第十八話 入浴
「っ、離せ!もういいだろう!」
浴場の中、浴槽とは壁で仕切られた脱衣所らしき場所まで拉致されたシアルはヴィクターの腕の中で暴れる。先ほどヴィクターが自分にかけていた魔術の効力が凄まじいようで、どれだけ力を込めても一切拘束の手が緩まない。扉を開ける時など、一瞬ではあるが片腕で抱えられたほどだ。一瞬で生み出した壁に扉という機構まで作っていた手腕といい、彼の魔術の腕は本当に一級品なのだなと場違いな思考が脳裏をよぎる。
「いいや、君がお風呂に入ると言うまで離さない!」
「分かった、入る、入るから!だから離せ!」
その言葉にヴィクターは満足したようで、ぱっと拘束を解いた。腕の中から転がるように逃げるシアル。息も絶え絶えに、これまた鏡のようにツルツルに加工された床に手をついている。床を見やれば真っ赤になった自分の顔が映っていた。
「はぁ、はぁ、疲れた……。全く、とんだ目に遭った」
「数分後にはそんな疲れ吹っ飛んでるよ!」
疲れさせた張本人が言うセリフではないが、ヴィクターが入浴というものによほど信頼を置いているのが窺える。ため息を吐きながらも少し期待が高まるシアルであった。ヴィクターとの付き合いはまだ浅いが、彼が絶賛していたルーノの紅茶は実際にとても美味だったので、彼の審美眼は信頼できる気がしている。
「これで期待以下だったら、覚えておけ」
だがさすがに強引に連れ去られた恨みが消えず、シアルは憎まれ口を叩かずにはいられなかった。それをふっと笑って躱すヴィクター、本当に自信があるらしい。睨み続けてやると、なんとその場でシャツのボタンに手をかけた。
「なっ!?」
「どうせ一緒に入るんだから遅かれ早かれでしょ。僕は早く入りたいから先に脱いじゃうよ!」
一理あるが、シアルにも心の準備というものがある。ヴィクターはなぜそこまで堂々としていられるのだろうか。これが風呂の魔力か、あるいは死地を乗り越え続けてきた者の胆力か、とシアルの思考が迷宮入りしそうになった時、ヴィクターはなんともう全裸になっていた。余分な肉が全くついていない、良く言えば引き締まった、悪く言えば痩せぎすな肉体が視界の中央にある状況に目眩がしそうになる。
「じゃあ先に入って待ってるよ!」
ヴィクターが壁の前に立つ。今まで気がつかなかったが壁は引き戸になっていたようで、ヴィクターが手をかけて引くとガラ、と音がして浴槽のある向こう側があらわになった。ヴィクターは扉の向こうへ飛び込むと勢いよく扉を閉める。数秒後、彼が体を洗い始めたのか水が流れる音が聞こえてきた。
「我も腹を括るべきか」
呟き、シャツを捲り上げるシアル。その下から現れたのは傷跡だらけのあまりに細い体だった。最近ついた傷ではなく、幼い頃から長い時間をかけて刻まれたものだと一目で分かる傷。
「これはあまり見られたくなかったのだがな」
自嘲気味に笑い、シアルも戸を引いてヴィクターの元へ向かうのだった。
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「遅いよ!何してたの!」
扉の向こう、シアルを待ち受けていたのは歓迎の言葉ではなかった。もう既に泡まみれのヴィクターが張り上げた声は反響し、シアルの鼓膜を盛大に揺らす。
「こんな狭い場所で大声を出すな……」
呆れつつも、自分の体を見ても特に何も言ってこないヴィクターにわずかに安心を覚えるシアルだった。変に心配されたり、同情される方が辛い。その点ヴィクターの無頓着さは救いである。
「じゃあまずは体を洗おうか。やっぱり綺麗な体で浴槽に入ってもらいたいからね」
ヴィクターがいつの間に用意していたのか石鹸を手渡してくる。まさかこれすら魔術で錬成したのだろうか。風呂に入れない際に体を綺麗にする魔術はあるが、石鹸を出す魔術など聞いたことがない。自分が魔術に疎いのか、それともどうも風呂好きそうなヴィクターが奇妙な魔術を編み出したか。恐らく後者な気がするシアルであった。
「ほう。服を脱いだらそのまま入るものだと思っていた」
シアルは石鹸を受け取り、言われるがまま素直に体を洗い始める。しばらく無言の時間が続いた。
「ねえ、シアル。昨日の晩御飯何食べた?」
その沈黙を気まずいものと捉えたのか、ヴィクターがものすごく当たり障りのない質問をシアルへと投げかけた。おそらく彼なりの配慮なのだろうが、配慮することに気をつけるあまり質問の内容が疎かになっているようである。それは昨夜共に食卓を囲んだシアルにだけは絶対に聞かなくてもいい内容だった。
「は?貴様が焼いた肉だが……?」
「……そっか」
当然困惑するシアル。ヴィクターも自分の間違いに気づいたようで、再び沈黙が流れる。先ほどと違って今回の沈黙は明確に気まずいもので、シアルはいたたまれない気持ちになった。その沈黙はシアルが体を洗い終わるまで続いた。自分より先に体を洗い始めたのに未だに泡まみれのヴィクターを見て、先に浴槽に入ってしまおうか真剣に検討する。ヴィクターにかなり期待させられた分、待つのが辛く思えるのだ。我慢の限界に達しそうになったその時、ようやくヴィクターが体を流す。
「よし!入ろうか!」
ヴィクターの口からは当然待たせた謝罪などはなく、シアルももうそんなことは諦めているようでため息ひとつで済ませる。ヴィクターには期待せず、目の前の浴槽のことを考えようと切り替えているシアルなのであった。
「これで口ほどにもなければ……」
服を脱がされかけ、拉致され、待たされ。これだけのことをされたのだから、奴隷紋の契約がないヴィクターであれば多少は殴ってもルーノに文句は言われないはずだ。
「そんな強気な口を叩けるのも今だけだよ。じゃ、先に入りな!僕は君の反応をゆっくり見ておくからさ」
そんなことを考えられているとはつゆ知らず、ヴィクターはシアルをずいずいと浴槽の方へ押していく。ツルツルと滑る床の上、抵抗することもままならずシアルは気づけば浴槽の前へ立っていた。
「少し、緊張するな」
「力抜いて。怖くないよ」
頷き、ぎこちない動きで浴槽の中へ手を突っ込むシアル。よく聞けば何やら深呼吸をしていた。ヴィクターは内心じれったさを覚えるが、初めてなのだから作法が分からないのも当然だろうと納得し、教えてやることにする。
「ほら足上げて、そんで入れて!片足が入ったらもう片方も同じようにすればいい。あとは足を伸ばして座るだけだよ」
「そうすればいいのだな。潜って寝転がるものなのかと思っていた」
本当にこの子は過酷な環境で育ったのだな、と同情を覚えるヴィクター。シアルの年齢でそんなことも知らないなど、いくらなんでも有り得ない。路地裏で育つような子供ですら傭兵組合の銭湯には入れるのだから。
「そんなことしたら溺れちゃうでしょ。ゆっくり疲れを取るためのものだからね」
「理解した。では、入らせてもらうぞ」
シアルが足を持ち上げ、緊張の面持ちでその足を浴槽に入れる。その瞬間、彼の表情から緊張の色が消えた。浴槽の縁に手を置き、いそいそともう片方の足を浴槽へ運んだ。かと思えばざぶんと勢いよく座り込む。盛大な水しぶきがヴィクターにかかった。
「どう?気持ちいいでしょ」
ヴィクターのその言葉に返事はなかった。ただシアルの赤く染まった顔に浮かんだ蕩けた表情を見れば、彼が風呂の魔力に取り込まれたことは一目瞭然で、ヴィクターはしてやったりと笑みをこぼす。同時に殴られる心配もなくなったな、と少しほっとするのだった。




