同棲する為の新居へ引っ越す日だ。

 翌年の秋には、入籍と結婚式も予定している。

 引っ越し業者に荷物を預けると、幸彦は聖奈と共に自分の車で新居へ向かった。

「忘れ物、してないかな……」

 助手席に座った聖奈が、ふと呟いた。

「まぁ、実家も、そう遠くないし、何か忘れてても()ぐに取りに行けるさ」

 幸彦が、くすりと笑って言うと、聖奈も微笑んだ。

「それにしても、引越しって、わくわくするものなんだね」

「私は、緊張もしてるけどね……」

 そう言って、聖奈は頬を染めた。

「爺ちゃんたちのところへ来た時は、先のことなんか考えられなくて不安しかなかった……でも、今回の引っ越しは、聖奈と暮らす為のものだからさ。嬉しくて仕方ないんだ」

 幸彦の言葉に、聖奈は、ますます顔を赤らめた。

 絶望の中での引越しから始まった縁だが、この引越しは明るい未来に向かうものなのだ――幸彦は、愛する人の桜色に染まった頬を見ながら、これからの幸福を祈った。


【了】

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