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桜の香り

聖奈(せな)、すまない。緊急でリモート会議に出ることになって……夕食の買い物、一緒に行きたかったんだけどなぁ」

 本当に、すまなそうな顔で幸彦(ゆきひこ)が言った。

 男にしては長い睫毛が、透き通った薄い色の瞳に影を落としている。

「分かったわ。何か、食べたいものはある?」

 聖奈が快く答えると、幸彦は安堵の表情を浮かべた。

「聖奈が作ってくれるものは、何でも旨いからな……じゃあ、ハンバーグかオムライスで」

「了解です。じゃあ、行ってくるね」

 幸彦に見送られ、聖奈はマンションの玄関を出た。

 最寄りのスーパーまでの道沿いには桜の木が植えられており、丁度、花が見ごろだった。

「一緒に暮らし始めて、もう一年か……」

 紫色の空に、ちらほらと舞う花びらを眺めて、聖奈は呟いた。

 聖奈と幸彦は、家が隣同士だった縁からの幼馴染みだが、現在は婚約者同士として、同棲生活を送っている。今年の秋には入籍と結婚式を予定しているのだ。

 二人とも在宅勤務で、一緒に過ごす時間も長いものの、互いに、それを負担に感じることはなかった。

 スーパーで買い物を終え、帰路についた聖奈は、途中にある和菓子屋の前に「桜餅」と書かれた(のぼり)が立っているのを見付けた。

 なめらかな()(あん)を、もっちりした桜色の皮で包み、更に塩漬けにした桜の葉を巻かれた桜餅を思い浮かべ、聖奈は吸い込まれるように和菓子屋へと入っていった。

 ショーケースには、目当ての桜餅の他にも、様々な菓子が彩りよく並んでいる。

 ――そういえば、(ゆき)ちゃんは、「桜味」が苦手だったっけ。

 菓子を眺めていた聖奈は、肝心なことを思い出した。

 品行方正で優等生然とした幸彦だが、実は、食べ物の好みにうるさいというか細かい部分がある。

 グリーンピースは口の中で潰れる感触が嫌で苦手だが裏漉(うらご)ししてポタージュなどにすれば食べられるとか、細かく切った人参は食べられるが、大きいままだと匂いが気になるとか、火を通した甲殻類は好きでも生のままでは食べられないとか――本人も自覚はあるらしく、人前では苦手なものがあっても顔には出すことはない。

 しかし、愛する人に快適に過ごして欲しいと思っている聖奈にとって、幸彦の好みを把握するのは何ら苦になるものではなかった。

 薄荷(ハッカ)肉桂(ニッキ)が苦手な人も、割とよく見かけるし、幸彦の場合は、それが『桜味』というだけなのだろうと、彼女は思っていた。

 自分の分として長命寺風の桜餅を二つ、幸彦には、彼の好きな草餅と華やかな練り切りを購入し、聖奈は自宅へと向かった。

 聖奈が帰宅した時、まだ幸彦のリモート会議は続いている様子だった。

 買ってきたものを手早く片付けると、長い髪をまとめ、エプロンを着けて、聖奈はキッチンに立った。

 付け合わせのポテトサラダに使うジャガイモを茹でている間に、ハンバーグに入れるタマネギをみじん切りにしてバターで炒め、それを冷ましている時間で更に他の材料を下ごしらえして――我ながら手際が良くなったものだと、聖奈は、ほんの少し自画自賛した。

「何か、手伝うことある?」

 会議が終わったのか、幸彦がキッチンに姿を現した。

「それなら……ポテトサラダをお願いしていい? ジャガイモは茹でて、他の材料は下ごしらえしたから、混ぜて味付けするだけだけど」

 聖奈が言うと、幸彦は任せろ、とばかりに腕まくりをした。 

 やがて全ての料理が完成し、二人が楽しみにしていた夕食の時間が始まった。

「やっぱり、聖奈のハンバーグは旨い」

 端正な顔を綻ばせながら、幸彦が言った。

「デミグラスソースは缶詰を使ってるから、大部分はメーカーのお陰ね」

「いや、ハンバーグ自体の味や柔らかさも俺の好みだし。……聖奈のことを同僚たちに話すと、みんな羨ましがるんだ」

「ええっ? そんなに私のことを話してるの?」

 思わぬ幸彦の言葉に、聖奈は目を丸くした。

「だって、君みたいに綺麗で料理も上手くて優しい婚約者とか、自慢したくなるし……さ」

 聖奈の反応が予想外だったのか、幸彦は叱られた子犬のような顔で俯いた。

「私は……幸ちゃんのことは、あまり話さないかな……」

「そうなんだ?」

 聖奈の言葉に、幸彦が首を傾げた。

「だって、きっと、みんな幸ちゃんを好きになっちゃう……他の人に取られたらイヤだもん……」

 言って、聖奈は頬を染めた。

「それは、絶対にない! 俺は、聖奈以外の誰かに取られたりなんてしないから!」

 拳を握りしめ力説する幸彦を見て、聖奈は思わず、くすりと笑った。

「……初めて会った時のこと、覚えてる?」

 ふと、幸彦が真顔で言った。

「うん。小学校の入学式の直前だったから、印象に残ってるよ。幸ちゃんが、お隣のお爺ちゃんと、お婆ちゃんの家に引っ越してきたの」

 聖奈は、当時を思い返した。

 二十年近く前――隣の家に住む優しい老夫婦の元へ、少し年上の男の子がやって来た日のことを。

 それまでに見てきた男の子たちとは異なる、栗色の髪に色白な肌の、綺麗なのに、どこか寂しげな顔をした男の子、というのが、聖奈が初めて見た幸彦の姿だ。

 女の子に憎まれ口を叩いたり、乱暴なちょっかいを出したりなどということは決してなく、優しくて物知りな彼を、聖奈が慕うようになるまで、そう時間はかからなかった。

「俺、両親を事故で亡くして、それまで会ったこともない遠縁のところに引き取られることになって……あの時は、本当のことを言うと、凄く不安だった」

 ぽつぽつと、幸彦が話し始めた。

「学校も突然変わったから、友達もいなくて……でも、聖奈が毎朝『学校に行こう』って迎えに来るから、行かざるを得なくてさ」

「それは……迷惑だったかなって反省してるの」

 聖奈は赤面して項垂(うなだ)れた。

「幸ちゃんと一緒に学校に行きたくて迎えに行ってたけど、あの頃は、ご両親を亡くして大変な時期だったんだよね……私、何も考えてなかった」

「そうじゃないよ」

 言って幸彦は、ふふ、と小さく笑った。

 聖奈の同級生の女子たちが密かに「王子様」と呼んでいた笑顔だ。

「君と一緒にいる時は、悲しいとか寂しい気持ちを忘れていられた。そうでなかったら、俺は沈んだ気持ちのまま、ずっと引きこもっていたかもしれない。爺ちゃんと婆ちゃんも優しくしてくれたけど……天真爛漫な君に、俺は救われていたんだ」

 彼に、そんな風に思われているなどと考えていなかった聖奈は、恥ずかしさと嬉しさの()()ぜになった気持ちで胸が一杯になった。

 どちらかと言えば自分が一方的に追いかけていて、幸彦が、その優しさから受け入れてくれていたのだと聖奈は思っていた。

 視界が少し滲んできたのを、(まばた)きで誤魔化しながら、聖奈は立ち上がった。

「そうそう、今日はデザートがあるんだよ」

 聖奈は、丁寧に急須でお茶を淹れた。

 そして、和菓子を取り分けた小皿を、揃いの湯飲みと共にテーブルに置くと、幸彦が目を輝かせた。

「和菓子って、けっこう久々かも」

「お店の(のぼり)に『桜餅』って書いてあったのを見たら、食べたくなっちゃって。幸ちゃんは『桜味』苦手って言ってたから、草餅と練り切りを食べてね」

「気を遣ってくれて、ありがとう。子供の頃から、『桜味』のお菓子って苦手なんだよね……」

 そう言いながら、幸彦は黒文字(くろもじ)で行儀良く練り切りを割ってから、口に運んだ。

 聖奈も、桜の葉を剥がして、桜餅を一口齧った。

 噛み締める度に、桜の葉の香りが口の中に広がっていく。

「やっぱり、この匂いを嗅ぐと、春だって思うなぁ」

 季節の味を満喫していた聖奈だったが、ふと、幸彦が自分を見つめているのに気付いた。

「どうしたの?」

「なんか、聖奈が桜餅を食べているのを見たら、美味しそうに見えてきたというか……」

「もう一つあるから、挑戦してみる?」

 聖奈は半ば冗談のつもりで言った。

「うん、試してみようかな。だったら、こっちの草餅とトレードってことで」

 言って、幸彦は、まだ手付かずの草餅が載った自分の皿を、聖奈に差し出した。

 聖奈も、桜餅の載った皿を幸彦に渡した。

「無理そうだったら、残していいからね」

 幸彦は、桜餅を手に取ると、その香りを確かめた。

「ああ、桜の木の傍を通ると、似た匂いがするよね。見た目も、皮の桜色と葉の緑のコントラストで綺麗だけど」

 そして、彼は、ゆっくりと桜餅を一口齧った。

「……あれ?」

「どうしたの?」

 首を傾げる幸彦に、聖奈は問いかけた。

「甘い餡に、ほんのり塩味がアクセントになって、桜の葉の香りも嫌じゃない……美味しい」

 そう言ったかと思うと、幸彦は、あっという間に桜餅をたいらげた。

「不思議だな。子供の頃は嫌だと思っていた味の筈なのに」

「子供から大人になるにつれて、味覚って変わるみたいね。幸ちゃんも、大人になったってことじゃないの?」

「俺、子供だったのか」

 聖奈の言葉に、幸彦が、あははと笑った。

「これで毎年、君と一緒に桜餅を食べられるね」

「そうね。私の好きなものを、幸ちゃんも好きになってくれて嬉しいな」

 桜の香りに包まれて、聖奈と幸彦は微笑み合った。


【了】

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