EP.3 聖女と聖杯(3)
もう間もなく日が暮れる。
「…………」
私室の窓際に立ち、ルニアはぼんやりと外の景色を眺めていた。
わずかにオレンジ色に染まりかけた空の向こう、数匹の鳥達が群れを成して飛んでいる。
毎日のように見ていたその景色は、ルニアにとってある種の苦しみだった。
鳥達はあんなに自由に空を羽ばたけるのに、どうして自分はこの小さなトリカゴの中から出ることができないのだろう。
分かっている。
それは誰のせいでもなく、間違いなく自分の意志によってそうしているのだということ。
けれど、それでもとルニアは思う。
「……私は」
自由というものを手に入れたいと、そう願ってはいけないのだろうかと。
「…………」
考えて、また少し自己嫌悪する。
聖女という肩書きと、生まれ持った不思議な力。
この二つは確かに誇れるものだ。
けど同時に、自分の両手足を縛る鎖でもある。
それを断ち切ることが正しい選択なのか、繋がれたままでいることが正しい選択なのか。
どちらが正しい答えであるかなんて分からない。
分かりたくもない。
どちらを選んだとしても、きっと後悔してしまうだろうから。
ならば、それならばいっそのこと……。
「……そんなことないです」
頭に思い浮かぶのは、昼間出会った一人の少年の言葉。
彼は自分の聖女の力をすごいと言った。
それは多くの人達に言われてきたことだし、人々を苦しみから救えるこの力は確かに素晴らしいものだと思う。
「そんな、こと……」
だが、それだけだ。
結局のところ、人々にとって自分という存在は救ってくれる存在であり
「ないですよ、きっと……」
決して自分は救われる存在ではないのだと、知ってしまったから。
だから、彼が寂しいのかと聞いてくれたとき、心が大きく揺れる思いだった。
今まで誰も触れなかったその心の奥底に、彼は何のためらいもなく踏み込んできたのだ。
それは決して嫌な意味合いのものではない。
常にどこかで距離を置かれる立場であった自分にとっては、彼の分け隔てないその優しさが眩しすぎた。
心の底から嬉しいと思えた。
何の感慨もないような一言だったかもしれない。
それでも、救われたような気がしたのだ。
本当はその言葉を、どれだけ待ちわびていただろう。
弱い自分を押し殺して、泣きたい夜に泣くこともできずに強がって。
「…………っ!」
できることならと、何度願ったことだろう。
聖女としてではなく、普通の人間として。
当たり前のように生きていきたいと思い願うことは、それほどまでに罪なことなのだろうか。
いや、そうではない。
きっと、そう思いながらもその心の中を言葉にできない弱い自分が悪いのだ。
だからといって、溜め込んだ言葉を吐き出してしまうだけのちっぽけな勇気さえ自分にはなくて。
繰り返すだけで日々は過ぎて、見えない翼はボロボロになって。
それは本当に、幸せなことなのだろうか。
「……わから、ない……っ! 分からないです、そんな、こと……っ!」
いつの間にか涙が溢れ出ていた。
こんなことは初めてだった。
いつもはもっとうまく感情を押し殺して、胸の奥に押しとどめておくことができたのに。
きっと、理由は簡単だ。
優しさに触れたからだろう。
何気ない、しかし偽りのない暖かい言葉に、触れたからだろう。
「ルニア様、よろしいですか?」
扉をノックする音と共に、レイモンドの声が聞こえた。
「は、はい。どうぞ」
ルニアは慌てて涙を拭い、精一杯の強がりで普段の自分を装う。
「失礼します……おや、いかがなされましたか?」
目元をこするルニアの姿にレイモンドは聞く。
「いえ。ちょっと目にゴミが入ってしまって」
実にありきたりなセリフだった。
自分をごまかす言葉としては、きっとこんなに便利なものは他にはない。
「それで、何か御用ですか?」
「ああ、いえ。大した用事ではないのですが……」
言いかけて、レイモンドはルニアから視線を外した。
「……何か?」
「……いえ。すいません、また後にしておきます。夕食までしばらく時間がありますので、ゆっくりと休んでください」
それだけ言い終えると、レイモンドは静かに扉を閉めて部屋をあとにする。
「……ふぅ」
聖堂の外に出て、レイモンドは小さく溜め息をついた。
広場にはもう人影はなく、夕日を浴びて白い岩の地面がオレンジ色に染まっていた。
レイモンドはぼんやりと空を眺める。
そこには何もない。
オレンジ色の空がどこまでも続いているだけで、何もなかった。
それはまるで、ある少女の今日までの生い立ちによく似ている。
「……私は……いや。私達は、正しかったのだろうか……」
思わず言葉に出ていたが、それを聞いている者はこの場にはいない。
ただでさえ初老のレイモンドの横顔が、さらに一回り以上老けて見えた。
そのとき、カツンという物音がした。
レイモンドはそれに気づき、視線を階段の方へと移す。
そこに人影はなかった。
だが、確かな気配があった。
大方教会の修道士の誰かだろうと思い、レイモンドは階段へと歩を進める。
数歩進んで、思ったとおり修道士の灰色の修道服が見えた。
そんなところで何をしているのかと問いただすため、さらにレイモンドは歩み寄る。
さらに数歩進んで、異変は明らかになった。
映る色は、赤。
「あ……レイ、モン、ド……司教…………」
「な……」
真っ赤に染まった衣服。
そしてそれを身にまとった修道士の男。
口の端から血を流し、階段の段差にもたれかかるように倒れている。
「どうした!? 何があったのだ!?」
「あ、う……蒼…………聖女、早く…………逃げ……」
途切れ途切れの言葉を発し、やがてその男は動かなくなった。
その体から流れ出るおびただしい量の血が、白い階段を伝って下へ下へと流れ落ちていく。
そして、その先に。
「っ!?」
数人の修道士達が、皆同じようにして横たわっていた。
白や灰色の修道服は真っ赤に染まり返っている。
その誰もが、もうピクリとも動かない。
あまりに凄惨な光景だった。
だが、その凄惨な光景の中心に立つ、二つの人影がある。
二人組みの男だった。
細く鋭い眼光を放つ目と、鼻先と口全体を覆いつくすグレーのマスク。
衣服は見たことのないものだったが、少なくとも一般の民衆が好んで着るようなものではないことは明らかだ。
そして何より目立つのは、その衣服の色。
まるで夜空のように深く深く染まった、黒に限りなく近い深い青色。
そしてそれぞれの右の二の腕には、同色のスカーフが結ばれている。
「ま、さか……」
レイモンドののどが干上がる。
肺の中の空気が根こそぎ押し出され、急激な渇きを覚える。
嫌でも理解した。
「蒼の……蒼の旅団!」
レイモンドが小声で呟くのと二人組みの男がゆっくりと動き出すのは、ほぼ同時だった。
物音に気づいて、ルニアはベッドから起き上がった。
「……誰ですか?」
扉に向けて声を投げるが、そこからは誰の返事も聞こえない。
「……?」
不思議に思い、ルニアは扉へと近寄る。
ノブを握り、内側へと扉を引くと、そこに
「レ……レイモンド司教!?」
体中あちこちを血まみれにしたレイモンドが倒れていた。
「ぐ……ルニ、ア、様……早く……早く、お逃げ……ください……」
「な、何を言ってるんですか!? それより、何があったんです!? こんな、ひどい……」
レイモンドは刃物で斬られたような傷跡をいくつも作っていた。
とてもじゃないが、道端でつまずいて転んだ程度でこんな惨状になるとは思えない。
「と、とにかくそのまま動かないでください! すぐに傷を塞ぎますから!」
ルニアはレイモンドの傷口に手を当て、聖女の力を使役しようと試みる。
だが、その小さな手をレイモンドの大きな手が掴む。
「え?」
「……私には、構わず……一刻も早く、ここから逃げてください。早くしないと、やつらが……」
「……やつら? レイモンド司教、やつらって、一体……」
「いい、から……早く、早く、逃げ……て……」
「で、できるわけないでしょう!? こんな大怪我をしてるのに、放っておくなんて!」
ルニアが叫んだ、そのとき。
「あ……」
新たに二人分の足音が、目の前へとやってきた。
「……あなた達は、一体……」
「お前が聖女か」
しかし、新たに現れた二人組みのうちの一人は、ルニアの問いを無視して言う。
「我らと共にきてもらおう。抵抗すれば、この男をお前の目の前で殺す」
有無を言わさぬ冷たい言葉に、ルニアの背筋が凍りつく。
「いけま、せん……ルニア様、早く。私が、少しでも時間を……稼ぎ、ます……」
「黙っていろ」
もう一人の男が倒れているレイモンドの腹部を思い切り蹴飛ばす。
骨が何本も砕ける音がした。
レイモンドの体が廊下の奥へ何メートルも転がり、とうとうピクリとも動かなくなる。
「やめてっ!」
叫び、ルニアは部屋を飛び出してレイモンドのもとへと駆け寄る。
「司教! レイモンド司教! しっかりしてください!」
かろうじて息があるのか、耳を当てると小刻みな呼吸音が聞き取れる。
しかし、重症であることに変わりはない。
急いで医者に診せなくては、このままでは確実に死んでしまう。
「余計な手間を取らせるな。早く来い」
男は感情も温度もない声で繰り返す。
ルニアは目の端に涙を溜めながら、鋭く男を睨み返した。
「……そうか。やはり目の前で死体に変えなければ気持ちは変わらんか」
言うと、男は腰から一本の短剣を取り出し、その切っ先をレイモンドへと向ける。
「や、やめて!」
その手にしがみつくようにしてルニアは叫ぶ。
「ならば我らと共に来い。大人しく従えば身の安全は保障する」
「…………」
ルニアは倒れたまま動かないレイモンドに目を向ける。
ここで逆らえば、男達は間違いなくレイモンドを殺して力づくでもルニアを連れて行くだろう。
かといって、このまま放っておけば辿り着く結末は同じことだ。
どちらかを選べと言われれば、それは……。
「……分かり、ました。あなた達の指示に、従います……」
「…………」
その言葉を受け、男は短剣を腰へとしまう。
ルニアは力なく立ち上がり、二人の男に誘導され聖堂の外へと向かう。
あとはもう、祈ることしかできない。
運良く誰かがこの場所を訪れ、まだ息のあるレイモンドを助けてくれることを。
「……ごめん、なさい……」
ルニアは泣きながら小さく呟いた。
肝心なとき、その身に宿った力は何の役にも立ちはしない。
近しい人の一人さえ救えない。
こんな力は、きっと誰も救えやしない。
それどころか、こんな力のために多くの人が傷ついてしまう。
何が聖女だ。
何が奇跡だ。
こんな……こんなことになるんだったら、いっそこのまま死んでしまったほうが
「――そんなことない」
「え……?」
突然のその声に、ルニアの足が止まる。
一歩前を歩いていた二人の男もそれは同様だった。
最小限の動きで周囲を見渡すが、扉の閉じた聖堂の中には誰の姿も見当たらない。
けれど、ルニアはその声を知っていた。
その声を覚えていた。
「どんな理由があったって、自分を言い訳にしちゃいけないんだ。そうやって自分を否定することは、自分の周りの大切な人達も全部まとめて否定することになる。それはきっと、一番悲しいことだから」
その言葉の一つ一つが胸を刺す。
しかし、不思議と痛みはない。
それどころか、暖かささえ覚えてしまいそうになる。
男の一人が扉のノブに手をかける。
音もなく静かに握り、そのまま勢いよく押し開けようとした、その瞬間。
「それに、言っただろ?」
その声は、迷いもなく。
ただ真っ直ぐに、ルニアの心に響く音で告げる。
直後に、轟音と共に聖堂の扉が外側からまとめて吹き飛ばされた。
強力な一撃の煽りを受け、男の一人が砕かれた扉の破片ごと巻き込まれて後方へと吹き飛ばされていく。
ガラガラと音を立てて崩れる入り口。
その、瓦礫の向こう側。
「…………あ」
ルニアの目が見開く。
悲しみではなく、嬉しさの涙が一滴。
乾いた聖堂の床を、音もなく濡らした。
「――俺はすでに一度、お前に救われてるんだ。だから今度は、俺の番だ」
白銀の刀身を備えた剣を構えた、一人の騎士が立っていた。
あまりにも早すぎた再会は、それでも確かに、少女にとっての最初の奇跡だった。