第十六話 ティータイム
シアルはまず、カップの中を覗き込む。そこには湯気の立つ赤褐色の液体が満ちていた。言葉にすればそれだけ、しかしその液体が最高級の飲料であることを彼の五感、そして直感が察知している。
「ほう……」
思わずため息が漏れる。脳内は早くこの美しいものを飲みたいという考えに支配され、熱さの証である湯気が収まるまでの一分一秒が限りなく遅く、もどかしく感じた。所在なさげにカップの周囲をうろうろと動くシアルの手を、ヴィクターは微笑ましげに眺める。
「そろそろ飲める頃合いだよ。とても楽しみにしてるみたいだし、先に飲みなよ、シアル」
「なっ!わ、我はそのような……。ぬう、いただきます」
反論を試みたものの、自分の先ほどの行動を思い返してその余地がないことに気付くシアル。欲求も相まって、大人しくヴィクターの言葉に従うことにした。カップを手に取り、口元へ運ぶ。
「んくっ。……ん!」
(美味しい!こんなになんて!)
口に含んだ瞬間に感じるのはベルガモットの柑橘特有の爽やかで、しかし優しい落ち着いた香りだ。それが茶の渋みと見事に調和しており、口あたりはとても優しい。だが渋みは消えているわけではなく、味わうほどにその存在を舌へ主張してくる。これまで渋さというものにマイナスなイメージがあったが、この渋さはむしろ好ましく思えた。更に、口に含んでいるうちにほのかな甘さが出てきたようにも感じる。雑味もなく、とても飲みやすい。口の中で様々な表情を見せてくれるこの紅茶は、ヴィクターの過大評価とも思えた言葉を納得させるだけの質を誇っている。
「ぅ……」
言葉を失うシアル。飲み込み、口の中が空になっても風味や香りが残っている。後味すら爽やかで心地よい。今はこの余韻に何も考えずに浸っていたいと思う。
「ね、美味しいでしょ!僕も飲もっと!」
やはりとても嬉しそうなヴィクターがカップを口に運び勢いよく傾ける。なんとカップの中身を一口で飲みきり、ぷはーっ!と。まるで酒飲みのような息を漏らした。
「ああ、ルーノちゃんの紅茶は五臓六腑に染みるなあ!」
「味わって飲んでっていつも言ってるよね、私」
無礼者へ冷ややかな視線を向けるルーノ。温かい紅茶の一気飲みで温まったはずのヴィクターの体が瞬時に凍えた。このままでは説教が始まると感じたのか、わざとらしく咳払いをして話題を変えようと試みる。
「こほん。い、今は僕よりシアルの方が大事じゃない?ほら、放心状態みたいになってるよ」
その言葉を受けルーノがシアルを見やると、そこには蕩けた表情でどこか遠くを見つめている、つい先ほどまでとは別人のような彼の姿があった。紅茶にはリラックス効果があると言うが、この場合はそれとは少し違うだろう。
「ねえ、シアル。大丈夫?意識はある?」
ヴィクターの魂胆は透けているが、確かに今はシアルの意識を呼び戻すことの方が先決。ルーノはシアルの方へ赴き、声をかけつつ目の前で手を上下させた。呼びかけの甲斐あってか数秒してシアルは我に返ったようで、両手で顔を覆うようにして目を擦りながら小さく呟く。
「……桃源郷にいたかのような気分だ」
「紅茶一杯でそこまで言ってもらえるとは光栄だよ」
ルーノは無表情でそう返す。一見何も感じていなさそうな様子だが、シアルにはその姿が心なしか嬉しそうに見えた。もしかするとルーノという人間は表情が動かないだけで、実際は感情豊かなのかもしれないとこの短い交流でシアルは感じ始めている。
「それだけの価値があるものだった。素晴らしいものを振る舞ってくれたこと、礼を言わせてくれ。感謝する」
だからこそルーノには礼をしっかり伝えようと思った。むしろ伝えたいとすら思う。無表情に見える彼女の心が少しでも動く可能性があるのなら、それは喜ばしいことだから。
「そんなにかしこまらないで、堅苦しいのは好きじゃない。でも言葉は受けとっておくよ、どういたしまして」
だがやはりと言うべきか、そんな思いをよそにルーノはあくまで表情を動かさずに返してくる。もしかすると自分のこの思いは届いていないかもしれないし、無駄なものかもしれない。だけど、それでも何かせずにはいられないと感じさせる魔力、魅力のようなものをルーノは持っていた。
「ルーノちゃん、おかわり!」
そこに割って入るヴィクター。マイペースここに極まれりである。この雰囲気をよく邪魔できるな、とシアルはもはや感心のようなものを覚えた。それと同時に、こんな人間とこれからの旅で上手くやっていけるのか不安にもなる。
「本当に君は……」
ルーノも呆れた様子でため息を吐く。だというのにヴィクターは笑顔を崩さない。挙げ句の果てにルーノへ向けてカップをずい、と差し出してくる始末。これをパートナーとしてそばに置いているルーノは相当心が広いのかもしれない、とシアルは彼女に対する認識を更に改めた。
「分かった。おかわりをあげるのはいいけど、条件をつけさせてもらおう」
「えっ」
いや、やはり結構怒っているのかもしれない。素っ頓狂な声を上げるヴィクターをよそに、無表情からは感情を読み取るのが難しいとシアルはこれからの旅への不安をいっそう募らせた。無表情とマイペース、しかもどちらも筋金入りときたのだから胃が痛くなる。
「今日の夜の見張り、君が一人でやること。本当は交代してやろうと思ってたけど気が変わった。私の紅茶は高くつくよ」
「うぅ、僕に徹夜をしろと……?でもカフェインを摂ったから眠れないのは確かだ。分かった。本を読みながらでもいいなら、やるよ」
ルーノの言葉を受けて笑顔が消え、俯くヴィクター。シアルにとって耳慣れない単語を含む言葉をぶつぶつと早口で零したかと思うと、顔を上げもう一度カップをずい、と差し出した。ルーノはもうため息を吐くこともせずにティーポットから紅茶を注ぐ。
「本を読むのはいいよ。でももちろん寝過ごしたり、遅れの原因になったりしたら怒るから」
「気をつけます」
ヴィクターが背筋を伸ばす。そしてカップをテーブルへ置き、テントへ何かを取りに向かうのだった。彼の入っていったテントの中からゴソゴソと音が聞こえる。しばらくしても戻ってこないあたり、あの大荷物の中身の大半は本で、今日何を読むか悩んでいるのだろうとシアルは直感する。五分経った時点でルーノが声を上げた。
「ねえ、ヴィクター!私そろそろお風呂入りたいから、長くなるなら先に準備してくれると助かるな」
「あと十分待っ」
ふざけた言葉がテントの中から聞こえた瞬間、季節が変わったかと思うほど周囲の温度ががくっと下がった。いや、実際には下がってはいない。そう感じさせるだけのプレッシャーをルーノが放ったのだと遅れて鳥肌の止まらないシアルは理解した。
「何?」
「なんでもないですやります!」
テントからすっ飛んできたヴィクターが勢いそのままに魔術を発動、瞬く間に縦は五十センチ、横は一メートル半ほどある壁が四枚囲いを作るように現れる。壁の表面と内側は鏡のように輝いており、つい先程まで土だったとは信じられない。現れたそれの正体に気付く頃には、ヴィクターは湯気の立つ大量の水球を囲いの上に生み出していた。ザーッ、と音を立てて囲いの中に湯が流れ込む。一分も経たないうちに簡易的な浴槽が出来上がる。
「魔術って、本当に便利だね」
「間違いないな……」
続いて更に高い土の壁、恐らくは浴室の囲いを作り出し始めたヴィクターの鮮やかすぎる手腕を前に、魔術が使えない二人は密かに親睦を深めるのだった。




