第2話 ホット缶コーヒーの奇跡 - 10
「ふぅ。やはりコーヒーはいいね。身体も心も落ち着かせてくれる。君もそうは思わないか?
まぁコレはあくまで個人的な意見だ。強要するつもりもないよ」
どうやら飲み干したと思ったのは俺の思い過ごしであったらしい。
彼女は再び缶に口をつけると、ほんの一回だけ喉を鳴らしたのち、またやけに大人びた微笑みをこちらに向けてきたのである。
正直、トンデモなく絵になっている。
つい言葉を失ってしまった自分が恥ずかしい。
「……あ、いや、すまん。確かにコーヒーを飲めば少しは落ち着けるかもしれんが、残念ながら俺はこの状況を少しも飲み込めてないわけで」
「ああ、だろうね。その顔を見たら分かる」
そうとも。そうともさ。そうだろうよ。
鏡を見なくても引き攣っているであろうよ。
いや、だってさぁ!?
普段は九割九分九厘無口な女子がいきなり饒舌になっちまったら、対する一般人代表の俺としては、そりゃあ唖然として開いた口が塞がらなくなっちまうもんだろ!?
別にそこまでポーカーなフェイスが得意なわけでもないが、今なら配られた時点でフォーカードが揃っていたとしても、顔色一つ変えない自信はあるぜ。
それくらい万に一つとしてない驚天動地の真っ只中にいるのである。
「一応、心の準備はできたつもりだ。さぁ話してくれ。何でも聞いてやるさ畜生め」
「ふふっ。いい心意気だ」
そう微笑み呟くと、眠り姫はどこか遠い目をしながら首を上げなさった。
彼女につられて俺も見上げてみる。
残念ながらどこまでも広がる青い空なんてモノは見えなかったぜ。
全て場違いなビーチパラソルが遮っちまうからな。
視線の先を眠り姫に戻しておいた。
彼女も彼女で少しだけ困ったような顔をしているらしい。
「さてと。どこから話したらいいものか。イチから具に説明すると少しだけ長くなってしまいそうだけれども……少しだけキミの時間を貰っても構わないかな?」
返事の代わりに頷いておく。
乗りかかった船だ。今更降りられるかよ。
俺の回答に腹の虫が機嫌悪そうに唸りかけたが、ここは気合いで抑え込んでおく。
俺から時間を貰うも何も、さっき一分待たされたことも踏まえて、すでにアンタに時間を預けちまってるんだからさ。
今更引き下がれるわけもなかろうよ。
状況の理解が先なんだよ、こういうときは。
さぁ、頼んだぜ。
「どうか肩の力を抜いて聞いてもらいたい。そして別に緊張するほどでもないただの世間話の一つだと思ってくれたら嬉しい」
ポニーテールをさらりとたなびかせた彼女は、まるで流れる水のようにスラスラと、別に早くもなければ遅くもない独特なペースで言葉を続けていく。
「まずは自己紹介から始めさせていただこう。君は私の名前を知っているかな? これまで人とあまり関わりを持たないように過ごしてきた分、名前を覚えられた経験が乏しいからね」
「名前、ねぇ」
そういえば俺は彼女の通り名を知っているだけで、眠り姫の本名自体は覚えていない。
クラスメートかつ、更には隣の席だというのに、だ。
何だよ、ダメか?
百歩譲られてもギリギリでセーフだろうよ。
中学からの持ち上がりの連中ならともかく、別に特別仲が良いわけでもなければ頻繁に絡むわけでもない他中出身の生徒の名前を、ものよ律儀に覚えていられるほど俺は情と記憶力に富んだ人間ではないのだ。
確かHRの教卓に名簿が貼られていたような。
教室に戻ったらあとで確認させていただこう。
とりあえず無言で首を横に振っておく。
両手を合わせて謝罪のポーズも忘れていない。
残念には思わないでくれよ。
これがいわゆる現実ってヤツなんだから。
顔色一つ変えないように見えたのは、彼女から滲み出る自信の表れからだろうか。
「そうだろうね。それでは改めての初めましてだ。
私の姓は柳、名は有姫。川柳の柳という字のヤナギに、有明の有の字のユウ、お姫様の姫の字のキ、全部合わせて柳 有姫」
「やなぎ、ゆうき……」
「可能であれば気軽に〝姫〟とでも呼んでもらいたいところかな。
私は名字や名前を直接呼ばれるのがあまり好きではなくてね。ちょっとしたコンプレックスなんかもある。こういうのは適当かつ安直なくらいが逆に気楽でちょうどいい」
「そうかなるほど、だから眠り姫と……」
〝孤高の眠り姫〟ってあだ名は有姫の姫の字を用いられていたわけだな。
名は体を表すとはよく言ったものだが、確かに俺の目の前に鎮座する彼女は、どこかの国のお姫様のような、そんな気品溢れる佇まいをしているように思える。
「ああ、別にそれでも構わないよ? 周囲から私がそう呼ばれていることも充分に認知しているつもりだ。
愛称か蔑称はさておきつつも、普段の私のことを端的に表している良いあだ名だと思う。最初に名付けた人に拍手を送りたいものだね。少々堅っ苦しいのが難点だが」
俺も素直に拍手を送りたい。
ついさっきまで言い得て妙のドストレートを貫いたあだ名だと思っていたくらいだ。
だが、しかし。
今の状態の眠り姫を眠り姫とは呼べないだろう。
全く眠っていなければ、そこまで言動と行動に孤高感も感じられないからだ。
むしろ一定以上のフレンドリーさがあるかもしれん。
……仕方ない。
本人が姫と呼んでくれと言っているんだ。
ヘタに奇を衒う必要はあるまいよ。
「それじゃあそのまま、姫で」
「うむ、ありがとう。ということは次はキミの番だね」
「お、俺の?」
「自己紹介は相互なモノと相場が決まっているだろう?
ああ、心配しなくとも名前くらいは把握しているよ。よく呼ばれているあだ名のほうも。キミのは特にシンプルで覚えやすいモノだったからね。隣で何度か聞いていれば嫌でも記憶に刻み込まれるさ」
おうふ、マジかよ。
それだと名前を覚えていなかった俺がめちゃくちゃカッコ悪いじゃないか。
いや、現にもうカッコ悪いのか。
……ったく仕方ない。ええいままよッ!
開き直ってしまえば案外こっちのものである。
さぁほらッ! 俺の名前を言ってみるといいッ!
別に今は世紀末でも何でもないが、せめて虚構で塗り固めた見栄だけでも張らせていただこう。
兄に勝る弟がいたっていいだろ。
世の中ってのは己の想像以上に広いんだから。