第2話 ホット缶コーヒーの奇跡 - 3
『………………すまない』
俺の脳内ではこの言葉がリピートされ続けている。
まさかこんなところで遭遇するとは。
ましてコイツ自ら喋りかけてきただなんて。
入学してから一度も思うことなんてなかったさ。
蛇に睨まれたカエル……というよりはキツネにつままれた村人Aにも等しい俺は、本当に呆気に取られてしまって、何の反応もできなかったのである。
しかも、それだけでは終わらなかった。
一歩、また一歩、と眠り姫が近付いてきているのだ。
酷く眠そうな目。色が白い。顔が近い。
キメ細やかな肌にはシワの一つも見当たらない。
何だか良い香りが漂ってくるような気さえする。
決して甘ったるいわけではなく、むしろビターな……?
彼女は俺の目の前で立ち止まった。
俺の顔を見て、そして手元を見て、そして。
どこから取り出したのか――いや単に俺の目に映っていなかっただけかもしれんが――いつのまにかその手に持っていた〝お茶〟を、空いた俺のもう片方の手の中へと半ば強引に押し込んできたのである。
こんなに不意を突かれては抗えるわけがなかろう。
そりゃあ成す術もなく受け取るしかなかったさ。
不覚にも、握っちまったぜ、ヤツのお茶。
季語は不要だ。即席の川柳なんだから。
「えっと、あーっと、これは?」
「…………詫び。受け取って」
そうか、ぶつかった詫びと申されるか。
確かに基本金欠な俺には非常にありがたい。
これで苦ドリンクを口に含んでは、毎回ウォァェーっと嘆き呟く必要もなくなったわけだ。
素直に美味しい昼飯を楽しめるだろうか。
まして缶コーヒー代が浮いたと考えれば一度に二度の味を楽しむことができてラッキーなのではあるまいか。
なるほど、アクシデントこそ起きてしまったが、結果オーライになったのであれば文句を言うつもりは――
「……代わりに、ソッチ、貰うから」
「えっ……あー、えっ?」
――つもりはないと思ったのも、ほんの束の間。
次に彼女が発した言葉の意味を、俺は一瞬理解することができなかったのである。
キチンと握っていたはずの缶コーヒーがグイと引っぺ剥がされ、あちら側の手の中に収まっていたことに、数秒遅れて気付いてしまったくらいだ。
彼女の手の中にあったお茶は、今や俺の所有物となり。
俺の残念缶コーヒーは、彼女のその小さな手の中に。
Why? つーか何なんだこの状況。
誰か原稿用紙一枚程度で簡潔に説明してほしい。
どうやら、本当に何故かは俺には分からんのだが、彼女のお茶と俺の缶コーヒー、奇妙な交換が今ここに勝手に成立してしまったらしいのである。
やや下方からの彼女の視線が突き刺さる。
なんつーか、うん。
トンデモなく綺麗な瞳だ。
吸い込まれそうなくらいに曇り一つない。
何故だか眠い以外の感情が秘めていそうな気がする。
「…………それじゃ。急いでるから」
「え、あ……お、おう」
以降のやりとりは酷く呆気ないものだった。
ついさっきまで目の前にいたはずの彼女は、既に俺に背を向けて、渡り廊下のほうに歩き出していたのである。
気の利いた言葉をかける隙もなく、段々と人混みの向こう側に消えていって、やがては完全に見えなくなってしまったのだ。
……まるで朝方の夢のような時間だった。
手元に残った冷たいお茶が、やけにじわりと熱を奪ってくる。
そうか、そりゃあコイツは青色ボタンの商品だもんな。
何故かあのブラック缶コーヒーの温もりが、今はモノ恋しく思えてならなったわけで。
春も深まりかけたこの季節、ホット缶コーヒーのホットの部分の重要性にようやく気付かされちまったかもしれん。
心の中で、俺は小さく呟かせていただいた。
また、喋れるタイミングは訪れるのであろうか。
手元のペットボトルのフタを捻っても、ウンともスンとも反応は返ってこなかった。
せめて缶コーヒーなら、最低でもプシュッという軽快なリアクションを返してくれたのかもしれんのにな。
――だが、しかし。
あのホットブラック缶コーヒーにまつわるエピソードは、それだけでは終わらなかったんだ。
なんやかんやで昼飯を終えてマイHRに戻り、その後はまた無駄に平穏な一日を過ごして、迎えたその翌日。
ついに、ついに知ってしまったのさ。
俺だけしか知らない彼女の秘密を。
孤高の眠り姫の、覚醒したレアな姿ってヤツを。