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事件が起こったのは、その翌日だった。
「お嬢様! お嬢様! 起きてくださいませ!」
昨日の臨時メイドの仕事で疲れていた私は、朝の遅い時間まで惰眠を貪っていた。でも、けたたましくドアを叩く音で叩き起こされた。
「何。メアリー。今日は、特に予定はなかったはずじゃない?」
我が家のメイド長――と言ってもメイドは二人だけだけれど、メアリーが、私が声を発するや否や部屋に飛び込んできた。
「お、大急ぎでお支度を! 一番上等な服に!」
「……どうしたの?」
「お嬢様にお客様です! エメライン公爵家の御令嬢です! 王太子殿下の、こ、婚約者の!」
私は、ベッドから飛び降りた。
これ以上ないスピードで服を着替える。我が家は一人一人にメイドがつくような生活はしていないので、普段は基本的に一人で着られる服を着て生活している。しかし、メアリーが持ってきたのは、パーティーに着ていくような豪華なドレスだった。いつもなら半日は使って用意する正装とヘアメイクを半刻で終わらせた私は、転ばないギリギリの速さで応接間に向かった。
応接間では、顔を青くした両親が、アメリア様のお相手をしていた。
執事が震える手でドアを半分開けたところで、父が「娘が来たようです!」と半ば叫んで、私を部屋に引っ張り込んだ。
「た、大変お待たせいたしました。ヒューズ男爵家が娘セルマでございます」
私にも父の無作法に文句を言う余裕はなかった。
一礼して顔を上げる。
ソファに座って、優雅に微笑むアメリア様は、窓から差し込む朝の光に照らされて、本当に目も眩むような美しさだった。金色の髪が陽に透けて文字通り金色に輝いている。
完璧な所作でカップをテーブルに戻す仕草までが美しい。
「気にしないで。前触れなく突然来たのは、私だもの。御無礼お許しくださいね」
「とんでも無い。エメライン公爵令嬢をお迎え出来てこれ以上なく光栄でございます」
上がる息を無理矢理抑えて、これでもかと深く挨拶をする。
アメリア様はそれに頷くと両親に向き直った。
「私、セルマさんにお話がありますの。申し訳ありませんが、少し席を外していただける?」
「は、はい! もちろん」
アメリア様にそう言われるや否や、風のように、ドアから消えた父と、ちらりをこちらを見ながら心配げに出て行った母にため息を押し殺す。
メイドと執事も「ドアの前におります」と頭を下げて部屋から出た。
部屋にはアメリア様と二人きり。
もう一人のメイドが下がる前に用意してくれたお茶を入れ直す。
私が震える手で入れたそのお茶をゆっくりと完璧な所作で飲んでから、アメリア様は私に向かってにっこりと笑った。
「昨夜はお疲れ様。楽しい会だったわ。支えてくれる裏方の方達のおかげね」
意外だった。王太子殿下の婚約者という、ある意味国の最高位にいる方が、裏方に気を配ってくださるとは。
「あなたのこと、少し調べさせていただいたの。社交シーズンには時々、臨時でメイドとしてお城に上がっているそうね。ほかには、何かお仕事はされているの?」
「はい。あの冬の間は少し刺繍を刺したり、小物を作ったりして街へ卸しています。仕事と言えるほどのものではないですが。兄がおりますし、家の仕事を覚える必要もありませんので」
私の答えにアメリア様は、満足気に頷いた。
「そう。――今日は、あなたにお願いがあってきたの。最初に確認させてちょうだい。あなた、将来を誓い合った方はいるのかしら」
そう言われてクレイグの顔が浮かんだ。婚約しているのだから、将来を誓い合ったと言えばそうだろう。でもそのフレーズから連想されるロマンティックなものは何もない。
「将来を誓い合った、と言いますか、親が決めた一応の婚約者がいるのは居ると言ったところなのですが、いつまでその婚約が継続するかはちょっとなんとも言えないと言いますか……」
私は、しどろもどろに説明する。公爵令嬢相手に嘘をつくわけにはいかないし、かといってクレイグが隠している婚約を私が勝手に伝えていいものなのかどうかもわからない。
しかし、私のそのはっきりしない回答に、アメリア様は破顔するとうれしそうに胸の前で手を合わせた。
「そうなの! 私と一緒ね!」
「え?」
一緒……ではないと思う。アメリア様と王太子殿下の婚約は国中の者が知るところだ。王太子殿下はアメリア様を溺愛していて、お二人は仲睦まじいというのも有名な話だ。
どこが、私と一緒なのだろう。
アメリア様は、嬉しそうに話をつづけた。声までも、鈴のようでかわいらしい。
「私ね、殿下との婚約は破棄しようと思うの。婚約を解消する方法をいろいろと調べたのよ。まず、両家の父にお願いしてみたの」
両家の父って、公爵閣下とまさか国王陛下?
かわいらしいのは声だけで、内容は全くかわいらしくない。爆弾発言にすっと背筋が凍る。これは私が聞いていい話なのだろうか。
私は、思わずごっくんと音を立てて紅茶を飲み込んでしまった。所作が完璧な公爵令嬢は、下々の者のマナーには寛大なようで、気にせず続ける。
「だけど、全く許していただけなかったの」
それはそうだろう。一国の王太子の婚約だ。「お願い」くらいで解消できるわけがない。
「それでね。ほかの方法を調べたの。――私、死ぬのは嫌なの」
「――ええ。わかります」
私は、飲もうとしたお茶をそっとソーサーに戻し、慎重に頷いた。
私のことも、どうか聞いてはいけない話を聞いたかどで死んだりしなくていいようにしてほしい。
「でも、私、一人で街を歩いたこともないし、料理もできないし、掃除もできないでしょう。平民になって生きていけるとも思えないの」
「――なるほど」
それどころか、一人で服を着替えたり、お風呂に入ったり、食事を並べたりもできないのではないかとは思ったけれど、言わないでおくことにした。
「それでね。やっぱり、修道院に入るしかないと思ったの」
なるほど。――ではない。
「あ、あの」
危うくうなずいてしまいそうになるのを何とかこらえ、私は勇気を振り絞って、アメリア様に声をかけた。
「なあに?」
すぐに頷かなかった私にも、鷹揚な笑顔で答える。
「エメライン公爵令嬢は、」
「アメリアでいいわ」
「――アメリア様は、どうして殿下と婚約を解消されたいのですか」
「言ったじゃない。私、死にたくないのよ」
なんでそんなことを聞くんだと言わんばかりのアメリア様は、説明が足りないと思ったのか、私の方に前かがみになると、重大な秘密を漏らすように小声で言った。
「殿下には、運命の相手が現れるの。そうしたら、私はその方を、嫉妬のあまりいじめて、そして怒った殿下に殺されてしまうの」
――は?
辛うじて声には出さなかったーーと思う。
理解が追い付かず、固まってしまった私に、アメリア様は、だからその前に婚約を解消しようと思うのと言ってにっこり笑った。
その後辛抱強く聞き出した話はこうだ。
ある日、お忍びで街に出た際に、予言師と名乗る占い師のような人間にそう告げられたというのだ。その予言師は、アメリア様が身分を隠していたにも関わらず、王太子殿下の婚約者だということを正確に言い当て、ほかにも殿下とアメリア様しか知り得ないような過去の出来事まで言い当てたらしい。
そして、このまま婚約者を続けても殿下とは結婚できない。殺されると告げられたらしいのだ。
「――それは、殿下もご存じなのですか」
「ええ。もちろん」
「殿下はなんと?」
アメリア様はカップを置くと悲しそうに目を伏せた。
「そんなことはあり得ないと。全く本気にしてらっしゃらなかったわ」
そうだろうな。というか、その怪しい予言師、王太子殿下の逆鱗に触れていないのだろうか。ヘタをすると、もう生きていないのでは。少なくとも、町を自由に歩ける身分ではなくなっているだろうな。顔も見たことのない占い師の安否が心配だが、それについても触れない方が賢明だろう。
「でもね。私が、殿下との婚約を解消もせず、死にもしないようにうまく立ち回ろうとすると、私の代わりに殿下が命を落とすのですって」
アメリア様はそう言って、手元に目線を落とした。相変わらず微笑んではいたが、それまでの笑顔と違い、悲し気な笑みだった。
そういうことか。アメリア様と王太子殿下の仲の良さは、社交界に片足を突っ込んだかどうかという私にも届くくらいだ。婚約の解消も殿下が嫌になってとか、ただ単に自分が死にたくないからということではないのだろう。
ーー相手のため、修道院へ。
そうか。立場は違えど、この方も相手のためを思って婚約を解消しようとされているのだ。
なんだか、私なんかがおこがましいかもしれないけれど、同志のような気持になってきた。
「――あの、それでこの話をどうして私へ?」
「そうだったわ」
アメリア様は、これ以上かわいらしくはできないと思われるしぐさで、胸の前で手を合わせた。
「――だからね、あなたには修道院へ行っていただきたいの」
「え?」
なぜ私の話に?
固まる私にアメリア様は気にせず続ける。
「私、料理や洗濯だけではなくて、自分の身の回りのことも全く一人ではできないの」
――わかっているんだ。
「身の回りのことをお任せできる人を連れてきてもよいとは言われているのだけれど、公爵家の者を連れて行こうとしたら、お父様に知られてしまうでしょう?」
うーん。ここでもう一つ聞きたくない情報を得てしまった。公爵閣下には内緒なのか。まあそうだろうな。
「ずっとではないのよ。私もあちらに行ったら、少しずつ一人で身の回りのことをできるように練習するし、ある程度目途が立ったらあなたは還俗して、こちらに戻れるようにするわ。すぐに結婚の予定はないということは調べてあるけれど、婚約者がいるということは知らなかったの。あなたが婚約者とこのまま婚約を継続したいなら、この件で解消になったりしないように、こちらから話をつけるわ」
公爵閣下に秘密なのが不安だけれど、アメリア様の出した条件は、今すぐ結婚しないといけない事情のない下級貴族の令嬢にはこれ以上ないものだと思う。だけど――。
「――いえ。そのようにお話をつけていただく必要はありません」
「そうなの?」
「はい。ぜひ私もお連れください」
アメリア様は花のように笑った。