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またまた久し振りになってしまいました。
お楽しみいただけると嬉しいです。
「――だからね、あなたには修道院へ行っていただきたいの」
見慣れた我が家の質素な応接室にはそぐわない優美な所作でカップを置くと目の前の女性は優雅に微笑んだ。
華やかなシャンデリアが照らす大ホールは、その輝きに負けず劣らずの煌びやかな衣装に身を包んだ男女で溢れていた。皆、踊ったり、おしゃべりに興じたり、目立たぬように料理を楽しんだり思い思いに過ごしている。
その一角に、ある意味異様な光景が出来上がっていた。
「クレイグ様、私と踊ってくださらない?」
「まあ、ずるいわ。なら私とも踊ってくださらないと」
「お美しいレディ方。残念ながら本日は警備の任務での参加なのです。皆様のお相手ができず、心苦しいのですが」
「まあ。そんな。お気になさらないで。大事なお役目ですもの」
美しく着飾った年頃の令嬢たちの真ん中にいるのは、パーティ会場を警護する王宮騎士。通常は、空気のような存在のはずだが、彼に限ってはそんなことはないらしい。
漆黒の髪を騎士らしく短く切り揃え、キリリとした眉とその下の同じく漆黒の瞳が凛々しいその騎士は、王宮騎士であるクレイグ・サンダース。子爵家の三男で、家柄こそ大したことはないが、その見た目と剣の腕で、王都の女性たちの憧れの的だ。
決まった女性はいないとのもっぱらの噂で、彼と良い仲になりたいと願う女性は貴族も平民も問わず、交際の申込みが後をたたないという。
その様子を見るともなしに見ていたら、女性たちの輪の中から出てきたクレイグと目があった。
本来のあるべき姿として空気に徹していた私は咄嗟に目を逸らして、食べ終わった皿をテーブルから片付けていく。テーブルで食事をしていた人たちは、もう踊りの輪に加わっていて、私の不自然な動きに気付く人いなかった。
「お皿ここに置いておくわ。皿洗いの下女の子たちに回してくれる?」
「ありがとう! セルマ。今日は本当に人手が足りなくて。来てくれて助かったわ!」
バックヤードに皿を下げながら話しかけた私に幼馴染のサラは申し訳なさそうに眉を下げた。私は笑ってお互い様よと答える。
祖父も父も、そして兄も王宮に勤める役人だというだけでギリギリ男爵位を繋いでいる末端貴族の我が家には、王城でのパーティの臨時メイドというのはとてもありがたい仕事だった。
名目上は曲がりなりにも貴族令嬢なので、できる仕事は少ない。能力があれば、正式に王宮メイドとして上がることもできるかもしれないが、それもサラのように最低でも子爵令嬢でないとよほど秀でたものがない限り難しい。かと言って平民のように雑用係の下女になるわけにもいかない。何せ家族が役人なのだ。その体面を保つための名ばかり男爵位なのに、自分から平民の仕事をしてどうする。
そんなこんなで、今のところ私にとって一番の仕事がサラが紹介してくれる臨時メイドだった。春から始まった社交シーズンも終わりに近づき、そろそろ今シーズンのこの仕事も終わりになる。そうしたら冬の間は貯めたお金で布や糸を買って刺繍や編み物をして過ごそう。
それを売れば来シーズンのドレス代くらいにはなるのではないか、などと算段しながらも、テキパキとお皿を片付けていく。
今宵のパーティもお開きが近づき、来客たちはだんだんと帰路に着いていった。
「今日もクレイグはすごい人気だったなあ」
そんな声にふと振り返ると、今日の警備を担当していた王宮騎士たちが三人ばかり固まって話していた。客もあらかたいなくなり、今日の仕事は終了のようだ。
そんなに見ていたつもりはなかったが、そのうちの一人が私の視線に気づいたようにこちらを見た。
「お嬢さんもクレイグに憧れる口かい?」
軽い口調だったが、さすが王宮に勤める騎士だけあって下卑た印象は受けなかった。
「あ、いえ。私は……」
「まあ。そうだよな。競争率高そうだもんな」
私が、軽く顔の前で手を振るとあっさり頷いた。
「まあ。そのうちどこかの高位のうちに婿養子にでも入るんじゃないか? 騎士爵よりは、いい暮らしができるだろう」
もう三人は私には興味を失ったようだった。私は、重ねた皿をワゴンに置くと、テーブルクロスを剥がしにかかった。お上品に食べているように見えても、長い時間パーティで使われたクロスは、あちこちに汚れがついていた。
「どこかの公爵令嬢が、クレイグに目をつけたって話だぜ」
「公爵家! 流石に家格が違いすぎる気もするが……。まあ、お嬢様のわがままに弱い父親なら許すかもしれないな」
バサっと音を立ててクロスを畳む。少し汚れが床に落ちたが、あとで拭けばいい。くるくると丸めたクロスをワゴンのカゴに突っ込んで、私はワゴンを奥に下げた。
「セルマ。本当に本当にありがとう!」
「いいのよ。また何かあったら声をかけてね」
サラの嬉しそうな声と臨時収入に心も懐も暖かくして王宮の裏門を出る。外の空気は冷たかった。夜も更けて辺りは真っ暗だけど、裏門といっても王宮への出入り口なので、道はきちんと整備されている。ところどころにあかりも灯っていて、灯籠を持っていなくても歩けるようになっている。落ち葉もきちんと掃除されていて、歩きやすい道だった。遮るものもないから吹き付ける風が直接届く。
「寒い」
私はブルっと身を震わせた。そろそろ出歩く時はもう一枚羽織ったほうがいいかもしれない。
我が家のタウンハウスは、――と言っても領地を持たない我が家には唯一の屋敷だけれど、王宮に近い下級貴族の屋敷が集まる一角にある。王宮に勤める役人や騎士が多く住む区画だ。女性の足でも歩いて帰れる距離で、父と兄も普段は歩いて通っている。
我が家には馬車が一台しかないのだ。
「セルマ」
「きゃ!」
王宮から離れるにつれ段々と薄暗くなってきた道で突然声をかけられ、私は飛び上がった。
振り返ると、思いもかけない人がいた。
「クレイグ!」
声をかけてきたのは、ある意味今日の主役と言ってもよい麗しの王宮騎士クレイグだった。
何故か少し怒ったような顔で、馬から降りるとそのまま私の側までやってきた。引かれた馬がカポカポと足音を立てる。
それにしても――。
「どうしたの? こんなところで」
夜道の一人歩きだ。私だって、馬が近づいて来たらいくらなんでも気づく。聞こえなかったということは、私が来る前からここにいたということだ。
「待ってた」
「誰を?」
こんなところで、さっきのパーティのご令嬢と待ち合わせだろうか。そう思ってから、仕事で何かを待っていたのかもしれないと思い直す。思ったより、先ほどの令嬢たちに取り囲まれている光景が衝撃的だったらしい。こんなところにご令嬢方が来るはずがない。
クレイグは、ため息をつくとさらに一歩私に近づき、私の脇に手を入れて持ち上げた。
「え? きゃあ」
とっさに体をひねると、私はもう馬上の人だった。クレイグが、私を前に抱くようにして自分も馬に跨る。
「セルマに決まってるだろ。俺が帰る時にはまだ片づけをしていたのに外に馬車を待たせてるでもないし。こんなことだろうと思った」
なんで馬車で来ないんだよ。
不機嫌に言われて、とっさに言い訳をする。
「今日は朝からトーマスが市場に買い出しに行くのに馬車を使わせてたのよ。あのご老体にこんな遅くに迎えに来させるわけにもいかないでしょう」
「じゃあ、おじさんかセディと一緒に帰ったらいいだろ」
「あの二人は、ここ一週間は泊まり込みよ。毎年この時期はそうじゃない?」
はあっとクレイグがため息をつく。
「――なら、俺に言えよ」
「クレイグの予定なんて知らないもの」
カッポカッポと馬の蹄の音が響く。クレイグの家のこの馬は、もうかなりの年で、あんまり遠出させたり早馬にしたりはできないので、クレイグが散歩させる代わりに普段のお勤めの行き帰りに使っているのは私も知っていた。
「――母さんに聞けばいい」
「そんなことでおばさまを煩わせられないわよ」
それに今更だ。私が今シーズン臨時メイドとして王宮に行ったのはこれで五回目。いつもは裏方で、準備だけ手伝ったり、下げられた食器や洗濯物をそれぞれの洗い場に運んだりするだけだったからクレイグが気づかなかっただけだ。
「大丈夫。今シーズンはこれで最後のはずだから」
「今シーズンは、ね」
呆れたようなため息がつむじにかかった。背中にクレイグの体温を感じて、もう肌寒さはどこかに行ってしまった。
再び沈黙が訪れたけれど、後ろから別の馬の蹄が聞こえて、クレイグは脇に避けた。馬車が近付く音だったからだろう。
馬車はガラガラと近付いてくると、そのまま通り過ぎるのかと思いきや、二人の真横にぴたりと止まった。
緊張しているのか警戒しているのかクレイグの腕に力が入るのを感じる。
立派な馬車だった。暗くてよく見えないが、おそらく高位貴族の家の馬車だろう。
と、その馬車の窓がカタリと開いた。
「まあ。クレイグ。奇遇ね」
美しい若い女性の声だった。
「……エメライン公爵令嬢」
――え?
「今日はお役目ご苦労様。大人気だったわね」
「恐れ入ります。ご迷惑をおかけしていないといいのですが」
「まさか! 私も混ざりたかったわ」
「ご冗談を。私が王太子殿下に切り捨てられます。――もう暗いのでお気をつけください」
エメライン公爵令嬢。アメリア様。王太子殿下の最愛の婚約者だ。歳は私と同じ十八歳。私もお近くでお顔を拝見したことはないが、その輝くばかりの美しさは、王国の薔薇と呼ばれている。こうして間近で見ると、暗い中でもその美しさが伺われた。
でも、なんだかおかしい。
何故こんな道を? アメリア様ほどの方なら、賓客用の正門から、王都の大通りを通って帰宅されるはず。
それに、こんな時間に? 既に警備の騎士も解散している時間だというのに。
クレイグの心配ももっともだ。
王太子殿下がご存じなのだろうか。
「ええ。ありがとう。――そちらの方は?」
ふとアメリア様が私の方を見た。明らかに、クレイグの体がこわばった。
「――本日の臨時メイドです。夜道を一人で歩いていたので、お送りしようと」
「そう。臨時のメイド……。あなた、お名前は?」
え? 私?
「あ、あの」
「エメライン公爵令嬢!」
将来の王妃様に声をかけられて口ごもった私と何故か焦ったように声を上げたクレイグの声が重なった。
アメリア様がクレイグに目線を移した。
「何? クレイグ。あなたには聞いてなくってよ」
「いえ。……あの、名前を聞く必要などないのでは? あくまで本日臨時で雇ったメイドですので、普段登城された際にお会いすることもないでしょうし」
その言い方に私はちょっとムッとした。そりゃあ、将来有望な騎士様や天下の公爵令嬢様にとっては取るに足らない人間かもしれないけれど、それでもせっかくアメリア様が尋ねてくださったのにそんな言い方はないと思う。
「――セルマ・ヒューズでございます。ヒューズ男爵の娘でございます」
「セルマ」
私がそう名乗ると、アメリア様に聞こえない小さい声でクレイグが咎めるように名前を呼んだが無視した。
「そう。ヒューズ男爵家。代々文官を務めているおうちね。なら、またお会いすることもあるわね。今日はありがとう。良い夜会だったわ。クレイグ、気をつけて送って差し上げて」
「は!」
さすが将来の王妃。貴族名鑑に載っている家はどんな末端でも全て覚えていると言うのは本当らしい。驚いている私と、馬上で騎士の礼を取るクレイグにアメリア様は、にっこりと笑うと、再び窓が閉まって、公爵家の馬車は遠ざかっていった。
クレイグの体から力が抜けた。
「……帰るか」
「……ええ」
その後は、言葉少なく、我が家にたどり着く。すっと背中の温度が消えた。ひらりと馬を降りて手を貸してくれるクレイグは本当に絵になる。そして私を惨めな気持ちにさせる。クレイグの手を借りても、もそもそとしか降りられない馬を降りて私はクレイグと向き合った。
「……じゃあ。今日はありがとう。でも私のことは本当に気にしないで」
そう言う私にクレイグは今日何度目かのため息をついて私の頭を撫でた。
「そんなわけにいかないだろう。一応、婚約者なんだから」
――一応ね。
その言葉と温かな手に胸が締め付けられて、クレイグの言葉には答えず、私は館に入った。