EP.3 聖女と聖杯(1)
クリスが目を覚ましたとき、小屋の中にフラットの姿はなかった。
彼が持ち歩いている弓や矢筒も一緒になくなっていることから見て、もしかしたら早速狩にでも出かけたのかもしれない。
「ん、あー……」
クリスは上半身を起こし、ゆっくりと背伸びをする。
起き上がって静かに小屋の扉を開けて見ると、眩しい日差しが目を焼いた。
「っ……」
思わず手で遮りながらも、少しずつ太陽に目をならしていく。
村の様子をざっと見た感じ、割と多くの人がすでに起き出しているようだった。
とりあえず顔でも洗ってこようと、クリスは小屋の裏にあった井戸で水を汲む。
そんな風にしていると、ちょうど背中から声をかけられた。
「よぉ。夕べはよく眠れたか?」
クリスが振り返ると、そこにはいつの間に戻ってきたのか、フラットの姿があった。
彼は手の中の白いタオルをクリスに手渡す。
「うん、おかげさまで。どこに行ってたの?」
「ちょいと野暮用でな。見回りがてらに朝の散歩ってところだ」
顔を拭い終え、クリスはタオルをフラットに返す。
「ところで、朝っぱらから悪いんだが」
「ん?」
「お前、これからどうするんだ? 多分、この村じゃ蒼の旅団に関しての情報は何も手に入らないと思うぞ」
「そうみたいだね。だったら、すぐにまた別の街や村に向かうよ。少しでも多くの情報を集めないと」
「…………」
クリスの言葉を受け、しかしフラットはどこか苦い表情を浮かべる。
「……どうかした?」
「……いや。なぁ、余計なお世話だってのは百も承知だ。その上で言わせてもらうんだが」
「?」
「……やめといたほうがいいんじゃないか? いくら騎士としての務めとはいえ、いくらなんでも相手が悪すぎやしないか?」
「え……」
「だってそうだろ? 調査って言ったって、核心的なことを探ろうと思ったら、それなりに火中の栗を拾う覚悟もしなくちゃいけない。それに、お前の場合は単独で行動してるわけだろ? 万が一でも連中に不穏な動きと察知されちまえば、返り討ちにされる可能性だって十分にある。この場合のそれは、命を落とすって意味だ。あまりに危険過ぎやしないか?」
「……それは」
「……悪い。大人ぶって説教するつもりじゃないんだ。ただ、過ぎた好奇心や探究心は、時に人を狂わせる。目の前の物事に集中するあまり、周りに気が回らなくなったりとかな。その結果手痛いしっぺ返しを食らったやつらを、俺も何人か見てきたからさ」
「…………」
「……いや、すまん。くだらないことを話しちまったな。考えて見れば、俺にそんな口出しをする権利はどこにもないわけだしな。忘れてくれ」
「……フラット」
「ん?」
「ありがとう。心配してくれてるんだろ?」
「いや、まぁ……そりゃな」
「フラットの言ってること、きっとほとんど間違ってないよ」
「だったら、どうして……」
「それが俺の立てた、誓いだから」
「誓い……?」
「……騎士とは、守るべき者のために剣を振るう者。その生涯を剣と共に生き、剣と共に死ぬ者。剣は己を守る武器ではなく、誰かを救うためのもの。剣は血を流す凶器ではなく、誓いを胸に刻むもの。騎士が剣を振るう理由は、失いたくない大切な何かを守るため。だから、どんなことがあっても自分から剣を捨てるな。騎士なんて、それしかないのだから」
「…………」
「……ずっと昔、ある騎士が俺に教えてくれた言葉だよ。そして、俺が騎士になった理由でもある」
「クリス……」
「今の俺にはまだ、この言葉の本当の意味を理解することはできない。けど、いつかきっと分かるときがやってくるって、そう信じてる。そうなったとき、俺は初めてあの人に追いつけるんだと思う。だから、今はどんなことでもいいから自分の足で動いて、見て、知っておきたいんだ。どんな小さなことでもいいから、できることからやっていこうって。そう、決めたんだ」
「……そっか。分かった」
言って、フラットは小さく笑った。
「さて。それじゃそろそろ朝飯にしよう。食うだろ?」
「……うん」
簡単な朝食を済ませ、クリスは身支度を整える。
まだまだ太陽は低い位置にいるが、いつまでものんびりとしているわけにもいかない。
「色々とありがとう。料理、すごくおいしかったよ」
「ああ。お前もこの先、気をつけてな。ところで、このあとはどこへ向かうつもりなんだ?」
「んー、特に目的地は決めていないんだけど……」
言いながら、クリスは荷物の中から地図を取り出す。
「近場だと、一度街道の分かれ道まで戻って……この道を真っ直ぐ言った先にある、このオージスって街かな」
「港の玄関口、オージスか。確かにそこなら、大陸中のあちこちから行商人達が集まる場所だし、旅団に関する情報も何か掴めるかもしれないな……ん?」
と、地図を見ていたフラットがふと疑問そうな声を出す。
「どうしたの?」
「いや……オージスに通じてる街道の途中に一ヶ所、川を越えるための橋あるんだ。だが、確かそこは一ヶ月くらい前に地盤が緩んで崩れちまって、今でもまだ修理が終わってないって話だったはずだ」
「え、本当に?」
「ああ、確か……っと、ちょうどいい。本人に聞いてみるか。おーい、ジント!」
フラットが誰かの名を呼んで手招きすると、それに気づいてか一人の男がこちらへやってきた。
「何だよ、何か用かフラット?」
「いや何。ちょっとお前に確認したいことがあってな。ほら、街道の先にある橋のことだよ」
一通りの説明を受けて、ジントと呼ばれた男は答える。
「ああ、そうだよ。三日前に俺も様子を見に行ったが、まだ修復は終わってなかったな。あの様子じゃもうしばらく時間がかかりそうだったぜ」
「そうですか……」
「アンタ、オージスの方に行くつもりなのかい?」
「あ、はい」
「そうか、そりゃ運が悪かったな……っと。おいフラット。そういえばあっちの道はどうなんだ?」
何かを思い出したようにジントが言う。
「ん? あっちの道?」
「ほら、大分遠回りにはなっちまうけど、森の奥にある吊り橋を超えて山を下っていけば街道の反対側に出るだろうが」
「あー、そういえばあったなそんなのが。けど、あそこはなぁ……」
「何か問題があるの?」
首を傾げるフラットにクリスが聞く。
「いや、別に大した問題じゃないんだが……」
歯切れの悪いフラットに代わり、ジントが補足する。
「吊り橋を渡った向こう側の森は、教会側の管理下にあるのさ。だから、そっちでは俺達も狩をすることはできない。けど、向こう側には猪の住処が結構あるらしくてな。昔はこっそり目を盗んで狩に行ったりもしてたんだが……」
「くそ、教会の連中は頭が固すぎなんだよ。二言目には神聖な場所で血を流すなだのどうのこうのと。狩人が獲物を求めて何が悪いんだっつーの!」
「ま、そういうわけだ。教会側の連中も、俺達のことを少なからず目の敵にしてる節があってな。今のところは特に大きな問題にまで発展はしてないが、何かあればそれをきっかけに連中は言いがかりを付けてくるだろうさ。こんな山奥に教会まで立てたりして、ご苦労なこったよ」
それだけ言い終えると、ジントは再び村のどこかへと去っていった。
「で、どうする?」
「んー……」
「正直、俺はあんまりおすすめしないぜ。とはいえ、街道が使えないんじゃそっちを使うしかないか……。まぁ、教会側の連中も街道のことは知ってるだろうし、普通に通り過ぎるだけなら問題はないとは思うが……」
「どっちにしろ、選択肢はそれしかないみたいだ。今から急げば、日が暮れる前には山を下って街道まで行けると思うし」
「……ま、この際贅沢は言ってられねーか。ちくしょう、お高くとまったあの聖職者気取りどもめ。いつかケツに矢をお見舞いしてやる」
「あ、はは……」
割と目が本気だったので、冗談に聞こえないのが怖いところだ。
フラットや村の人々に別れを告げ、クリスは街道へ出るために森の道を行く。
カルネアの村に来る途中に迷ったこともありやや不安もあったが、どうやら吊り橋までの道はほぼ一本道なので迷うことはまずないだろうとのことだった。
吊り橋を渡って教会側の管理地区に入ったら、念のため街道に続く道を確認しておいた方がいいだろう。
そんなわけで、クリスは森の道を歩く。
改めて見ると、ずいぶんと大きな森だった。
とてもじゃないが街道の道からそのまま繋がっているようには思えないが、フラットの話によるとクリスの持っている地図自体が古いものらしく、そういう意味で多少なりとも食い違いもあるのだろうとのことだ。
右も左も同じにしか見えない景色がどこまでも続く。
クリスの他に周囲に人影はなく、この道自体があまり頻繁に使われてないということを意味していた。
今日はいきなり猪に襲われることなどなければいいなと、クリスは内心でやや不安だった。
が、それも考えすぎだったようだ。
「あれかな?」
しばらく歩くと、目の前に吊り橋の姿が見えた。
橋自体の長さは二十メートルほどといったところだが、崖下までの高さが十メートル近くある。
その下には流れが遅くもなく速くもない川が流れているだけだが、落下すればひとたまりもないだろう。
最初の一歩を橋の上に乗せた途端にギィという心許ない音がしたが、橋そのものはかなり頑丈に作られているようだ。
だとしても、のんびりと景色を楽しむような余裕などはない。
クリスは足早に吊り橋を渡り終え、続く森の道を歩き出す。
そのまましばらく歩いているうちに、クリスは景色に変化に気づいた。
今まで歩いてきた道とは違い、こちら側の道は人の手が行き届いているのだ。
道らしい道の上は砂と砂利で覆われており、そうでない場所には草木が生い茂っている。
おそらくはフラットの言っていた教会側の人間が、歩きやすくするために手入れをしているのだろう。
フラットは教会側の人間を毛嫌いしているようだったが、こういう対応は歩く側としては素直にありがたい。
さらに歩くと、そこにいくつかの人影が見えた。
その人影はやってくるクリスに気づいたのか、視線をこちらへと向けている。
立っていたのは二人の中年の男だった。
白と灰色を基調とした修道服のような身なりのそれは、一目で教会関係の人間であることが伺える。
「旅の方ですか?」
そのうちの一人が、柔和な笑顔でクリスに話しかけてきた。
「え、まぁ……そんなところです」
「こんな山奥まで、さぞ大変だったでしょう。もしよろしければ、この先に私達の教会があります。そこで少し休んでいかれてはいかがでしょうか?」
言いながら男は道の先を指差す。
すると、そこには真っ直ぐに続く道とは別に横道が見える。
そのさらに先には、一体どういう理由でこんな場所に建てたのか、教会の屋根にある巨大な十字架が天を仰いでいた。
「こんなところに教会が……」
「おや、ご存知ないのですか?」
呆気に取られたクリスを横目に、男は言う。
「この森は古来より、聖地として崇められていた場所なのです。古い記憶によれば、何でも人の身でありながらその内に神の力の断片を宿した『聖女』が生まれた地であるとか」
「聖女……?」
「興味がおありでしたら、ぜひ一度教会へ。詳しい資料なども揃ってますよ」
「はぁ……」
特別そういうものに興味があったわけではないが、確かに歩き続けで疲れが出始めているのは確かだ。
ここからさらに山道を下ることも考えると、少し休憩した方がいいかもしれない。
少し考えた末、クリスは教会へと続く道を進む。
と、そこには何人もの人達がいた。
石造りの階段を上った先には腰を下ろして休める場所があり、そこに多くの人達が訪れていたのだ。
多くの人々は石碑や石像などを興味深そうに眺めたり、厚みのある本に目を落としている。
そのまま先に進むと、そこには確かに教会の入り口があった。
開け放されたままの扉をくぐると、そこには小さめではあるが聖堂があった。
教壇があり、信徒が腰掛ける椅子があり、不釣合いなほどのステンドグラスまで備え付けてある。
「本当に、教会だったんだ……」
半ば半信半疑だったクリスだが、さすがにこれは教会以外の何物でもない。
とはいえやはり気になるのは、どうしてこんな場所に教会を建てたのかということだった。
「さっきの人は、聖女がどうとか言ってたけど……」
正直なところよく分からないというのがクリスの率直な感想だ。
神様を信じるか信じないかと聞かれれば、正直どちらでもないと答えるだろう。
一通り教会の中を見終えて、クリスは外に出る。
が、腰を下ろして休もうにも、辺りの椅子には空席が見当たらなかった。
仕方ないので、クリスは教会の裏手にある日陰に腰を落とした。
いくらか涼しいし、どの道長居するつもりもないので問題はないだろう。
と、そんなときだった。
「っ!?」
ガサガサと、近くの茂みの中で何かが動く気配があった。
クリスの頭の中を一晩前の出来事が甦る。
「っ、冗談じゃない!」
小声で言いながら、その手は懐の剣の柄をしっかりと握り締めていた。
また猪にでも襲われるのかと、少なからず警戒をする。
ガサガサと、茂みの中が動く。
ゴソゴソと、その動きが徐々にクリスへと近寄ってくる。
そして、ガサリと音を立て
「……………………」
「……………………」
茂みの中から出てきたのは、一人の少女だった。
「「――へ?」」
クリスと少女は、ほぼ同時にそんな間の抜けた声を出した。
そんな二人の間を、涼しげな風だけが通り抜けていく。